終章



 退屈な書類仕事を終えたアラストル・マングスタは大聖堂前の通りにある酒場でナルチーゾ産の葡萄酒を勢いよく飲み干した。

 近頃は書類仕事ばかりで体が鈍りそうだ。本来であればボスがやるべき仕事まで押しつけられているのは近頃またリリムが不安定になっていることと、例の件をまだ根に持たれているという二つの理由が浮かんでしまう。しかし、元々あまり視力の良くないアラストルが書類仕事ばかり受け持つのは少しばかり納得がいかない。

 ついでだから夕食もここで済ませてしまおうと品書きを探していると、すぐ隣で酔っ払いの女が店主に絡んでいた。

「んでよ、そんとき私は言ってやったんだ。『足でこの私に勝てる奴はクレッシェンテにはいねぇ』ってよ」

 絡まれている店主の方は全く気にした様子もなく、黙々と自分の仕事を続けている。

 しかし、この女、見覚えがあるような気がする。この栗毛……。

「げっ……」

 まだそれほど酔っては居なかったが、ほろ酔い気分が吹き飛んでしまったような気がした。

 隣の酔っ払いは玻璃の姉、瑠璃だった。

 正直、この数ヶ月、逢う度に攻撃を仕掛けられたり睨まれたり罵られたりしてきたアラストルとしてはこの女は苦手だ。玻璃のような懐っこさは一切ないくせに喧嘩の売り方が幼い子供と変わらない。一番対応に困る子供だ。

「瑠璃、飲み過ぎだ」

 店主は眉をひそめて言う。

 若い男に見えるが、砂漠の民のような褐色の肌は異国人なのだろう。紫色の髪、おそらく何度か話題に上がっていたジャスパーという男だ。今まであまり気にしたことがなかったが、この店はディアーナの拠点だった。しかし、そこそこ安く美味い飯が食えると評判の店でもある。最初は抵抗があったアラストルもすっかり客として足を運ぶようになってしまった。が、今日のように瑠璃と遭遇したことはなかった。

「うっせぇ。玻璃が戻ってこねぇんだよ! 私のかわいい玻璃が!」

 完全に酔っ払っている瑠璃は仕切り席を思いっきり叩く。ついには暴れ出しそうなので少しでも離れようと立ち上がった瞬間、アラストルは肩を掴まれた。

「兄さん、聞いてくれよ。私のかわいい妹は仕事に行くと言ったきり三ヶ月も戻らないんだ……」

「……そうか」

 これは絡まれるやつだ。

 だが、瑠璃はまだアラストルを認識していない様子だった。

 彼は諦めて新しい酒を注文し、大人しく話を聞く覚悟を決めた。

「あいつは間違いなくこの国、いや、世界一かわいいから誘拐でもされたんじゃねぇかって心配で……」

 瑠璃はとうとうぼろぼろと泣き出したが、周りの連中は慣れたと言わんばかりに気にしていない。それぞれ賭博や雑談を楽しんでいる。中には商談らしきことをしているやつも居るが、誰も周囲には干渉しない。ここはそう言う場所だ。

 違法な取引も誰も気にしない。

 だが、後ろから誰かが近づいてくる気配がした。

「ココア、あったかいの」

 透き通る声は聞き覚えがある。

「お帰りなさいませ。すぐに用意させて頂きます」

 先程まで淡々と仕事をこなしていた店主の態度ががらりと変わる。

 そして、アラストルの隣に気配が一つ増えた。

「……玻璃、か?」

 幻覚かと思った。記憶の中と寸分の狂いもない姿。強いて言えば以前よりも露出の多い服装ということくらいだろうか。玻璃は袖のない服が好きらしいから普段の好みなのかもしれない。

