第十九章
アラストル・マングスタが久々に自宅へ戻ると部屋が随分と寂しくなった気がした。それはいつも当たり前の様に長椅子の所有権を主張して寝転んでいた玻璃の姿がないからだろうと思ったが、組織内の問題も解決したのだから彼女がここに居る理由はないのだと思い直す。
「なんか……静かだな」
口数自体は少ないやつだったと思う。ただ、口の悪い餓鬼みたいな女がひとり消えただけでこれほどまでこの部屋の印象が変わるのかと驚いてしまう。なにより、宅配ピザの空箱の山がない。わがままで気まぐれな猫のような女はなにも残さずに消えていった。
本当になにも残さずに。
「……いつの間に荷物まで処分したんだよ……」
部屋に侵入された形跡が見当たらないはずなのに、玻璃の服や絵が消えている。余程慣れている者が侵入したのか、それとも全て幻だったのか……。
考えを振り払うように頭を振り、それからインスタントコーヒーに湯を注ぐ。
安っぽい味がする。
コーヒーを飲みながら、窓の外を見ようと視線を動かし、思わずカップを落とした。
「玻璃!」
窓越しに中を覗き込む玻璃の姿。それもなぜか逆さまに。
「……一体なんの演出だ」
心臓が随分と駆け足で動く。寿命が縮みそうだ。
「驚かせようと思って」
「……心臓に悪い」
流石にもう若くないのかもしれない。アラストルは思わず年齢を気にした。
「三十路だもんね」
「ああ」
「否定しないの?」
驚いたように首を傾げる玻璃はいつも通りに見える。
「事実は仕方ねぇだろ」
玻璃は面白くないという顔を見せた。
「で? なにしにきたんだ?」
居なくなったと思ったら急に現れて。本当に自由なやつだと思う。
「ありがとう」
「は?」
「お礼、言ってなかったから」
玻璃は微かに笑う。今まで見た中で一番自然な柔らかい笑みだ。
「なんだ、ちゃんと笑えるじゃねーか」
思わず、アラストルも笑みを零す。
「なに?」
「てっきり、人形みたいな気味悪い笑い方しかできねぇのかと思った」
「ふぅん」
玻璃は興味なさそうに返事をする。
「じゃあ、もう行くね」
「ん?」
「任務だから」
窓枠に足をかけながら玻璃は言う。
「任務?」
まだ殺し屋を続けるつもりなのだろうか。少しばかり不安になる。
「うん。って言ってもお使い。ローザに行くの」
ローザは海に面した一番国境に近い地だ。ムゲットからは随分遠い。
「また随分遠くだな」
「うん」
「三月は戻らないってか?」
「うん……」
そう答えた玻璃は少しだけ寂しそうに見えた。
「ねぇ、アラストルも行かない?」
名案が閃いたと言うような表情を見せる姿は完全に子供のそれに見えてしまう。
「は?」
「ローザ、いいところだよ。日光は浴びなくて済むし、なんだか不吉な雰囲気だし、ファントム兵の悲鳴がよく響くって」
「……世間一般ではそれを不気味って言うんだよ」
玻璃がしっかり地理を勉強していたことに驚くと同時にやっぱりこいつの感覚は理解出来ないと思う。
「そう?」
「ああ」
思わず溜息が出る。
「それに、ディアーナの任務に俺が同行するわけにはいかないだろ」
なにせ数週間前にルシファーが本拠地らしいところに攻め込んだがひとりの男に足止めさせられた挙げ句、リリムと朔夜が意気投合して強制的に停戦協定を結ばされたばかりだ。当然ルシファーの機嫌が悪い。ここでディアーナの任務に同行したなんて知られてはアラストルの命も危ないかもしれない。
「でも、女王様のお使いだからアラストルが一緒でもいいと思う」
「は?」
玻璃はなにも考えていない様子だったが、とんでもない任務内容だ。
「ローザ伯にね、お手紙を届けに行くの」
「それだけか?」
宮廷からの任務をわざわざ玻璃が受ける理由が浮かばない。なにか裏があるはずだ。
「あとね、お花を貰ってくるんだって。それも凄くたくさん。数はよくわからないけど、マスターが連絡してくれたっていうから、後は観光気分でいいって」
玻璃はどこか楽しそうに言う。
つまり、あれだ。単に休暇を与えられただけだ。なにか口実を作って少し遠出をさせようとしたのだろう。本当に宮廷からの任務なのかさえ怪しい。
「お使いくらいひとりで行けよ」
餓鬼じゃないって言うなら。その言葉は飲み込む。
「うん……」
けれども玻璃は俯く。まるで、今だけは子供扱いして欲しいとでも言うように。
「あ、あのね……」
少し遠慮がちに口を開いた。
「ん?」
「また来てもいい?」
まるでアラストルの反応が怖いとでも言うように、おそるおそるといった様子で見上げる。
「ああ、いつでも恋」
くしゃくしゃと彼女の頭を撫でれば、くすぐったそうに身を捩りながら「ありがとう」と小さく帰ってきた。
「……またね」
まだ、もう少し、と名残惜しそうな視線を向けられる。
「ああ。迷子になるなよ?」
わざとそう口にしたのは照れくささを隠すためだったのかもしれない。
「ならないわ」
「本当か? 前科あり、だろ?」
「もう迷わないもん」
むぅっと頬を膨らませて言う姿はまさに子供のそれで思わず笑ってしまう。
「じゃあ、気をつけて行けよ
「うん」
そうして、玻璃は窓から外へと飛び出して行く。
「おい! 危ねぇだろ!」
玻璃の身体能力は知っているはずだが、やはり年若い女が窓から飛び降りる姿はどうも心臓に悪い。
思わず叫んでしまったが、既に彼女の姿はない。
「ったく……」
調子が狂う。
けれども溜息よりも笑みが零れてしまったことは墓場まで持っていくつもりの秘密となった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます