終わらぬ夜に、夜明けを捧げるならば (仮題)

夏野陽炎

#regret

 嫌な夢を見た。

 思い出したくもない夢を見た。

 遠い昔のようで、つい最近のことだったような、何年か前の夏のできごと。

 どうにもならなくて、自分が壊れかけていた頃の記憶の再生。再現。

「…………っ」

 額にうっすらと浮かんだ汗を手で拭う。半覚醒の意識が少しずつもとの形に戻すように、現実の記憶へすり替えられていく。寝る前に回していた扇風機はまだ回っている。

 胸で呼吸をするように、冷まされた空気を深く吸い込んで、消えそうな夢の中のできごとをもう一度振り返る。思い出したくなど、ないはずだったのに。

 夢を見た。夢を見たという記憶はある。あの人が出てきた覚えはある。けれども、目の前で前髪をかき分ける仕草と、優しくおれを見ていた感覚までは取り戻せない。体験した記憶という残滓だけが、虚しく反芻された。

 けたたましく鳴く蝉の声が吹き抜ける家の中には、おれしかいなかった。携帯電話を起動すると、時間は既に昼前になっている。いくつか通知が届いていたが、大したものは届いていない。

 今は離れたはずの実家に戻ってきて、何日かが経った。人生最後の夏休み、限られた時間を有意義に使うわけでもなく、家族以外とは顔を合わせず、ほとんど家からも出ないまま、自堕落な帰省生活を送っている。

 誰に会うためでもない、目的があったわけでもない。古びた電車の中で何度も考えたが、自分がどうして帰ってきたのかもわからなかった。手が勝手に荷物をまとめて、足が勝手に改札へ向かい、初めてアルコールを摂取した時のような朦朧とした意識の中で、故郷への切符を手にしていた。ただ一人暮らしの面倒事を少しでも減らしたかっただけかもしれない。結局わからないまま、いくつもの乗り物を乗り継ぎ、何時間もかけて、少しの変化もない寂れた町に帰ってきた。

 冷蔵庫の中にあったお茶を一杯飲むと、また深呼吸して、天井を見上げた。ちょっとだけ頭の中がすっきりする。

 町を離れさえすれば、何かが変わると思っていた。幸い、阻むものも止めるものもなかったから、離れること自体は簡単に叶った。それでも、おれは変われなかった。自分から変わる気もさらさらなかった。どうにかなると思って、何かがおれを変えてくれると思って、ある日突然、またあの人と同じような人が現れるのを願っていただけだった。そのまま三年間が過ぎて、残された時間はあと一年足らずになってしまっている。

 あの人が去ってから、おれが積み上げてきたのは後悔だけだ。自分だけが可愛く、他人のことなど意に介さず、世間を恨み、自己の精神だけを寵愛してきた愚かさ。目の前で起きていることにも気づかず、失ってから後悔する。猛省、自己嫌悪のループ。

 自分のことを愛してと、あの人は言った。そして曲解した。

 つらいことは吐き出していいと、あの人は言った。そして慢心した。

 誰もいなくなっても、わたしがいると、あの人は言った。そして勘違いした。

 強い日差しの裏にある影に気づかないままで、おれはその優しさに甘え、静かに依存に似た感情すら覚えた。きっと、それ以上の気持ちすらあった。

 おれが孤独を強いられて、周りに誰もいなくなっても、これから先もずっと、あの人がいることを前提とした白昼夢。あっけなく消えてしまうとも知らず、終わりなど信じるはずもなく。そして唐突に、夢から覚めると知るわけもなく。

 ふと、壁にかけられているカレンダーの日付に目をやる。家族が書いたであろうメモが書かれていて、見覚えのある字面が残されていた。

 お茶以外のものを胃に入れないまま身支度を整えて、窓の外の景色を見る。日差しが照り尽くすひび割れたアスファルトの上には、果てまでに青が広がり、変わらない町の様相。何度も見てきたはずなのに、今やかすかな郷愁すら感じる。

 おれは、きっと遅かれ早かれ向き合わなければならないのだろう。この町で起きたことも、出会った人のことも、去っていったことも、すべて。今はまだ曖昧とした忙殺される日々の前に、はなむけを届けなければならない。

 ショルダーバッグの中には財布と携帯、そして書きたての、一言だけしか書かれていない手紙が入った封筒を詰める。戸締まりを終えた家を出て、いくつかの場所へ向かった。

 人など滅多に立ち寄らない小高い山の途中にある、町を見渡せる場所。かつておれたちが腰掛けていた場所には、草が生い茂っていて、その余地はもう失われていた。

 灼けた防波堤の続く、霞がかった水平線を見渡す海岸。瞼を閉じると、手に持っていた花火の閃光の色が今でも思い出されるが、あの時散った火花の痕跡など、残っているはずもない。

 放課後に話していた空き教室。窓から差し込む西陽に、カーテンをすり抜けた風が、あの人の髪を揺らしていた。卒業してから一度も足を踏み入れていないし、今はもう足を踏み入れることすら許されない。

 町は変わらないが、いずれも過ぎ去った時間には容赦ない現実を突きつけていた。あの日々はお前だけが見ていた夢なのだと、囁くように。

 怠惰な生活を繰り返していた足は、既に棒になっていた。夏の熱気にさらされた体は限界を訴えていたが、どうしても最後に行かなければならない場所がある。時刻は既に夕暮れで、少しずつぼやけた電灯が点き始めた。

 空に茜色に広がる中、町の中で一際人の出入りが少ない場所へ向かう。並んでいるのは、加工された御影石。要するに墓石で、墓場だ。ほとんどの墓が苔むしていて、きっと掃除すらろくにされていない。その中で真新しい墓石が、ぽつりと立っている。それでも、その下で眠る人はやたらに目立っていることなど、気に留めることはないだろう。

 おれが直視すべき現実。思い出だった人。この町で出会い、そして失った人。愚かさゆえに気づくことのできなかった影。あらゆる思い出のすべては、その魂は、きっとここに眠っている。

「リサ先輩、お久しぶりです」

 返事など、あるはずもない。絞り出した声は、風の音や蝉の鳴き声に打ち消されていく。その場にひざまずき、言葉を続ける。

「おれ、帰ってきました。元気にしてましたか。そっちはどんな感じなんですかね。こっちより、涼しかったりするんですか。……先輩がいなくなって、あれから何年か過ぎました。あの夏から、何年も……。あの頃が懐かしくなって……いや、多分先輩のこと思い出したくて、いろんなところに行ってきました。初めておれに声をかけてくれた場所とか、ふたりで花火をしたところとか……いろいろ行ったんです」

 あの日々は本物だった。それがまやかしだと貶されても、おれにとっては本物の日々だった。

「先輩のおかげで生きてるんですよ、おれ。一番どうしようもない時だったおれを……。だから、指先向けられても、あいつが悪いってボロクソに言われても、まだこうしてのうのうと生きてられてるんですよ、リサ先輩。大したことやれてないし、受け身で講義聞くくらいのことしかできてないし、ドラマみたいな大学生活なんて送れてないですけど、でも、どうにか、生きてるんですよ。それで……その間、どうにか先輩のことを忘れようとしました。頑張って、全部忘れて、おれは町を出たらきっと別人になれるんだって思い込んで。でも、どれだけ難しい話を聞いても、慣れない酒なんて飲んでも、先輩のこと、忘れられないんですよ……。今だってそうなんですから。おれ、情けないかな……。結局変われなかったんです。何もかも。リサ先輩、今日も夢に出てきたんですよ。あの頃みたいに笑ってて……それで、おれはやっぱり、先輩のことを好きだったんです。なんで、あの頃に言えなかったかな、こんな簡単なこと。それで先輩の選ぶ道が変わったかはわからないですけど、でも、おれは言っておくべきだった、ちゃんと。そうじゃないと……ほら、やっぱり後悔するから。先輩がどう思ってたかはわからないけど、それでも、こんな場所で、こんな形で言うべきじゃなかった。ああ……だから忘れられなかった。ずっと、今でも、後悔してる……。変わってしまって、いつか先輩のことを忘れてしまうのが、怖かった……。先輩の面影も、先輩への気持ちも、全部時間が忘れさせてしまうのが嫌だった……」

 溜め込んでいたすべてを吐き出した。我慢していた感情を土の下へ眠る人へ届けようと。

「今日、先輩と一緒に行けなかった祭の日なんです。先輩、いつまで経っても来ないんですから……。それで、灯篭流しがあるから、短いけど、そこで手紙を一緒に流しておきます。リサ先輩、ちゃんと読んでくださいね」

 沈んでいく陽と土の下で眠る先輩に向けて、しばらく手を合わせる。

 おれはきっと、これからも先輩のことを何度も思い出す。楽しかった思い出と、後悔の日々を同時に重ねて。失った誰かの日々を代わりに生きるのだと錯覚して、身勝手に生きていくだろう。それが唯一の罪滅ぼしだと思い込んでいるから。

 日が沈みきった頃、人が集まった川には、いくつもの暖色の灯りが流れていた。そのすべてがこの世を去った人への餞であり、その中に紛れ込ませるように、少し離れた場所から、短い文章の書かれた手紙を流した。既に声の届かぬ場所へ逝ってしまった人へ、ほんの少しでもいいからと、言葉を届けるために。

 夏の夜に溶けていく白い封筒を見送り、帰るべき場所へと向かった。

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終わらぬ夜に、夜明けを捧げるならば (仮題) 夏野陽炎 @kagero_natsuno

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