「うん」

 店主が差し出したココアを幸せそうな表情で受け取る玻璃を見て、アラストルは一瞬固まってしまった。

 こいつ、こんなに美人だっただろうか。

 元々整った顔だとは思っていたが、ふとした瞬間、独特の色気を醸し出す。

「ただいま」

 透き通る声が言う。相変わらず感情の読めない声と表情を向けられ、思わず呆れてしまう。

「……お前、全然変わらないな」

 先程のあの色気は気のせいだったのだろう。

「そう? あっつ」

 飲もうとしたココアが熱すぎたのか、必死にふーふーと冷まそうとする姿に笑みが零れる。

「元気だったか?」

「うん」

 反対側で大きな音がしたと思えばとうとう瑠璃が酔い潰れたらしい。ヘンなところをぶつけていないか、一応視線を向けて確認し、再び玻璃を向く。

「ローザはどうだった?」

「ローザ伯、とっても元気だったよ。薔薇を用意するのにちょっと時間がかかったけど。量が多すぎたから馬車を借りたの」

「ほぅ」

 よかったなと言えば、玻璃は少しばかり不満そうだ。

「馬車は嫌い」

「そうか。ところで……お前の養父マスターにはもう会ったのか?」

 あの頭のネジがいくつか足りていない男はきっと自分で送り出してもやもやしているのではないだろうか。先に玻璃と会ってしまったことで嫌がらせを受けないだろうかと不安になってしまう。

「ううん。これから。たぶんもうすぐここに来るから。マスターも仕事が終わったらここに来るの。一番強いお酒を一瓶空にして帰って朔夜にお説教されるの」

 玻璃は楽しそうに言う。少しだけ家族の日常が垣間見えた気がした。

「……そうか。それと……この潰れてるのはお前の姉貴じゃねぇか?」

 だんだんと鼾が大きくなってきた瑠璃を指して言えば、玻璃は溜息を吐く。

「……他人の振りしておこう。ジャスパー、あとでアンバー呼んで」

「それが……アンバーは今日から任務でオルテーンシアに出かけていまして……・不在です」

 店主は困ったような顔で、それでいてどこか楽しんでいるようにも見える様子で答える。

「……じゃあ放っておこう。瑠璃は重くて運べないわ」

 玻璃は興味がなさそうに言う。

 確かに玻璃は非力かもしれないが、血の繋がった姉をこの扱いでいいのだろうか。しかし、自分が運んでやるとも言えない微妙な状況に、アラストルは口出し出来ずに黙り込んでしまう。

「カロンテが言ってた。あまり過保護にしすぎるとプルトーネ様みたいなだめ人間になってしまうので時には厳しく躾けることも必要だと最近気がつきました。って」

 玻璃は大人の真似をする子供の様な口調で言う。

「……ローザ伯の地位ってそんなモンなのか?」

「うん。そんな感じ」

 面識はないがローザ伯を憐れに思う。噂を耳にする程度だが、一応国を護る英雄のひとりのはずだ。

 アラストルは溜息を吐く。

「伯爵付きの執事は優秀で過保護だけど口が悪いってマスターが言ってたよ」

「そうか」

 いつの間にか玻璃はココアを飲み干し、それから品書きも見ずに追加でいろいろ注文し始めた。品書きがあったところで文字が読めないだろうからきっと品書きに書かれていない物でも注文してしまうのだろうなどと考え、先程の店主の態度も少し気に掛かり訊ねる。

