第23話




 交差点があった。信号があって、車が通っていて、横断歩道がある交差点だ。


 俺はそこに立っていた。これから信号を渡って向こう側に行こうとしているのだと悟り、その命令が体を動かす。


 「───!」


 そんな俺の手を、後ろから誰かが握った。


 振り返ってみてみれば、茶髪にツインテールの可愛らしい顔をした、ぐらいの女の子が居た。

 それは、の妹だ。今年で小学一年生になった、可愛い妹。

 

 そう言えば、今は小学校から下校途中だったと思い出す。なんでそんなことを忘れていたんだろう……。


 「ちょっと、手繋いでたら歩きにくいよ

 「やだ! お兄ちゃんと帰る時は手ー繋ぐのー!」

 「あ、ちょ、ブンブンしないで! 腕ぐわんぐわんするから!」


 カナが僕の手を掴んで上下に振り回す。力は強くないけど、ランドセルとかの重みもあるので腕が引っ張られてちょっと痛い。

 ようやく腕ブンブンはやめてくれたものの、カナは嬉しそうに僕の手を掴んで離さない。


 「もう……そんなことすると手繋いであげないからね」

 「ダメだよお兄ちゃん! お兄ちゃんは私と手繋がなきゃ死んじゃうから! だから早く繋がなきゃ!」

 「そんなに必死だと、死んじゃうのはカナの方なんじゃないかな……」


 僕は別に繋がなくても死なないし。

 カナはまだまだ僕の言葉をあんまり聞いてくれないから、この言葉も聞いてる様子はない。良いんだけどね、別に。


 「あ! お兄ちゃん信号青だよ! 行こ行こ!」

 「ま、待ってカナ、走ったら危ないって!」


 交差点の信号は切り替わり、歩行者用のそれが青く輝く。カナは赤信号で止まっていた分をここで取り返すように走り出すので、僕も慌てて追いかけようとした。



 その隣から、トラックが突っ込んできた。



 「……え?」


 横断歩道を渡ろうとした僕の目の前を、大きなトラックが横切って行った。鼻に擦れるぐらいのギリギリの近さを、物凄い勢いで突っ込んで行った。


 トラックが目に映っていたのは本当に一瞬だけ。その一瞬で、何故かカナの姿は無くなっていた。

 代わりに呆然としている僕の耳に、何かが、肉のようなものが落ちてきた生々しい音が響く。


 それこそ───グシャ、と形容するしかないような、生々しい音が。


 僕は……その場から動くことも出来ず、ただ目だけを横に動かした。音のした方へ、ゆっくりと。


 見たくない、見たくない、見たくない、見たくない───そう叫ぶ心を無視して、僕の目は勝手にそっちを見てしまう。

 

 ダメだ……本当にダメだ。見るな。そんな気持ちを体は一切聞いてくれず、僕の目に入ってくるのは、赤い点々としたもの。

 そして、まるで引き摺られたように道路に残った赤い痕。それは所々に肉のようなものを残しながら徐々に広がっていき、その終点には───。


 「……ぁ、あぁ……」


 周囲の日常を表す景色の中に、唯一入り込んでしまった異物であるかのように、ピクリとも動かない金光が居た。腕と脚がおかしな方向に曲がり、ひしゃげ、小さな体をトラックに潰されてしまったその姿で生きているなどとは考えられることも無く。

 ただ、がカナであると、僕は感覚で気づいてしまった。


 カナの体の下を赤い絨毯が広がっていく。ペンキを零してしまったように、とめどなく溢れて金光の体が崩れてゆく。


 ゴロンと、向こうを向いていたカナの顔が、なにかに引かれるようにこちらを見る。焦点のあっていない生気の抜け落ちた目が、可愛らしい顔を台無しにして、最後にボトッと完全に力を失い落ちる。


 その光景が脳裏で何度も再生され、実際の視界と被さり……。



 対向車線を通った別の車が、カナを潰し完全に原型を失わせた。

 


 あまりに連続した出来事に、僕は混乱していた。何も言えず、何も出来ず、ただその場で固まり見続けるしか無かった。

 最初から見ていなければ誰かも分からない程に、グチャグチャになってしまったを見て……誰かが嗤って囁く。



 コレ、誰の肉だっけ───。





 ◆◇◆




 「金光ッ!!」


 暗転した視界の中、俺は今までにないほど切迫した声で叫んでいた。

 

 勢いよく上体を起こし飛び起きた俺だったが……それでようやく先程までの出来事が全て夢であったことを悟った。

 交差点も、信号も、地球の日本にあるようなものなど何も無い。ここは俺達が使っている客室で、俺はソファで寝ていたのだ。


 気づけば動悸は酷く、汗もかいている。暑いわけではないのに服は肌に張り付き、肩を上下させて息をしていた。

 深呼吸ではない。ただただ荒く、息が詰まるほどに胸が痛い。

  

 「……トウヤ様?」


 すると、暗闇の中から声が聞こえてくる。可憐な、高い少女の声の主は、ベッドの上で体を起こしこちらを見ていた。


 「く……クリス……」

 

 俺は息を詰まらせながらも、その声に安堵した。クリスの声が聞こえてようやく、夢から覚めたのだと実感できたのだ。

 それに気づけば、他者の前ということもあり次第に呼吸が落ち着いてくる。それでも酷いが、動揺を無くそうと頑張ることが出来た。


 「……悪い、起こしたな」

 「いえ、起きていましたから……そんなことより、とても魘されていましたよ、トウヤ様」


 クリスは俺の状況が異常だと気づいてか、わざわざベッドから降り、こちらまで来てくれる。詳細に視認できる距離まで近づいてくると、その心配そうな瞳がよくわかってしまう。


 起きていたというのは、クリスも少し前に目を覚ました、という訳ではなく、本当に起きていたらしい。そして同時に、まだ俺とクリスが寝る状態に入ってから一時間程度しか経っていないことも悟る。深夜に入ったかどうかの時間帯だ。


 その短時間で、俺は先の夢を見てしまったということなのか。


 「……酷い顔です。それに、心臓の鼓動も早い……余程怖い夢を見たんですねトウヤ様」

 

 心配からだろう、クリスはソファまで来ると俺の隣に座り、そうして下から見上げてきた。距離の近さなど今は一切考慮しておらず、そして俺もまた、そんなことを気にしている余裕はなかった。

 ただ……今の俺には、この距離がありがたい。


 「元の世界の夢ですか?」

 「それは……あぁ、そうだ」

 

 今の一瞬だけで、クリスはその結論に行き着いていた。だが俺はそれが本当に正解かわからなかった。

 何せ今回は……全く記憶にないものだ。文字通り、本当にあんな記憶は一切ない。金光がトラックに撥ねられてしまう光景も、自分のことを『僕』と呼んでいたことも……俺が金光のことを『カナ』と呼んでいたことも、一切ない。


 そもそも俺は、あそこまで幼い金光のことを。そんな記憶などあるはずがないのだ。


 記憶にない出来事。記憶に無い光景。しかしそれがやけにリアルで、同時に今までの夢と何もかもが違うから酷く怖い。

 クリスの前であるとか、そんなことも正直考えられないほどに、まだ動揺を残している。


 「情けないところを見せたな、すまん……」

 「そんなの気にしてません。それより、まずはトウヤ様の精神です。単なる悪夢を見たにしては、酷いですよ」

 「……酷いか?」

 「酷いです。トウヤ様のこんな姿は見た事がありません」


 そう言ってクリスは、膝の上に置いた俺の手に、自身の手を重ねてきた。その温かい感覚に俺は確かに安堵して。


 「……ほら、私なんかが触れているだけで、安堵しています。明らかに安心した顔をしてるんです。ルリさんではなく、私であってもいいほどに、今のトウヤ様は精神的に弱っているんです」

 

 それは同時に、俺が誰でもいいから人に触れたいと思っている証拠でもあった。

 クリスも言いはしないが、比較はしているだろう。蒼太が死んでしまった時も、俺はここまで酷くはなかった。それ故に、俺の精神的な強さを評価している部分もあったはずだ。


 だが今は……たった一つの悪夢でこうなっている。


 それが、知人が殺されることよりも辛い出来事を夢で味わったのだと知らせてしまっていた。


 「……悪い」

 「謝らないでください。責めている訳ではありませんから。ただ……何がトウヤ様をそこまで追い込んでいるのか知りたいのです。今回が初めてでは無いのでしょう?」

 

 手を握りながら、歳上の俺に優しく問いかけてくるクリスは、明らかに確信を持っていた。

 こんな状態でも、思考はクリスの確信の由来を確かめていた。確かに寝る前から、まるで俺がクリスと同じベッドで寝る必要があるかのように言っていた。となるとクリスは、俺のこれを事前に知っていた可能性が高い。


