山百合のひと

きさらぎみやび

山百合のひと

 山百合のような人だな、と思った。


 彼女に出会ったのは会社の登山サークルだった。

 とは言ってもそこまで本格的なものではなく、せいぜい数人で近くの手ごろな山を登る程度のものだ。その時都合がつく人間だけが集まる形だったので、メンバーはいつもまちまちだったのだが、自分が参加するときには決まってその女性がいた。


 美しく、そして物静かな人だった。


 確か名前は、芳野さんといっただろうか。


 グループの輪からは少し距離をおいて、俯き加減で静かに山を登っているのが印象的だった。誰かとペースを合わせるでもなく、黙々と自分の速度で登っていく。

 まれに彼女を追い抜くときは、ふわりと甘い芳香が鼻をくすぐった。香水というには薄く、体臭というには強いその香りは、まるで花の香りを放っているかのようだった。それは山を登っているときに時折漂ってくる山百合の甘い香りを連想させた。


 そう、山百合。

 花の重みで首を垂れている様は、自らの美しさに押しつぶされそうなふうにも見えて、彼女の印象そのままだった。


 何度か一緒に山を登ったと思う。

 その度に、まるで山百合のようだという印象を強くしていったのだ。



 そして何度目かの登山の日。集合場所に彼女は居なかった。

 気になって彼女と同じ部署の人間に聞いてみると、先日退社したのだと教えられた。退社の具体的な理由は送別会では一言も述べられなかったそうだ。ただ一身上の都合、とのみ。


 口がさの無い者たちの間では、資産家に見初められての寿退社だ、いや貧乏学生との駆け落ちだなどともっぱらの噂だったそうだ。しかしとてもそんな気はしなかった。もちろん彼女と会うのはいつも山の中だったから、普段の様子はわからない。だが山の中での彼女の様子を見るに、そもそも他人と深い関係を結ぶような人にはとても見えなかったのだ。どうにも浮世離れしていて、それこそ山百合の精が気紛れに人里に紛れ込んだかのような雰囲気を纏っていた。

 いずれにせよ、いまさら確かめるすべも無かった。


 ただ、その後、一度だけ山で彼女と思しき人物を見かけたことがある。


 サークルとは関係なく、一人で訪れた登山の途中。自分の歩む少し先を、真っ白な帽子をかぶり、俯き加減で歩く姿が目に入ったのだ。

 背格好でいえば特別目立つ人ではなかったから、人違いの可能性もおおいにあったのだが、不思議と彼女だという確信があった。


 その人は一人で黙々と歩いているが、すれ違う人は軒並み一度は振り返る。それは何度か一緒に登ったときもそうだった。もしかしたら、彼女にはそれは苦痛だったのかもしれない。


 しばらくはその人の後ろでペースを合わせてゆっくりと歩いていたのだが、ふと進行方向を見上げるとその姿がない。


 気になってあたりを見まわすと、登山道を外れ、道なき山中にちらりと白い帽子が揺れているのが見えた。

 遭難でもしていたら危ないと思い、後を追って登山道を少し離れて追いかけてみるが、いくら探せども見当たらない。あたりをうろうろと彷徨ううちにふと漂ってきた甘い香りに振り向くと、そこには山百合が一つ、静かに花を咲かせていた。



 山百合の俗信は総じて不吉なものが多い。

 屋敷に植えると主人が亡くなるとか、病人が絶えない、親が死ぬなど縁起のよくない話が並ぶ。それは山百合の美しさが、幽玄としたものであったからなのかもしれない。

 山に咲いているからこその山百合。

 人里にはなじまないその高貴な出で立ちは、俗世の私たちにはとても触れられないものと思われたのではないだろうか。



 しばらくあたりを探しまわったが、どうにも人の気配は感じられず、彼女はそのまま山に消えていってしまったかのようだった。甘い香りを放ち、人を惹きつけるが、しかし人の生活には入れてはいけない花、山百合。


 それからというもの、登山の道中にて山百合を見かけるたびに、いつもあの人のことを思い出す。


 どこかの静かな山で、昔のように俯きがちに憂いを含んだ表情で山道を歩いている気がなぜだかいまでもするのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

山百合のひと きさらぎみやび @kisaragimiyabi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