「店主とは親しいのか?」

「ジャスパー? ジャスパーは私のだから」

「は?」

 玻璃の言葉に困惑する。一体どういう意味だろうか。

 恋人だとか、そう言う話か? と思わず身構えてしまう。

 流石に恋人の居る女と一つ屋根の下で暮らしたとなると問題だ。

 しかし、玻璃の答えは予想とは違った。

「ジャスパーは私の道具。だからこの店も私の物。一番上はマスターだけど」

 玻璃は退屈そうに答える。この話題にはそれほど興味がないのだろう。

「……繋がりが見えん」

「玻璃様、あまり内部情報を堂々と教えないで下さい」

 店主が困った顔で言う。しかし、どうも表情が作り物に見えてしまう。

「アラストルだからいいの」

「よくありません」

 まるで店主が玻璃の保護者のようだと思っていると、後ろからまた聞き覚えのある声が響く。

「本当に困った子ですね。玻璃は」

「あ、マスター! ただいま」

 帰ってきたのは養父の方だと言うのに、玻璃は嬉しそうに彼の方を向く。

「お帰りなさい。ローザはどうでしたか?」

「暗くてじめじめして過ごしやすかった」

 まるで旅行から帰ってきた子供の様に報告する姿は微笑ましい。が、内容はかわいらしさの欠片もない。

「それはよかった。僕は行きたいとは思いませんが」

 笑顔でさらりと言う赤毛の男に、アラストルは思わず姿勢を正しそうになる。どうもこの男は苦手だ。

「瑠璃はまたこんなところで……弱いのですからほどほどにしなさいといつも言っているのに……ジャスパー、後で部屋まで運んであげて下さい」

 セシリオ・アゲロは溜息を吐いて店主に指示する。しかし、店主は反抗的だった。

「玻璃様から放っておくようにとのご指示が」

「……相変わらず玻璃の言葉しか聞きませんね」

 ふふふと楽しそうに笑うセシリオ・アゲロは店主の態度をあまり気にしていないようだ。

「俺は玻璃様の部下ですので」

 アラストルは驚いてしまう。

 この忠誠心はいったいどこから来ているのだろう。少なくとも、アラストルは真似できない。上司の上司は当然自分よりも上なのだから、組織に所属する人間は従うしかないだろうに、この男は玻璃にしか膝を折らないのだ。

「で? アラストル・マングスタはなぜ僕の養女むすめ達に挟まれているのです?」

 今度は威嚇殺気付きの笑顔だった。

「……偶然だ。ひとりで飲んでたらこいつに絡まれた」

 隣の女を指させば、セシリオ・アゲロは大袈裟な溜息を吐く。

「仕方のない娘ですね。で? 玻璃はなぜここに?」

「ご飯まだだったから。ボロネーゼはやくっ!」

 玻璃は足をぶらぶらと動かしながら店主に催促する。こいつの食欲だ。きっとものすごい量が現れるのだろうと思わず身構えてしまう。

「はい、お待たせ致しました。チーズはいかがなさいます?」

「山盛り」

「はい」

 店主はパスタの上に麺が見えなくなるほど山盛りのチーズを振りかける。

「……かけ過ぎだろ……」

「あれが玻璃の標準です」

 セシリオ・アゲロは溜息を吐きながら言う。

「ところで、緋の悪魔はどうです?」

「は?」

「最近会っていませんからね」

 ふふふと笑いながら、店主に酒を催促する姿はこいつの方が悪魔なのではないだろうかと思わせる。

「……いや、うちのボスは……最近あんたが現れて、また宝石がなくなっただの騒いでいたが?」

 リリムに贈る指輪にするつもりだったらしい見事な赤い宝石はセシリオ・アゲロが突如現れた直後に消えた。一番疑わしいのは勿論目の前のこの男だ。

「……それで?」

 酒を受け取り、続きを促される。

「通行人が五人ほど炭になった」

 あれはもう手のつけられない暴れようだったと思う。出来ればアラストルの居ないときに暴れて落ち着いてもらいたいものだ。

「そうですか。相変わらず魔力の制御ができない男ですね」

 セシリオ・アゲロは溜息を吐き、それから玻璃の隣に腰を下ろした。

「お前、部下がいるほどの幹部だったんだな」

「べつに。拾っただけ」

 玻璃はパスタを食べながら興味がなさそうに答える。既に山だった皿の半分ほどが消えている辺り相当腹を空かせていたのだろう。

「アラストルは、部下いないの?」

「一応ボスの他は全員部下ってことにはなるが、幹部はほぼ平等というか……実力さえあればいつでも席を奪えるからな」

「ふぅん」

 自分で聞いたくせに玻璃は全く興味を示さない。

 下手くそなフォークで肉の塊に苦戦しているせいか、それとも単に興味がないのか。

「アラストルは緋の悪魔が好き?」

 ようやく捕まえた肉を口に入れ、玻璃が訊ねる。

「ん?」

「あの業火のような人が好きなのかなって思っただけ」

「好きっつーか、憧れるってやつだ」

 ルシファーという男は頂点に立つ素質のある存在だと思っている。それはアラストルにはない素質だ。だからこそ、あの男を頂点に立たせたいと思う。アラストルは有能な補佐である自覚があるのだから、もう少し手を伸ばせば、届く目標のはずだ。

