第4話 法外な絵 下

 午前九時過ぎに博とあかねは店の中に入ると、商品たちに休業するむねを告げて、戸締まりをした。博は、ドアに取りつけてある金具に、「お休みします」の看板を下げた。


「それじゃ、看板さん、よろしくね」


 あかねは、看板の下にさらにかごをさげて、店の在庫にあったイラスト入りの絵はがきと、数個のビー玉を入れた。


「ハイ、オヤスミ、オシラセシマス」


 看板が、か細い声を出す。これも雅季とあかねが古道具屋で買い求めてきたもので、ささやかながら魂を持っているのだ。


「あなたたち、もし縁があれば、ここまでわざわざ来てくれた運のなかったお客様にもらわれてね」


 あかねは、絵はがきとビー玉をなでたが、返事はない。魂が元々ないのかもしれないが、「眠りについている」という言い方のほうが、あかねは好きだった。


「行こう、博」




 店を休みにしていくのは後ろ髪を引かれる思いだけれども、木桜大吉のことを調べた二人は、どうしても定休日の水曜まで彼を探すのを先送りすることができなかったのだ。

 JRとバスを乗り継いで二時間半。博とあかねは、山奥のバス停で下車した。登山の客がちらほらいるものの、こんなことでもなければ一生訪れないような、名前も聞いたことのない山里だった。


「うーん、あっちかな」


 スマートフォンの地図を見ながら、自信なさそうに方向を指す博に、あかねは首を振った。


「いや、きっとこっちだ」


 断言して、ぐんぐんと田んぼの中の道を歩き出す。


「おいおい、五十年間屋外に出たことがほとんどないっていうのに、ずいぶんな自信だな」


 博は、皮肉の言葉をかける。


「でもその五十年の間、わたしは人間と同じように感じて、考えて、ほかの魂あるものたちの言葉を聞いてきたんだ。その経験は、人間たちとくらべてもそんなに違わないと思うんだ」


 あかねは、胸をはる。


「それに、わたしは、わたしに関わってきたものたち、人たちの背負ってきたものも背負っていると思ってる。全部含めてわたし。決して軽くない。それはきみにも言えると思うけど」


 その何気ない言葉に、博はぐっときた。自分の人生は、自分だけのものではない。今は亡き両親や祖父母の思いも、きっといっしょに背負っている。それどころではない、すれちがっただけで記憶に残っていないようなたくさんの人の思いや心も、この体の中にはあるのだ。




 田んぼの間をうねうねと通る未舗装の長い道を抜けると、立派なブナの木が数本、集まるようにして茂っていた。


――ここから先は別の場所。


 そんなふうに言われているような感じだ。

 息をつめるようにしてその林を通りぬけると、小さな丘がそびえていて、その中腹に、小さな民家が立っていた。初夏のおだやかな日ざしに照らされて、ゆがんだ切妻屋根にのった古い瓦がにぶくかがやいている。


「あそこだよ、きっと」


 あかねは確信を持って、丘の細い道をのぼっていく。


「もしもし! もしもーし!」


 民家の前であかねが呼びかけ、博が戸をたたくが、返事はない。


「いないのかな……」

「もう、引っ越したのかもしれないぞ。舗装道路もないような不便な場所だし」


 二人は、顔を見あわせた。

 木桜大吉がこの山奥に住んでいるというのは、五年前にここに呼ばれたという友人の画家の、ブログの情報が元だった。

 木桜は古民家に暮らし、魚を釣り、絵を描き、畑に出て悠々自適の生活をしているとあったが、屋根や壁の汚れようからすると、そんなすてきな生活をしているようには見えなかった。


「すいませーん!」


 博は声を張りあげ、戸を揺らした。鍵がかかっている。雨戸もすべて閉じられて、内部を見ることもできない。


「んん……」


 あかねは玄関わきに転がっているいくつかの植木鉢に手を当てている。


「だれか、答えて。もし魂が目覚めていれば……。この家の主は、いないの?」


 返事はない。植木鉢はどれもかけたり割れたりして使えなくなってしまったもので、魂もそのとき、眠りについてしまったのだ。


「だめか……」


 そのとき、妙に重苦しい空気が二人をつつみこんだ。かびくさく、心が沈んでいくような、非常に後ろ向きの空気。あかね骨董店を始める前の自分のひどくつらかったころを思いだして、博は体を引いた。


