後編
そうして拓かれた武蔵野も、三百年の時を経た現代には昔日の面影を残していない。
いまの武蔵野は荒涼たる原野でもなく、農村でもなく、独歩の見た雑木林でもなく、どこまでも広がる住宅地である。
関東大震災を機に都市と郊外の境界線は西進を始めた。戦後誕生したニュータウンはシャーレ上の細胞の如く広がり、互いに結びつき、武蔵野を覆い尽くした。台地は遍く寝床となった。中央線の高架からは茫漠とした草原のように果てなく広がる人家の屋根を見下ろせる。
いまの武蔵野に区切りはない。かつての前線もない。ベッドタウンの住人たちは中央線に詰め込まれ、都心というビジネスの最前線に送り込まれている。
何故人々は都心に集まるのか。
官公庁等の公共施設が集まり、金融や経済、通信、IT、そして印刷に出版と多種多様な企業が挙ってその拠点を置くのは何故か。
近ければ便利だからである。取引先が近ければ、同業者が近ければ、自社の他拠点が近ければ、何かと便利なのである。
例えば
人が近くにいるというのは大きな意味のあることなのだ。明治から時を経て郵便、電話、インターネットと通信手段が発達した現代においてなお都心が都心たり得ているという事実が、そのメリットの大きさを証明している。
数年前、そうした常識を覆すニュースが入った。
とある大手出版社が、本社機能を飯田橋から埼玉県
信じられなかった。出版社も印刷業者も神保町から半径数km圏内にあるのが当たり前である。
都心から離れて業務に差し支えはないのか。
つい先年、そうした疑問に対する答えが出た。
きっかけは何か。そう、新型コロナウイルスである。
その流行のため、現在僕が勤務している会社では、全面的なテレワーク体制を導入している。
当初あったのは喜びと一抹の不安。毎日心身を苛む通勤が必要なくなるのはもちろん喜ばしい。だがオフィスに集まることなく業務は回るのか。結局出勤は避けられぬのではないか。
そうした懸念は杞憂に終わった。
やってみれば何のことはない。職場にいなかろうが仕事はできるのである。
三鷹の自宅にいる僕、都心に住まう上司、埼玉県在住の同僚、北陸に拠点を置く顧客、そしてベトナムのビジネス・パートナーが、毎週Webテレビ会議で顔を合わせている。海外との会議もなれば、通信元が都心の職場だろうが自宅だろうが誤差に過ぎない。
確かに人の集まるメリットは大きい。だが、決して乗り越えられないものではないのだ。
こうしてテレワークは確かにビジネスを変え、生活を変えた。
だがコロナという問題を解決したわけではない。テレワークが効果を発揮したのは通勤による満員電車という問題に対してであり、更に突き詰めれば都心一極集中という社会問題に対してである。
先に言及した明暦の大火を思い起こしてほしい。
大火が甚大な被害を及ぼしたのは、江戸という都市の無秩序な稠密化が進み、木造家屋が密集していたからである(真偽の程はともかく、都市改造のため幕府が自ら火を放ったとの言説もあるくらいだ)。
だから大火の後は武蔵野が開拓された。
新型コロナウイルスが都市部で流行しているのも、周縁のベッドタウンからビジネスマンが満員電車で集積されているからである。
だからウィズ・コロナの現在はテレワークが推奨されている。
明暦の大火もコロナも、確かに大災厄である。
だが、何れの場合においても、被害の度合いを弥増す社会問題が根底にあったことを忘れてはならない。
都心一極集中は、いつか解決せねばならない問題であった。災厄は問題から解決への進展を加速させたに過ぎないのである。
緊急事態宣言はもう何度目だろう。昨年春の頃の緊張感は薄れ、通勤電車の乗車率は日に日に増加しているようだが、それでもコロナ前の水準には達していないという。
反動はあれど、社会は確実に変わっている。
もはや都心だけが最前線ではないのである。
そもそもフロンティアとは何か。
未開拓の荒野のことか。ビジネスの最前線のことか。
そうではない。
切り拓く意志を持った人間がいる場所、そこがフロンティアなのである。
かつて武蔵野はフロンティアであった。
その後三百年、武蔵野は眠れる台地となり長らくの時を経た。
そしていま、コロナという災厄によってベッドタウンは新たなビジネスの場になろうとしている。
武蔵野は、フロンティアとして再び目覚めようとしているのだ。
武蔵野フロンティア宣言 村井なお @murainao
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