「……わからない」

 玻璃は一瞬だけアラストルに視線を向け、それからすぐにパスタに視線を戻す。

「玻璃には難しいかもしれませんね」

 セシリオ・アゲロがさり気なく玻璃の頭を撫でた。

「うん」

「そういう玻璃は、その男、アラストル・マングスタが好きですか?」

 どこか不機嫌そうな視線を感じた気がするが、アラストルは気付かないふりをした。

「わからない」

「そう、ですか」

 はっきりしない態度に、セシリオ・アゲロが苛立ったのを感じ取る。

「好きってよくわからない」

 玻璃はぽつりと呟く。つまり、玻璃なりに考えた結論なのだろう。

「では、僕の事もわかりませんか?」

 まるで試すように問う養父を相手に、玻璃は困ったように首を傾げる。

「……マスターは大好き。朔夜も、瑠璃も、ジャスパーもみんな。でも、アラストルはよくわからない」

「ほぅ……」

 セシリオ・アゲロは興味深そうに玻璃を見て、それからアラストルに視線を向ける。

「意味がわからねぇよ」

 正直、玻璃の答えに傷ついた。あの数日でだいぶ懐いてくれたとは思っていたが、よくわからない存在と認識されているとは思わなかった。

 そりゃあ男女の好きはありえないだろうが、友人か、好き嫌いで言えば好きの部類に含まれる他人の地位は得ていたはずだ。

 しかし、玻璃はもっと真面目に考えているのかもしれない。

「だって、よくわからない。でも」

 玻璃はフォークを置いてアラストルを見る。

「ずっと一緒に居たいって思う」

「は?」

 思わず、思考が停止してしまう。

 口の周りをソースだらけにしてなにを言っているのだろう。

「玻璃様? 一体なにを?」

 店主も一瞬固まり、磨いていたはずのグラスを二つほど割ったが玻璃は気にせずに食事に戻った。

「アラストルの側に居るのはたぶん好き」

 なにも考えていないようないつもの表情で玻璃は呟く。

「……アラストル・マングスタ……表に出なさい。なんなら裏でも構いません。僕はただ働きが大嫌いですが、今日は特別に無料奉仕で殺して差し上げましょう。世界最強の暗殺者であるこの僕が自らの手で」

 光栄に思いなさいと立ち上がるセシリオ・アゲロに思わず姿勢を正す。

「いや、ちょっと待て……待って下さい……真剣に待ってくれ……」

 冷や汗が頬を伝うのを感じる。事務仕事帰りで武器も持っていない状態だ。武器があっても分が悪いというのに、現状では生存すら危うい。

「……マスター……あなたが手を汚すまでもありませんよ。俺がやります。大丈夫です。俺、上手いですから。日頃の副業ですっかりと身につきましたから。アイスピック一撃で仕留めてみせます」

 店主も目の色が消えている。

「いや、お前ら待て!」

 今日は客として来たと言うのに、どうしてこんな目に遭わなくてはいけないのか。

 二人とも目が本気だ。

 命の危機だというのに、思わず体が硬直してしまう。

 が、すぐにもう一つの殺気を感じ取り、体が席に縫い付けられたかのように完全に動けなくなってしまった。

「……ジャスパー、死にたいの?」

 殺気の主は玻璃だった。

 そして階段から下りてくる足音。

 この店はおかしな作りで厨房の真横に階段がある。

 そして、現れたのは朔夜だった。

「セシリオ、お店で問題を起こさないで頂戴っていつも言っているでしょう?」

 眉をつり上げた朔夜は真っ直ぐと自分の夫を見据えている。

「朔夜? なぜここに?」

 武器を構える準備をしていたセシリオ・アゲロが硬直した。

「騒がしかったからよ。あら? アラストル! 久しぶりね。また髪が伸びたんじゃない? まぁっ! 玻璃ちゃん! お帰りなさい」

 忙しい女だとアラストルは思う。

 夫に説教すると同時にアラストルと玻璃を歓迎するように挨拶をする。なんて器用なのだろう。先程までの緊張感が完全に消え失せ、思わず安堵の息を吐く。

「セシリオ、帰るわよ」

「待って下さい。まだ話は終わっていません。一撃で仕留めますから」

「……玻璃ちゃんの恩人でしょう?」

 朔夜は呆れた目でセシリオ・アゲロを見る。

「……ですが! 僕はまだ玻璃を嫁に行かせるつもりはありません!」

 必死な様子で叫ぶ姿は子供にしか見えない。

「は? 嫁?」

 一体何の話だと思わず聞き返す。

「なんです? 玻璃のことは遊びだったとでも言うのですか? 殺します。この世に生を受けたことを後悔するような苦痛を与えて殺します」

「いや、誤解だ!」

 思わず叫ぶ。

「俺と玻璃はそういう関係じゃねぇよ」

 なぁと確認すれば玻璃は首を傾げる。

 頼むから兄妹に似たなにかだ程度に答えてくれと念を送るが、玻璃には届かなかったようだ。

「おかわり」

 呑気に店主にお代わりを要求し、店主を更に慌てさせているが、玻璃は現状を全く気にしていない。

「アラストルは身内? 家族みたいって思う」

 玻璃の回答はその場の全員を混乱させる結果になった。

「……これって、どうなのかしら?」

「殺しておけば問題なさそうです」

「さっさと始末しましょう」

「おい……お前ら……」

 アラストルは普段剣のある場所に手を伸ばすが、今日は不携帯だった。

「……やっぱりいらない。あとで部屋に持ってきて」

 玻璃は手の甲で口を拭いながら店主に命じる。

「玻璃様?」

 どうしたのかと心配そうに見つめるその視線も無視し、玻璃はアラストルを向いた。

「アラストル」

「ん?」

「大好き」

 一体なにを言われたのか理解出来なかった。

 そしてその場の全員が固まっている。

「って、リリアンなら言うと思うよ」

「……そ、そうか……」

 てっきり玻璃の言葉かと思って一瞬どきどきしてしまった自分を蹴り飛ばしたい。そんなアラストルの考えは勿論汲み取って貰えない。

「ずっとうるさいの。夢に出てきて」

「夢?」

「アラストルが気付いてくれないって」

「……それは夢だ」

 夢の話。現実ではない。死んだ人間は話しかけてきたりなんてしない。

 どこか自分に言い聞かせるようにそう言うと、真っ直ぐ目の前に、硝子玉のような赤い瞳がある。

「逃げても追ってくるの。過去も、未来も」

「は?」

 目の前に居たかと思うと玻璃はすぐに立ち上がって離れた。

「冗談。マスター、仕事以外の殺しはだめ、でしょう?」

 大人が規則を破るのはよくないと告げる子供の様に、玻璃は腰に手を当てて言う。

「……玻璃に言われては仕方ありませんね」

 やれやれと諦めたように溜息を吐くセシリオ・アゲロはまだ諦めていなさそうな瞳をしている。

「……折角だから、上がってく?」

 玻璃はアラストルを振り向いた。

「は?」

「上、居住区なの」

 玻璃は先程朔夜が降りてきた階段を指さす。

「宿屋じゃなかったのか?」

「うん。でも、私はここか居住区に居るから」

 部屋があるのと玻璃は言う。

「……お前、すぐ上に部屋があるなら姉貴を寝かしてやれよ」

「瑠璃のは自業自得よ」

「全くです」

 セシリオ・アゲロはアラストルを睨むことを諦めたのか、再び酒を飲み始める。

「……たまには、痛い目見なきゃ。わからないわよね? この子は」

 朔夜もまた溜息を吐き、それから玻璃の座っていた席に腰を下ろす。

「まぁ……玻璃ちゃんが選んだんだから仕方ないわ」

「ん?」

「あなたでも我慢してあげる。義弟おとうとくん」

「は?」