「だれ? もしかして……この家の魂?」


 あかねが問いかけると、


「そうだ……」


 乾いた声がかすかに聞こえてきた。

 家に魂があるなど、聞いたこともない。だがどうやらこの重苦しい空気は、この古民家自体がまとったものらしかった。


「あの、教えて。この家の主は……木桜大吉さんは、ここに住んでいるの?」

「主は、いない。主は去った……」


 かろうじて聞き取れるぐらいの言葉を残すと、古民家の魂がすうっと消えていくのがわかった。


「ねえ、もう一回出てきて!」


 あかねが懇願するが、もうこたえはない。


「木桜さんはいないのか……」


 博は落胆して肩を落とす。せっかく休みを作ってここまで来たのに。

 すると、ガサガサと音がして、丘をのぼる道を人がやってきた。

 縦縞のワンピースを着て足下に注意しながらのぼってきたその女性は、二人の十メートルほど手前で顔を上げた。ひっと声を上げて飛びすさる。


「え、え、だれ?」

「あ、すいません。木桜大吉さんをたずねてきたんですが……」


 博が言いながらよく見れば、自分と同じ年か、少し年上ぐらいだ。


「お、おじは入院しておりますが」


 女性は警戒しながらこたえる。


「会わせてもらうわけにはいきませんか? わたしたち、木桜さんの描いた絵を、持っているんです!」


 博の背中に隠れていたあかねが姿を現すと、少しだけ女性の顔がやわらいだ。


「あ、はい、え、じゃあどうしよう。うわっ、とりあえずこちらへ」


 おどおどしながら、女性は民家の鍵をあけて、中に入った。

 中はそこそこかたづいていて、外側から見たほどにはひどいありさまではなかった。


「ここに、一人で住んでいるんですか?」


 博がたずねると、麦茶を二人の前に出した女性は体をびくりとさせる。


「わ! はい、わたし、おじの他に親戚はいないもので。でもいざとなったら隣の家に逃げるから大丈夫です」


 なにが大丈夫なんだろう。


「わたしたち、椿市にあるあかね骨董店の高階あかねと高階博と申します」


 あかねは自分の名刺を渡す。


「ひゃ、ごきょうだい? えと、わたしは木桜舞です。ええと、名刺名刺、名刺はないけど、農協、の方で働いてます」


 なにをびくびくしてるのだろうと思うのだが、それがこの人の普通なのかもしれない。


「さっそくですけど、これ、大吉さんの絵ですよね。この絵を、わたしたちは所有しているんです」


 あかねは、例の絵をプリントアウトした紙を取りだす。


「わ、これ!」


 木桜舞は、床に正座したまま、ぴょんととびあがった。


「これ、うちに、似た感じの、あります」


 そそくさと、舞は次の間のふすまをあけて、消えていった。


「う、ぎゃあ」


 ドタンバタンと何かを探す物音と、小さな悲鳴が聞こえてくる。


「なんていうか……変わった人だね」


 博が苦笑すると、あかねは首をかしげる。


「博は、ああいう人が好みなんだ?」

「え? いやいやいや」


 思わず手を振って否定する。だれかを好きになったことなどないので、そういう話は苦手だ。

 五分ほどして、ほこりだらけになった舞が戻ってきた。


「あの、これ、これです」


 絵も、相当ほこりだらけになっていた。ふきんで画面の汚れをそっとふきとってみるけれども、落ちそうにない。


「でも、この絵そのものだね」


 あかねは、三十年前の美術年鑑のコピーの紙を開いた。

 紫色の背景に、茶色いスーツを着た眼鏡の男性が描かれた、自画像。きっと、あかね骨董店にある絵と対だったはずだ。


「若いころのおじさん、かっこいいですよね」


 舞は胸の前で手を組んで、ぽやんとした様子で言った。


「でも、この女の人は、だれですか?」


 プリントアウトした方の紙を指す。


「奥さんじゃないんですか?」


 博は問い返す。


「え? あ、おじさん、結婚してないはずです」


 舞は首を振った。


「それも、絵のうそだったか……」


 あかねは、あごをちょっとつまんで首をかたむけた。そして、絵の中の男性と向かい合う。


「すいません、もしあなたに魂があったら、返事してほしいんですけど」


 舞が、そう言うあかねを不思議そうに見る。


「もしもし……よかったら起きてください」


 絵をそっとなでるが、なんの反応もない。


「だめか……」

「え、もしかして、絵とか、そういうのと話しちゃえる系ですか?」


 舞が、興奮したのか、こぶしをぎゅっとにぎりしめる。


「わたし、そういうの、好きなんです。座敷童とか、すてきですよね!」

「座敷童、見たことあるんですか?」

「はい!」


 博の問いに、舞は満面の笑みで答える。


「かわいいですよね!」

「い、いや、おれはさすがに座敷童は見たことはない」


 でも、あかねも、座敷童と似たようなものなのだろうか?


「うん、これはやっばり木桜大吉さんにお会いするしかないと思います。ぜひ絵を返したいので、病院を教えてもらってもいいですか? あと、この自画像とうちの絵といっしょにしてみたいんですけど……」

「あ、はい! あ、ちょっとおじに聞いてからでもいいですか……」

「どうぞよろしくお願いします」


 舞に頭を下げて、二人は古民家を後にした。




 舞からはその日の夜に連絡があり、翌日の夕方に、病院の最寄りの駅で待ち合わせすることになった。

 その夜、博とあかねは協力して女性の絵を梱包した。


「なにをするんですか!」


 絵は抵抗するように声を上げた。抵抗しようにも、まったく手も足も出ないのであるが。


「まさか、倉庫にしまうとか、無理矢理売りはらうとかするつもり? やっかいばらい?」

「まさか。そんなことするわけない」


 あかねは、なだめるように言った。


「あなたを、どうしても見てもらいたい人がいるの」


 作者の木桜を探しだしたのだということは、ふせておく。


「へえ……そう」


 なにか察したのか、それからは、だまって衝撃防止の段ボールを巻かれるがままになった。




 翌日午後四時、店を早じまいして、二人は絵とともに電車に乗りこんだ。

 病院のある駅は、上り列車で五駅先。白百合ヶ丘という、郊外の大きな駅だった。

 目の前を行きかう人混みの激しさに窒息しそうな赤い顔をして、同様に絵の包みを持った木桜舞は待っていた。


「よ、よくみなさん生きていますね!」


 開口一番、舞は言った。かなり、人混みが苦手のようだ。木桜大吉は、舞のために、あんな山奥に住んでいたのかもしれない。


「博、舞さんの絵も持ってあげたら?」

「はい?」


 あかねの提案を思わず聞き返す。


「いえ、いえいえ大丈夫です。すぐそこですから」


 と言って歩き始めた舞がいきなりよろけるので、博はあわててその絵も持ってあげた。

 自分の肩ぐらいの高さがある絵を、右手に一枚、左手に一枚。持ちやすいように中ほどに持ち手をつけているが、なかなかきついものがある。


「す、すみません……」

「いえいえ、博はこれくらいのことでしか役に立たないから」


 困惑する舞に、あかねは笑ってみせる。




 病院は、駅から五分の、十階だてのビルに入った巨大病院だった。博の持つ大きな二枚の絵には顔をしかめられたが、患者の大事にしているこの世にふたつとない絵だと言い張って、なんとか持ちこむことはできた。


「あの、失礼なことをいいますけど、あまりお金とかなさそうですよね。入院費用は大丈夫なんですか?」


 あかねがたずねる。


「え? うーん……だいぶ厳しいと思うけど。ぎりぎり」


 舞は困ったように笑いながら、二人を大吉の病室に案内した。

 四人部屋の一角に、大吉は眠っていた。


「あの、おじさん、来ました……」


 舞が呼びかけて、ベッドのカーテンをあける。


「あ、花とか買ってくればよかったかな」


 博がつぶやくが、そこに見えた大吉の姿に目を奪われ、愕然とする。

 点滴をされた大吉はやせ細り、黄色っぽい枯れ木のような肌をして、苦しそうな顔でベッドに横たわっていた。自画像の堂々とした男性の面影が、ほとんどない。


「おじさん」


 舞が呼びかけるが、なかなか目を覚まそうとしない。


「あの……だいぶ悪いんですか」


 あかねが声をひそめる。


「あ、これでも一時期よりずっといいんですよ。でも食が細っちゃって」


 舞はこれまでもたびたび来ているから、大吉の姿には違和感を感じていないのだろう。しかし博とあかねにとっては、入院した患者を見るのが初めてだったため、少しショックが大きかった。