 一人で寝ると、悪夢に魘されてしまう俺のどうしようもない状態。それを知っている人は一人しかいない。


 「……もしかして、ルリが話してたか?」

 「はい、トウヤ様の夢に関してはルリさんから聞きました。元々トウヤ様がルリさんと寝るようになったのも、そういった理由があるからだと」 

 

 元はルリの方から迫ってきたことだが、俺が結局ルリと寝ることにしたのは確かにそれが要因だ。

 それが無ければ、流石の俺もお互いに不明瞭な関係のままそう何度も一緒に寝ることは無い。あの時の俺は……まだ、金光達への執着が強かった。


 『まだ』なんて言って、じゃあ今は薄れたかといえば……そんなことは全くない。


 「いくら元の世界の夢を見たからって、これは酷すぎます。一体何にそれほどまで苦しんでいるのですか?」

 「……元の世界に大事な人が居たんだ。命よりも大切で、何よりも愛しくて、それ以外何もいらないと思えるほどに……大事な人が。もう会えないが、それでも、縋ってて……」

 「……それが、カナミさんですか?」

 「あぁ……半分は正解だ」


 金光だけではない。だが、金光が酷く大事なのも事実。

 それはきっと……この先変わることがない。俺の中で最も大事なものが二つあって、それは一生変わらないのだろう。


 いや、変えられないのだ。例えルリという存在が居ても……ここだけは、変わることがない。


 「大好きで、大事だったから、こうして引き離されたことがトラウマみたいになってるんだよ。会いたくて会いたくてしょうがないから、夢まで見せてくる。しかも今回は……」


 泣きそうな内心を吐露しながらも、その先は口に出せず黙り込む。もう一度アレを思い出すことはダメだ。絶対にダメだ。


 今はやばいなと自分でも思う。相手はクリスなのに、隠す気もなくこんなにも口にしてしまっているのが、それだけ精神的に参っている証拠であった。

 歳下の、しかも護衛する立場である女の子に弱音を吐いてしまうほど、今日は酷い。そしてそれは、この先もエスカレートしていくことが簡単に予想出来てしまう。


 今までは、幸福な夢を見せ現実との落差を無理矢理見せられていた。

 今回は……記憶にもない、単なる悪夢を持って苦しませてきた。まるで、もう金光と会うことなんて出来ないと嘲笑うように。


 これでは気丈にも振る舞えない。他のどんなことが大丈夫であっても、これだけは……アイツらのことだけは、ダメなんだ。


 焦りとか動揺とかそんなものではなく、ただただ辛く苦しい。


 「元の世界での恋人、だったんですか?」

 「そうだな、恋人だ。好きで、大好きで大好きでしょうがなくて、俺にとって何よりも大事な存在で……だから……」

 「……忘れられないんですね。カナミさんという方のことが」

 

 クリスの言葉に、静かに頷く。ルリが言ったように、俺はまだアイツらのことが好きなのだ。俺自身忘れようとすらせず、ルリへの好意とは別で分けている。

 記憶に浮上させないようにしているだけで、アイツらを忘れたくなんてないのだ。本当なら、アイツらのことを思い出して勇気を貰いたい。力を貰いたい。『アイツらに会うために、頑張って早く帰ろう』と、ただ純粋に想いたいのに……。


 思い出せば、溢れてくるのは悲しみと後悔と辛さ。そんなものばかりだ。頑張ろうなんて思えやしない。むしろアイツらが居ない絶望に沈みそうになって、挫けてしまう。

 記憶の中では常に笑顔で、幸せを振りまいていた。それが過去のものになってしまったから……何も掴めない虚しさが絶望に変わり果ててしまう。


 息を吐いて……重い気持ちも一緒に吐き出そうとする。そんなこと出来るはずもないが。

 胸に重くのしかかったこれは、抜ける気がしない。


 唯一の救いは、やはりクリスだった。今ここにクリスが居ることで、弱音を吐けている。そこに罪悪感や無力感はもちろんあるが、こうして手に触れて聞いてくれていることが、本当に救いで、安心していた。


 思わず、もう片方の手をクリスの手に重ねてしまうほどに。


 「……悪い、つい……」

 「別に気にしていませんよ。ただ、辛いのでしたらもっと素直になってください」


 その無意識的な行動を謝れば、クリスは小さく笑う。

 

 今の俺は、酷く悪いことしている。弱さを見せて、それをルリではない、他の人間に優しく解してもらおうとしているのだ。

 確かに意図してのことではない。だがそれでもこれは、良くないことだ。ルリにも悪いし、クリスにも……。


 そうは分かっていても、今の俺には自制が出来ない。俺を拒絶しないクリスに温もりを求めてしまっている。


 「トウヤ様は、温もりが欲しいのですよね。大切な人と引き離された事実を埋められるような、孤独を無くせるような温もり……本当はルリさんが適任なのでしょうけど、今ここには私しかいませんから」


 ソファを立ち上がったクリスは、そのまま俺の手を引いた。歳下の女の子が俺をリードするように動いている。

 その行先は、考えるまでもない。


 「ですから、私と一緒に寝ましょう。ルリさんもこうなる可能性を見越して私に話していたのかもしれませんし、嫉妬はするかもしれませんが、怒らないと思います……きっと、トウヤ様のことを優先しているのでしょうし」


 と、ベッドに上ってクリスは先に横になる。そうして分かりやすく隣を空けているので、俺は僅かに浮きあがってくる抵抗や躊躇いを退けてそこに入った。

 クリスがこちらを向いているため、必然的にお互いに向き合うようになって。


 「ルリさんのようなことは出来ませんが、こうやって、一緒に寝るくらいは構いませんよ」

 「……ルリのようなことって、なんだ?」

 「トウヤ様、分かった上で聞いているのですよね? ……毎日お二人が、夜にこっそりしていることですよ」

 「一緒のベッドで寝ていることか?」

 「そうですね……こっそりルリさんをベッドで、ことです。特に宿は壁が薄かったりするので、隣室だとよく聞こてしまいます」

 「っ……」


 思わず息が漏れる。気づいていたのは何となくわかっていたが、それだってクリスは今まで特に指摘してこなかったため、完全に油断していた。

 

 精神的に弱っている状態でその動揺は隠すことも出来ず、全て漏れ出てしまっていた。


 「私が気づいていると、最初から知っていましたよね? それでも止めないなんて……トウヤ様は本当に悪い人ですね。私がどんな思いでいたかも知らずに」

 「……すまん。ルリもそうだが、俺も結構乗ってたんだ。だから止められなかった」

 「ふふ、素直ですね……すみません、別に責めている訳じゃないんです。愛と性は切っても切れませんし、相手に求められたら応えたくなるのでしょう。ただ、私に経験はありませんから、求められてもできませんという話です」


 ベッドで向き合いながら、少し過激なことを言う。クリスが嫌だからしたくない、という話ではなく、経験がないからできないという言い方。

 敢えてからかっているのだろうか……俺の暗い気持ちを、払拭するために。


 「ですが、出来ないとは言っても……」


 と、クリスは顔をこちらに近づけてくる。ともすればキスしてしまいそうな距離。

 もちろんそんなことは無いが、その代わりウィスパーボイスで囁いてくる。


 「毎日トウヤ様とルリさんがしてると思ったら……私も、変な気分になってしまうのは仕方ないですよね……?」

 「……」


 吐息に混じった、甘い声音。クリスの顔はきっと赤くなっているし、俺も突然の言葉にビックリして心臓が跳ねた。

 これは、どういう意図の発言なのかと探ろうとしてしまう。この場合の話の流れから出てくる『変な気分』とはどういう意味で、それを俺に伝えるのがどういう意図なのかと。


 「……なんて、少し思考が逸れましたか?」

 「……悪い冗談だな今のは。王女様にしては少しはしたないんじゃないか」

 「いえ、冗談ではありませんよ。この時間、この距離に殿方を入れたことがありませんから、気分が高揚しているんです。それとも王女がはしたなくてはいけませんか? 私だって、そういうのに興味がある女の子なんです……こうやって、殿方と、トウヤ様と一緒に寝てみたかった……」


 そのまま俺の胸に顔を当て、こちらの腕の中に収まろうとしてくるクリスは鼓動が早い。

 口調こそ余裕ぶってはいるが、この距離に異性を置くことは、初めてでは緊張するというもの。それを顔に出さずにいるのは流石と言える。


 それに……確かにそんなことを言われれば、思考は逸れてしまうな。今回の場合は良い意味かもしれないが。


 「……ですがまぁ、そうですね。そんなことは出来ませんから……代わりに、私の事を抱きしめてくれませんか? ぎゅうっと、いつもルリさんにしているように優しく、力強く」