 一体なにを言っているのだろう。嫌な予感しかしない。

 アラストルは思わず身構える。

「責任、取りなさい。嫁入り前の女の子と同じ部屋で生活するなんて信じられないわ」

「あ、いや……」

 痛い所を突かれる。しかしあれは不可抗力だ。

 アラストルは心に決めた。二度とこの酒場には足を運ばないと。

 たとえどんなに職場から近かろうと。値段の割に料理が美味かろうと。

「玻璃、こいつらなんとかしてくれ」

「……ジャスパー、今日は私の奢り。アラストルの分も引いておいて」

「よろしいのですか?」

 店主は少し驚いた様子を見せる。

「うん」

「いや、勘定のことじゃねぇよ」

 むしろこの店は良心的な価格だ。懐は心配していない。

「じゃあなに?」

 玻璃は理解出来ないという風にアラストルを見て、それから少し考えた末に口を開く。

「家まで、送ってあげようか?」

 護衛が必要なんでしょうと結論を出されてしまう。

 近いが違う。

「いや、そうでもない。お前の頭はどういう作りなんだよ」

 アラストルは今日一番の深い溜息を吐いた。その間にも朔夜はくどくどと説教を始めている。どうやら酒が入ると説教臭くなるらしい。

「こいつら、黙らせるとかよ」

「無理」

「即答かよ」

 顔色一つ変えずに即答されると言うことは、玻璃は普段耳を塞いでやり過ごしているのだろう。

「帰る」

「そう」

「ああ」

 もう少し、会話があると思ったが、玻璃が相手だと気の利いた会話は期待できない。

「……今度、遊びに行ってもいい?」

 それとも用事がないとだめ? と遠慮がちな訊ね方をされる。

「……好きにしろ」

 そう答えれば嬉しそうな様子を見せられる。

「長椅子」

「ん?」

「私の場所、空けておいてね」

「は?」

 まるで当然の権利を主張するように言う玻璃に呆れてしまう。図々しいにも程があるだろう。

「俺の家だ」

「私の場所」

「……ほんっと、遠慮って言葉を知らねぇな。わかったよ。あの椅子はお前にやる」

 指定席だなと言えば満足そうに「うん」と答える。

 本当によく笑うようになった。

「お前、やっぱり似てねぇよ」

「え?」

「リリアンは育ちが悪かったからな。お前ほど上品には笑えなかったよ」

 そう告げれば、玻璃は目を丸くする。

「私、奴隷出身だよ?」

「は?」

「マスターに拾われるまで、奴隷として売られてた」

 告げられた事実に驚く。

「けど……笑えるのはアラストルのおかげかも」

 そう、玻璃は確かに笑った。

「大好きだよ」

「また、リリアンからか?」

「ううん。違う。今度は玻璃から」

「……そうか」

 思わず、笑みが零れる。

 この大好きは色恋沙汰とは全く無縁のそれであり、動植物を愛でるそれとも違う。趣向に対するそれでもなく、おそらくは。

 家族に向けられるそれ。

「いつでも来い」

「うん」

 記憶の中の幼い妹と重なっていたはずの目の前の少女は既に別であることがはっきりとわかる。

 黒い少女。

 不吉を体現していたような彼女は既にいない。

 店を出れば外は月明かりに照らされている。

 満月。

 それは店の看板にも描かれている、月の女神の象徴だった。

「アラストル」

「ん?」

 わざわざ見送りに来てくれた玻璃が呼び止めた。

 そして。

「お兄ちゃん」

「は?」

 突然なにを言い出すのかと驚いて見れば、少しだけ恥ずかしそうな様子を見せられる。

「言ってみたかっただけ。シルバを……そう呼んでみたかったこともあったの。でも……やっぱりヘン」

「当然だ」

 一瞬、どきりとしてしまった。

 けれどもやはり妹とは全くの別物で……。

「お前はお前、俺は俺だろ?」

 いない人間と比べ合うのは滑稽だ。

「そう、ね」

「わかったらとっとと戻れ。この時間は殺し屋も盗賊もうようよいるぞ」

「そういうあなたも、私も殺し屋、でしょ?」

「……そうだったな」

 線が細くても、立派な殺し屋だ。見た目からは想像も出来ない身体能力を持っていることも既に知っている。

 出会った日は、雨だった。

 まさかこんなにも近づくなんて思いもしなかった。

 そして、今日はクレッシェンテには珍しい晴れ。満天の星が見える。 それはまるで、今の心境を表しているようだ。

 柄にもなく、そんなことを考えてしまった。


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銀の剣士と黒の殺し屋 Rinascita 高里奏 @KanadeTakasato

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