「でも、起きて、絵を見てもらわないと」


 あかねが決意したように言った。

 女性の絵の梱包を解いていく。


「わ」


 ピカピカに磨き上げられた額と絵に、舞が小さく声をあげた。


「ねえあなた、この人があなたの作者……木桜大吉さんでしょう?」


 いつもしているようにあかねが語りかけたが、絵は無言だった。


「この女性が……おじさんの」

「はい、この絵は、奥さんだと言っていましたけど……」

「おじさん、目をあけて! 絵を見てあげて!」


 舞がぐっと手をにぎると、大吉はかすかに目をあけた。

 その目がだんだん大きくなって、いっぱいに見開かれた。


「おお、おおお」


 大吉はうめき声を上げた。絵のことが、わかったようだ。


「ま……き」

「マキ?」


 あかねが問うと、大吉はこきざみにうなずいた。


「あなたはマキさんという人の絵。けれども、それは大吉さんの奥さんの絵ではなかった。大吉さんは、ずっと今まで、独身でした。マキさんは、どんな人だったの?」


 あかねがたずねても、絵は黙っている。


「あなたが大吉さんのもとを離れたのは、遠い昔。だから、今ここで寝ている人が大吉さんかわからない。そうだよね?」


 言葉は返ってこない。


「舞さん、そちらの絵も見せてもらっていいですか?」

「あ、ええ、はい」


 舞は、もう一枚の絵の梱包を解いた。中から、若いころの大吉の自画像が現れる。舞がきれいにしたのだろう。すっかりほこりが落とされていた。


「お……おお」


 大吉はまたうめいて涙を流し、両手をふとんからあげて、拍手をするように激しく打ちつける。


「なに? どうしたの、おじさん?」


 舞があわてる。


「絵を……二つの絵をくっつけろってことじゃないか?」


 博が言うと、あかねがうなずいた。


「やってみよう。舞さん、お願いします」


 博と舞は大吉の足元に立ち、向かって左側の博がマキの絵、右側の舞が大吉の自画像を持って、額の側面をぴったりくっつける。やや左を向いたマキの絵と、やや右向きの大吉の絵の視線は、ちょうど寝ている大吉の顔のあたりで交わった。


「あ、ああああ」


 大吉は、両手を合わせて震わせる。涙にむせんでいる。


「わかったわ。この方が、わたしの探していた人であることは、まちがいありません。いつかめぐりあえると信じて。こんな状態になっていることは、さびしいですけど」


 マキの絵が、しゃべった。


「しゃ、しゃべりました……よね?」


 舞が、ぴょんととびあがる。博はうなずいた。普通の人には、ものの声は聞こえないのだが、舞は座敷童が見えるほど感受性が強い。絵の声も、聞き取れるのだろう。


「わたしは、この方によって描かれた、斎藤真紀さんの肖像画です。若い二人は恋の絶頂にありました。けれども、それから半年もしないうちに、真紀さんは一方的に別れを告げられ、このわたしとともに、世間の荒波に放り出されました」


 絵の中の真紀が、涙を流している。寝ている大吉も、絵の言葉がわかるのだろうか。涙を流している。


「最初真紀さんはわたしを手放そうとしたのですよ。サヨナラ、という傷までつけようとして。でも途中で、どうしてもできなくなりました」


 だから、絵にはサヨ、というサインのような傷が残ったのだ。


「わたしと真紀さんは、ともに生きました。わたしたちは二人で一つでした。もちろん、わたしは人間ではありませんが、いつしか魂を持ち、いつも真紀さんによりそって感じ、考えていました」


(それじゃあ、なんで今は一人なんだ)


 そう思って、博はひやりとする予感がたちのぼってくるのを感じた。


「真紀さんは、ずっとあなたを愛してましたよ、大吉さん。いえ、未練とかではありません。あなたに愛されたという思いを愛していたのです。ずっと心の中に持っていました。そうして幸せに生きて、突然病気になり、亡くなりました。残されたわたしは、遺品整理屋に売られて、いつしかこの子たちがいる骨董店にやってきたのです」

「うっ」


 博はうめき声をこらえて涙をふいた。絵はたんたんと話していたが、どうしても死がまつわる話には平静でいられない。


「せめてあなたに買いもどされて、あなたに真紀さんを思いだしてほしかったのに。もしだれかと結婚していたら、皮肉の一つでも言ってやりたかったのに」


 真紀の絵は、やせ細った大吉を悲しそうに見つめて嘆いた。


「真紀……」


 大吉がうなるように言って、せきこむ。

 大吉も結婚しようとはしなかった。ならば、ふたりは結ばれるべきではなかったのか? そんな思いが博の頭にうずまいて、また涙が出てくる。


「あの、おじさんは、真紀さんを忘れてなかったよね」


 舞が言う。


「この絵を見て、たまにため息をついていたのは、いっしょに描いた真紀さんの絵を思いだしていたからだよね……」

「……大吉は、忘れていなかった」


 大吉のかわりに答えたのは、絵の中の、若い大吉だった。


「わたしもまた、大吉の一部だ。いつも真紀を心配していた。幸せを祈っていた。再び会えるなら会いたいと何度も願った。けれども結局、自分から別れたという負い目と自尊心が、それをさせなかった。売れない画家であるという劣等感が、彼女への思いを葬った」

「あなた、しゃべれたの」


 あかねがのぞきこむ。


「今話さなければ、いつ話す……」

「ばかじゃないの!」


 真紀の絵はきつく言った。


「自尊心だか劣等感だか知らないけど、そんなもののために、最後まで本当の思いも言わずに永遠に別れるだなんて!」

「それが運命なら、運命だろう」

「ばかじゃないの!」


 二つの絵が言い争う。


「ねえちょっと絵を下に置いて、二人とも、来てくれるかな」


 あかねが、病室の外に向かいながら、博と舞を手招きする。

 二人は絵を置いてあかねの後を追う。なめらかに光を反射するリノリウムがしかれた廊下の上で、あかねは声をひそめた。


「大吉さんは、長くないかもしれない」

「え、そんな、前よりだいぶ元気になったのに」

「いや、だいぶ重い病気だと思うよ。舞さん、病院の先生から直接話を聞いたことはあるの?」

「う……ないです」

「大吉さんは、自分の病状が舞さんに知られないようにしてるんだと思う。もう、長くない。魂が眠りにつこうとしている」


 あかねはそこまで言って口を閉じた。


「そんなっ。またあの家でいっしょに暮らしていけるでしょう? わたしたち」


 舞は、信じられないというように涙ぐむ。

 あかねは、沈痛な表情で首を振った。


「ほんとか……なんとかならないのか?」

「わたしもそう思う。せっかく絵が探していた人を見つけたのに」


 あかねはため息をついた。


「本人の気持ちを考えたら、真紀さんのもとに行かせてあげるのが正解なのかもしれないけど……でもわたしはあの人の魂に、力をあげたい」

「できるのか? そんなことが」


 博が、勢いこんで聞く。


「世界に、不可能はないよ。やってみよう」


 あかねは決心して、また病室に入っていった。


「話はついた?」


 真紀の絵が、語りかけてくる。


「この方をよみがえらせるためにわたしたちの魂を使おうというのでしょう?」

「……そうなのか?」


 大吉の自画像が目を伏せる。


「その運命もまた、受け入れよう」

「辛気くさいこと言わないでください」


 あかねは、にっこりとした。


「あなたたちがどんなにすばらしい絵とはいえ、しょせんもの。ものの魂なんてちっぽけで、人間のでっかい魂は救えません。でもあなたたち二枚の絵が新しい記憶を紡ぎ出してみせたら、少しは大吉さんの魂は長生きできると思うの。もしかしたらね、この三十年苦しんだ分をいやせるぐらいの力があるかもしれない」

「わたしたちの新しい記憶?」

「そう。本当だったら本物の大吉さんと真紀さんが過ごすはずだった日々を、あなたたちが再現してみて!」

「えっ、だけど今さら。わたしは、しょせん絵だし」


 真紀の絵が照れる。


「だめ! やるの」


 あかねはほがらかに言った。


「さあ、一時退院手続きをしましょう。二人を描いた絵と、大吉さんを連れて、山に帰ろう」

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