第20話

 家に帰ってすぐ部屋に戻り、枕を顔に押しつける。

「なんで、あんなことを言っちゃったんだ」

 自分のくぐもった声が聞こえる。

 直結をすることが自分でも驚くほど嫌で、それで、あんな態度を。

「あんな別れ方、したくなかったのに」

 


 雨宮がこの町を去る前日。僕は母に言われた通りに昔の感情ファイルを新しい保存形式に変換していった。それは単調で骨が折れる作業だった。

「どうせ明日休みなんでしょ?」

 確かに母が言ったように特に予定があるわけでもない。ちらりと時計を見る。時間は午後10時を示していた。明日の午前9時の新幹線だと雨宮は言っていた。

 雨宮とはあれから連絡をとっていない。メールをすることも、電話をすることも躊躇われた。

 僕は家族が寝静まったあとも自分の部屋に戻って作業を続けた。

 単調な作業は気が紛れてよかった。

 一つ一つのファイルを変換していく。それにしてもと思う。昔の自分の感情を体験しながら思うことはどの感情も単純というか、今と違って曖昧な部分がない。嬉しい感情はとことん嬉しくて、怒っている感情もひたすらに怒っている。

 自分の子供の時の感情はそこまで多くなかった。

 夜が更けていく。時間も忘れて感情ファイルをいじり続けた。

 眠気が襲ってきた。目をこすりながらキーボードを操作する。

 それにしても何を僕は焦っているのだろう。眠るよりもとにかく何かをしていたかった。焦燥感に似た感覚が迫っていた。

 何を探そうとしているんだろう。

 ……。

 まどろんだ意識が覚めてくる。

 なんだ。寝ちゃったのか。

 気づかぬ間に机に突っ伏して眠りに落ちていた。

 固まった身体をほぐすために大きく伸びをした。

 まだ完全には開かない目で机に置かれているある感情が目に留まった。昨日変換した後、そのまま意識がなくなったんだ。

 悔しそうな顔をしている自分の写真とともに保存されていた感情ファイル。

 メモ書きには、女の子にあげた感情と書かれている。

 なるほど。この感情を渡して女の子を泣かしちゃったんだな。

 どんな感情を渡したんだろう。

 怒っている感情だろうか。それとも薄気味悪い奇妙な感情だろうか。

 感情ファイルを開く。

 ヘッドエモーションを通して、あの時の感情が身体全体に広がっていく。

 目を見開く。呼吸が止まる。一瞬で意識が覚醒する。

 なんだ。これは。

 いま起こっていることに思考がついていかなくて、ただ、ただ、感情を受け止めることしかできない。

 震える手で写真を持つ。途端に奥底にしまわれていた記憶が噴き出してきた。

 まさか。そんなことがあるのか。

 僕は確かめるためにもう一つの感情ファイルを開く。それは、雨宮からもらった感情だ。

 10年以上前に、雨宮が誰かからもらった感情。

 信じられない。

 でも、間違いない。

 この二つの感情は同じだ。

 ファイルを精査する。識別番号はないが、保存された日にちは一致している。それは今から11年前のものだった。

 雨宮の両親が死んでから一年後。

 そうだ。雨宮が、あの時、僕が感情ファイルを渡した女の子なんだ。

 僕は勢いよく椅子から立ち上がった。

 雨宮に会わなくては。

 時計を見る。

 時間は午前8時を過ぎていた。スマートフォンで電車の乗り継ぎを調べる。

 だめだ。新幹線の発車時刻には間に合わない。

 スマートフォンを操作して佐藤を呼び出す。

 二回のコール音のあとすぐに繋がった。

『おう。どうした?』

『バイク乗せてくれるって言ってたよね?』

『ああ?』

『今から駅まで行ってくれない?』

 少しの間があった。

『わかった。五分後に下に行く』



 すぐにバイクのマフラー音と共に佐藤が現れた。ヘルメットを渡される。

「彼女より前にお前を乗せることになるとはな」

 佐藤はがっかりした表情で言った。

「予行練習だと思ってさ」

 僕につられて佐藤も笑顔になる。

「飛ばすぞ」

 後ろに跨るとすぐに佐藤はバイクを発進させた。

「雨宮に会うのか?」佐藤が大きな声で訊いてきた。

「うん。道わかる?」

「あたりめーだ」

 佐藤はそう言うとバイクのスピードを上げた。

 記憶が次々と蘇ってくる。

 そうだ。昔。10年以上前。僕は雨宮に出会っていた。

 両親に連れられて妹と四人で行った『こども科学ESS博物館』。

 僕はそこで一人の女の子と出会った。

 子どもみんなが笑顔で楽しんでいる中、ひとりその子の表情は曇っていた。

 それがどうしようもなく僕は気になった。

 こんなに楽しい場所でどうしてそんなに悲しい顔をしているんだ。

 白いワンピースを着ていて短い髪の女の子は、ずっと下を向いて時折地面に積もる埃を蹴とばすように足を動かしていた。 

 僕は彼女に笑って欲しかった。

 自分の嬉しい感情を彼女にあげたかった。

 だから、ヘッドエモーションの体験コーナーに彼女を誘ったのだ。

「あのさ」

 彼女は、小さかった頃の雨宮は僕を見るとちょっと怯えたような顔になった。

「すっげえいい感情があるからあげるよ」

 雨宮はきょとんとした顔をしたまま僕の言葉の意味がわからないのか、ただ黙っていた。

「だから、あげるからさ」

 僕はなかば無理やり雨宮の手を引いて列に並んだ。

 雨宮はどうしたらいいかわからないように戸惑っていた。

 僕たちの番がきて、雨宮にヘッドエモーションをつけて自分のヘッドエモーションと接続させた。直結で楽しい感情を伝えようと思ったんだ。

「ほら、これ体験したら絶対嬉しくなること間違いなし」

 きっとすぐに笑顔になると思った。

 これまで自分の感情を妹や両親に体験させたらみんな喜んでいた。

 だから、この時も同じようになると思ったんだ。

 でも、雨宮の反応はまったく違った。

 下を向いた雨宮からすすり泣くような音が聞こえる。床にぽたぽたと涙が垂れる。

「え?」

 自分が思い描いていた反応でなくて僕はひどく動揺した。

 ただ笑って欲しかっただけなんだ。

 けれど、雨宮は涙を溢れさせた。徐々に泣き声は大きくなっていき、ついに雨宮は大声で嗚咽を漏らした。

 その姿をただ黙って見ていることしかできなかった。

 あまりにもショックで、謝ることもできなかった。

 あの頃の僕はガキで、なにも知らなかった。

 雨宮の両親が亡くなってたことも、なんであんなに悲しい顔をしていたのかもわからなかった。

 だから、無神経に単純な嬉しい感情なんて渡しちゃったんだ。

 ごめん。

 ごめん、雨宮。

 謝りたい。

 そうだ。僕はずっと彼女に謝りたかった。

 でも、それだけじゃない。

 ずっとずっと願っていたこと。それは、彼女を笑顔にしたかったんだ。

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