6.初体験
「ん? 敷いてくれれば自分でやるよ」
「……」
狛の顔から笑みが消えた。ニコニコと満面に笑みを浮かべていた彼の顔から流れるように喜色が抜けて、能面のようになったと思えばそこから今度は青ざめた顔が出てきた。握られた新しいタオルもその手からずり落ちそうになっている。
タオルを取って戻り、喜び勇んでハカセの側に座り込んだ狛に待っていたのは、それほどショックな一言だった。
ライトはそんな狛を見て自分の口元を抑えた。そうしてプルプルと肩を震わせている。
狛がハカセに言う。
「ま、まーそう言うなよ。人にやってもらった方が拭き残しがなくていいだろ?」
「ふむ。たしかに。――それじゃライトにやってもらおうかな」
「……」
「ぷひゅっ」と空気の漏れる音がライトの口から聞こえた。彼女は慌てて手で抑えたが、狛はキッと彼女を睨みつけた。
「何がおかしいんだよ!!」
「ふふ。いやーホントに博士のこと気に入ったんだなーって」
「んなっ!?」
狛の顔がパッと赤く染まる。ハカセを見ると、鼻を両前足で抑えて小さくプモプモ鳴らしている。どうやら彼も笑っているようだ。
「すまない、狛少年を待っている間に少し話をしてね」
「ねー。かわいい? 博士かわいい?」
嬉しそうにライトが聞く。
狛はプイッと他所を向いた。
「知らねー!」
「ッキャー! 拗ねてるー! カワイイーー!!」
つれない返事にライトは頬に手を当てて、ますます嬉しそうだ。
鼻を鳴らしながらハカセが言う。
「やれやれ。狛少年も素直じゃないね。――ハイどうぞ」
彼は四足を下に付いて体を伏せ、お尻を上げた。
「お尻からゆっくりと持ち上げて、一足ずつ拭いてくれ」
「だ、だっこさせてくれんの!?」
「うん。からかったお詫びに。……一応言っておくが僕は尻の軽いうさぎじゃない。これは特別なことだよ」
「――緩いから軽いんじゃないかな」
「ライト、今は黙っていてくれ」
ライトの言葉は幸か不幸か狛に聞こえていなかった。なにせ彼は震えていた。体全体が小刻みに震えていた。まさか抱っこできるなんて、彼はそこまで望んでいなかった。だから歓喜と緊張に震えた。ついでとばかりに息も荒くなる。
「はぁ、はぁ、ングッ! ッハァ。だ、抱くぜ!」
「優しく頼むよ」
「……」
ライトは黙ってその様子を見ている。
狛の手のひらがおずおずとハカセのお尻に触れる。真っ白な綿毛のふわもこ感触に「ふおぉぉ」と狛の口から声が漏れ、しかしピタリと動きが止まる。彼は気付いた。
――ど、どうやって抱けばいいんだ!?
そう、狛はうさぎを抱いたことがなかった。そもそも動物を抱いたことがなかった。彼が動物に近づこうとすると、いつも逃げられてばかりだったから。
狛はほとんど血走ったその鋭い眼差しをハカセのお尻に向ける事しかできない。
「……ハァ……ハァ」
「抱かないのかい狛少年? 君からねちっこい視線と息遣いを感じるのだけど、一向にその気配が無い」
「いやいやいや! 抱っこする! するよ!!」
「……。緊張してるの? もしかして初めて?」
ライトがそう聞くと、狛が即答する。
「ん、んなわけねーし! 抱きまくりだっつーの!!」
彼のいけない癖が出た。
やってしまったと自分で勘付いたものの、狛はここから止まれない。
――抱いたことないなんて言ったら、抱っこさせてくれないかも。
抱いた経験がない人に抱っこされるなんて、プライドの高そうなハカセの事だから嫌がるかもしれない。それに何より恥ずかしい。だけどどうしても抱っこしてみたい。
そんな思いが狛の中に渦巻いていた。
そして耳のぺたんと伏せられた狛に、ライトが言う。
「素直じゃないなぁ。――ほら」
ライトは狛の背後から覆いかぶさるように屈むと、狛の腕を掴んで強引にハカセの体に沿わせた。
「えっえっ!?」
「ほら、こうやって胸に抱きかかえるようにして」
させられるがまま狛はハカセを抱き上げた。柔らかな白毛の気持ちよさと、生命の持つ温かみと拍動が彼の体に伝わる。
――すげー。
ふわふわの白毛の奥のぷにぷにのお肉の感触。少し力を入れただけで形を変えてしまう柔らかいのに芯はしっかりしている。そんなハカセに狛は息を飲んだ。
ハカセは精巧な動物ロボットだった。まるで本物のうさぎのよう。といっても、狛には比べようがないが。それでも狛はハカセを抱っこしたことで、動物を初めて抱っこできたと思った。
そして意外なほどあるその体の重みに、ハカセを抱っこしたまま立ち上がろうとした狛はバランスを崩した。
「おっ!?」
「おっと! 大丈夫?」
それを柔らかく受け止められて、狛はますます茹で上がった。そのカチコチに固まった表情とそして耳を認めてライトが言う。
「うん! 大丈夫だね!」
狛はただ頷きで返した。
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