 「何が代わりなのかよく分からないが……」

 「一緒に寝てあげる代わりに、ですよ。それくらいのことは良いでしょう?」

 「……まぁ、そうだな。寝てくれてるのはクリスの方だし、そのくらいのことなら」


 既に俺の腕の中のようなものだが、俺は要望通りクリスのことを抱き締める。王女をベッドの中で抱き寄せその温もりを感じる。


 慰めてもらっているのは俺の方なのに、何故か甘えられて。ルリにしているように強く抱き締めてしまっている。

 それが、クリスだけでなく俺にとっても酷く心地よかった。女の子特有の体の柔らかさは安堵を与え、温もりは安らぎをくれる。


 「ぁ……」


 そして抱き締めた際にちょっと声を漏らしたクリスは、すぐに取り繕うように「ふふ」と笑いに変えた。


 「……王女を抱き締めていいのは、それこそ血の繋がりのある相手だけなんですよ。まぁ実際には交友関係のある同性の相手もそうですが……異性なんて、それこそ婚約者か家族以外はこんなことしちゃダメなんですからね」

 「……なら、離した方がいいのか?」

 「そうは言っていません」


 などと言いながら、ちょっと愉快そうに声を弾ませる。


 「ただ、こんな所もし誰かに見られたら大変ですね、と。あまり表に出てないとはいえ私も王族ですし、周囲から隠れて、トウヤ様とこんなことをしているなんて知られたら……」

 「怖いことを言わないでくれ……お互い、変なことは何も思ってない健全な関係で、それ以上のことは無いんだろ?」

 「……そうですね、確かにそれ以上のことはありませんね。トウヤ様はあくまで孤独を埋めたくて、悪夢を見たくなくて……私はただ殿方と一緒に寝てみたかっただけ。それ以外の感情はお互い持っていませんし」


 そう言う割には、話しながらやけに顔を埋めてくるクリス。伝わってくる鼓動はかなり速くなっていて、クリスがとても緊張していると教えてくれる。

 顔を見せないのはそれを隠そうとしていたからか。そう思うとクリスのことが可愛く感じて、心が穏やかになる。


 「……なんて、言ってみただけですよ。何も感じていないわけじゃありません。むしろこんなに、ドキドキと鼓動を速めています。トウヤ様に抱かれて、安堵と緊張と高揚が入り混じっていて……自分でも、混乱してしまっています」


 そのまま一度、俺の事を至近距離から見上げてきた。若干瞳が潤んでいて、でもそれを隠すように伏せて。


 「私だけこんなふうになっているなんて、不公平です……トウヤ様は全然ドキドキしていませんし」

 「今は弱ってるから、ただ安心してるんだ。普段とは精神状態も違うし、そもそもクリス相手にドキドキしろと言われても、男としては困るぞ」

 「……だとしても、もう少し、私のことも意識してください」


 その一言には、何も答えられなかった。当たり前だろう。それがどういう意味の言葉なのかも今の俺には分からず、そしてクリスもポロッと、思わず零してしまった言葉なのは簡単に想像がつく。

 だからクリス自身、それ以上そこに触れたりしなかった。


 「これでは、私は今日眠れないかもしれません」

 「明日が大事だから、どうにか眠ってくれ。クリスが寝不足だと俺が困る」

 「こんな状態で眠るなんて難しいですよ……トウヤ様は眠れてしまいそうですけどね」


 既に若干俺に眠気が襲ってきていると気づいたクリスが、複雑そうに指摘してくる。ルリと一緒に寝ている時は確かに気持ちが昂って眠れないこともあったが、クリス相手にはない。

 別に変な気を起こさなければ、誰かと一緒に寝るということは俺にとって珍しいことではなく、例えそれが初めての相手でも普段通り眠ることが出来る。


 あまり嬉しくない特技なのは分かっているが、それでもクリスを一人の異性として見ることは無い。


 「でも、このままでも仕方ありませんしね……少し眠れるように頑張りたいと思いますので、おやすみなさいませトウヤ様。私が寝ている間に変なことしちゃ、ダメですよ」

 「分かってるし、当たり前だろ……おやすみクリス」


 おやすみと言ったところでそう簡単に寝られる訳でもない。とはいえ、いつかクリスもこの人肌の温かさに眠気を誘われるだろう。俺自身実際そうなっているのだし。


 これなら悪夢も見ないで済みそうだ……気持ちがかなり落ち着いてきている。クリスにこうして触れることで、俺は独りではないと実感でき安心するのだ。

 ルリには申し訳ないが、今日だけはクリスと寝させてもらおう。そして明日さっさと帰って、浮気してないことの証明をするしかない。


 あとは……起きたら、クリスに礼も言わなきゃな。




──────────────────────────────


 またかなりお久しぶりです。前書きは雰囲気妨害しないようにこちらに移行。

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