第6話 第一章 風薫る⑥
図書室と呼ばれるそこは、行ってみると図書室というよりは書庫のような場所だった。こう、無造作に収集された感じが否めない。無造作に棚に積み重ねられた本。普通なら置いてあるようなくつろぐためのソファやらはなく、代わりに点々と丸椅子が置いてあるだけ。
全体的に冷え冷えとした雰囲気のそこに戸惑うことなく天使もといリカちゃんは入っていって、目当てのコーナーにすたすたと歩を進める。置いてかないで。
「リカちゃーん」
「なあにー?」
「暇……」
「ヨーコもなんか読んできなよ!」
リカここいるから、と言うのは図鑑コーナー。早速その小さな手に握られているのは昆虫図鑑。びっくりするほど似合わない。虫、って。あんなん触るどころか見るのも嫌いだ。
写真を直視したくないので、リカちゃんに近づくことは諦めて、自分が読めそうな本を見つけるためにきょろりと辺りを見渡してみた。積み重ねられているのは、幼児向けの絵本から、大学にありそうな知らない言語で書かれている分厚い本まで。保存状態はお世辞にも良いとは言えない古い本。利用者も、リカちゃんと自分以外には五人くらいしか見当たらない。
はっきり言って本を読むのは苦手だ。嫌いだっていうか苦手だと思う。活字が目に痛い。苦手になったのはいつだったっけ。小学校くらいの時は確か、童話とか絵本とか、高学年になればそれ向けの本を読んでいた気がする。でも中学にあがってからだろうか。評論文やらなにやら読まされるようになって、あんまり進んで本を読むことはしなくなった。
(あ、これ知ってる)
ふと目を向けた先に懐かしい絵の表紙のそれが目に入り思わず足を止めた。白い猫が出てくるシリーズものの絵本。私が通ってるあっち側の校舎では絶対に見られないもの。びっくりした。思わず手に取ろうと、自分の身長よりも高い棚に手を伸ばすが、
「いや無理すぎ……」
絵本なのに平均身長の自分でも届かない高い位置に追いやられている白い猫の表紙に手を伸ばした体制のまま呆然としていると、いきなり横からのびてきた白い手にスッとそれを取られて差し出された。
「え」
驚いてその手の持ち主を見ると、最初にふわふわの明るい金色が目に飛び込んできた。
脱色しすぎであろう明るい金のような色の髪。女の子みたいな長めのショートカットのそれは、あのとき性別の区別がつかなかった。え、この人って、
「手、振ってくれた」
人じゃない? びっくりして途中まで声に出てしまった。
突然そう言った私を訝し気に見下ろす顔は近くで見ると冷たい印象を与えた。
なんだこいつ。って目で言われているような気がする。もしかして覚えてないとか。自分から手振っといて挙句覚えてないとか、なにそれ。ちょっと面白い。
「えっとこないだの交流会で」
「……」
「……覚えて、ない感じ?」
「……」
「取りあえず、本取ってくれてありがとう」
「……」
気持ち頭を下げると、彼は一瞬困ったように眉をひそめてから、頷いた。
……あれ。
「はじめまして。ヨーコっていいます。……名前聞いてもいい?」
「………」
目をじっと見つめながら更に話しかけると、それに呼応するように訝し気な表情は困ったようなそれになっていく。
「大丈夫?」
「……」
わざと尋ねるように首を傾けてみると相手はとうとう諦めたような顔をしてから、顔を逸らそうとした。
あ、やっぱり、そうだ。予想は確信に変わって、両手をあげた。
『本、取ってくれてありがとう』
「、」
薄い茶色の目を見開いてあたしを凝視した。手話で話すのは久しぶりだった。手話と言ってもネイティヴにはほど遠く、知っている単語は僅かだ。通じただろうかと今度はこっちが不安に思っていると、
「あ」
すい、と彼の白い指が宙をなぞる。
『どういたしまして』
短い返事に嬉しくなって、思わず続け様に改めて自己紹介した。すると今度はこちらから聞く前に、彼は自分を指さしてから、ゆっくりと指文字で三文字を空中に綴った。
“ ミ ズ キ ”
「―――ミズキ」
茶色の目がこちらを振り返った。私の唇の動きをじっと見つめる。
「ミズキ」
もう一度呼ぶと少しだけ笑った。笑うと、冷たい印象が剥がれて、一気に幼い雰囲気になる。
「唇の動きもわかる?」
「……」
「すごい」
今度は意識してゆっくり話すと、理解したように頷いてくれた。
さっきは早口だったし、あんまり口開かないで喋ってたから困ってたんだなと一人で頷いていると、なにか言いたげに身動ぎされた。
その様子を見ていると、ミズキと名乗った人はしばらく逡巡してからふとポケットから小さいメモを取り出した。
『なんで分かったの?』
あ、そっか。筆談。
「なにが?」
反射的に口で返すと見ていなかったのか、また困ったような顔をされた。シャーペンを借りて『なんで分かったの?』の横に、『ごめん。なにが?』と書き加える。確かに筆談の方が会話のリズムが一定になってやりやすいかもしれない。手話があまり得意でないのを察してもらったらしい。
見上げると彼はぽかんとした顔をしてから、なぜか嬉しそうに破顔した。そして首を傾けてから自分の耳に触れる仕草をした。
ああ、耳のことか。
『知り合いに耳が聞こえない人がいたから、反応見たらなんとなく』
さらっと書いて渡すと、ああなるほど、という顔をして目を細めた。
手には読みかけらしい文庫本があって、読んでいたのに、私が困っているのに気づいて中断してわざわざ取ってくれたのか、とじわっと嬉しくなる。この人いい人だ。ひとりでニヤニヤしてると訝しげに首を傾けられた。なんだそれ可愛いな。
『続き読んでいいよ』
「……」
じいっと一瞬見つめられてから、ふいっと視線を本に落としたので思わず安堵の息を吐いてしまった。これ以上煩わせてしまうのはさすがに申し訳ない。大人しくしておこう、うん。そろりとさっき取ってもらった絵本を開くと、懐かしい絵が見開きいっぱいに描いてあった。
家に同じ絵本があった気がするけど、もうずっと見ていない。どこにやったんだろう。家族から読み聞かせてもらったかつての内容をなぞりながら、ああこの絵好きだったな、とかこの話悲しいな、と目で追っているうちに、眠くなってきた。
寝る前に読み聞かせられていたのを思い出して、条件反射的に眠気を呼び起こされたような気がしておかしくなる。まどろみながら、あまり陽の光が入らない、静謐で無機質な雰囲気のなか、長い睫毛を伏せて文字を追う男の子の横顔に、ふと非日常を感じた。
音がない世界。
かつてなんでも指先で私の名前をなぞった人を思い出した。
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