敗残者へ


 そのアパートは、お世辞にも管理が行き届いているとは言えなかった。


 壁はところどころ塗装が剥げかかっているし、窓枠では小さな虫がひっくり返って死んでいる。床には何も生けられていない花瓶が転がり、埃を被ったまま佇んでいた。


 軋むベッドの上には男が仰向けに寝そべっている。頬はこけ、焦点の合わない虚ろな瞳が時々瞬きながら天井を見つめていた。


「……もう何年ぶりだ、ヴォロージャ」


 男がおもむろに視線を向けた先には、一人の少年がいた。歳の頃は16、7程か。顔立ちは精悍で、腕の筋肉と大人びた眼差しは、彼がそれなりの修羅場を乗り越えてこの歳まで生きてきた事を窺わせた。


「4年だ。あの戦争が終わってから」


 少年が答えた。淡々とした声だった。男は目を細めて笑った。


「……ハ。そうか、お前ももう16か」

「……ご丁寧に歳まで覚えてやがったのか」

「当たり前だ。お前は俺が手塩にかけた──」


 言い終わる事なく、男は胸元を掴み、呻き声をあげ始めた。少年は反射的に手を伸ばしかけ、そして、やめた。男はベッド脇のスツールに置かれていた紙袋を引っ掴むと、中の錠剤を取り憑かれたように口にねじ込んだ。


 男はしばらく息を荒くしていたが、次第に呼吸を整え、少年に尋ねた。


「……今は、何をやってる」

「……サルベージャーだ。遺跡荒らしだよ、月の」

「そうか……。ハハッ、だから身体が衰えてねえんだな。予想してたよりマシな職場じゃねぇか。てっきりまだ人を殺ってるのかと思ったぜ」

「殺ってないわけじゃない」

「身を守る為に……だろ? 戦場の殺し合いよりずっとマシだ」

「そうか?」

「ああそうさ。あの場所で俺を動かしてた矜持なんて、何の意味もなかった」

「……」


 男は小さく笑った後、再び天井を見やった。


「この戦争が終われば自由が手に入る、そう信じて、俺は何十人も殺した。帰ったら英雄と称えられる、その筈だった。けど違ったんだ。俺達を革命戦士って崇め奉ってた連中は、揃いも揃って血に塗れた敗者から目を背けた。ただ戦地でブチ込んだ質の悪い脳機能拡張剤BEAだけが身体を蝕んで──お上が寄越す金は全部ヤブ医者がむしり取っていきやがる。後はもう無様に死ぬだけだ」


 滔々と語る男を、少年は黙って見つめていた。その瞳は、男にかけるべき言葉を迷っているように見えた。

 男は少年の方へ視線を戻した。優しい表情だった。


「けど、お前が生きてただけ良かったよ……。俺が目をかけてたガキは軒並み死んだが、お前だけは……」

「……親にでもなったつもりかよ」

「違うのか? 実の親に売り飛ばされたお前を俺が育て上げたんじゃねえか。立派な兵隊として……」

「俺はアンタがした事を忘れてない」

「可愛がってやったじゃねえかよ……えぇ?」

「ユーリの事を覚えてるか」


 男は目を瞬かせた。しばらくの沈黙があった。痺れを切らしたように少年が口を開いた。


「俺と同い年だった金髪の子供だ。両脚を失くして……。アンタは、そいつを見捨てた」

「ああ……」


 懐かしむように、男は瞼を閉じた。


「そんなことも、あったな……」

「ンだと……!?」

「仕方なかったんだよ」

「……ッ」


 怒りを滲ませながら口籠る少年に向けて、男は諭すように続ける。


「あそこは戦場だった。そのルールに則って俺は判断した。仮にああなったのが俺だったとしても、俺はお前に言ったはずだ。『殺してくれ』って……なぁ」


 男はベッドから震える手を伸ばし、少年の腕を掴んだ。振り払おうと思えば簡単な、か弱い握力だ。だが少年はそれが出来なかった。縋るように見つめてくる男には、かつて鬼教官として鳴らした面影は最早無かった。


「お前もそうやって俺を否定するのか。俺がやって来たことなんか全部無意味だったって、そう言うのかよ、オイ」

「……ッ」


 少年が黙り込んでいる間も、男は彼を見つめていた。ややあって、少年はポケットから何かを取り出すと、それを男に握らせた。


「あ……?」


 白い封筒だ。中から出てきたのは、雑に折り畳まれた何かの文書である。そこには、男が通う病院と、そして少年の名が記されている。記された文面を流し読む男の目が、驚きに見開かれた。


「……これは」

「書いてある通りだ。さっきアンタの言うヤブ医者のところに行ってきた」

「お前……」


 それは契約書だった。そこには、少年──ウラジーミル・ミハイロヴィチ・ボストチノフが、電子口座を介して今後の男の治療費を全て支払う旨が記されていた。


「……アンタには碌でも無い記憶を植え付けられたけどな。アンタが居なかったら今の俺もいない。……それだけは確かだ。せいぜい、俺に頼りっ切りで生きてろ」


 男は振り絞るように、小さく、ありがとよ、と言った。少年は小さく頷いて、そのまま踵を返し、部屋の戸口へと歩き出す。


「もう……行っちまうのか」

「……月に待たせてる奴もいるからな」

「女か?」

「……だったらなんだよ」


 少年が振り返りながら不機嫌そうに返すと、男は楽しそうに笑った。


「ハハ、図星か、オイ。いいねぇ。同じサルベージャーか? だったらきっと気の強い娘だろうな。お前にはピッタリだ」

「……」

「大事にしてやれよなァ。俺なんか婚約者に捨てられてよ。辛いモンだぜ。いい女だったのに。今でも思い出しただけで泣けてくるんだ。お前はそうはなるんじゃねえぞ」

「……チッ。なってたまるか」


 少年は忌々しげに首を振って、部屋の扉を開ける。


「……また様子くらいは見にきてやるよ」


 去り際に告げたその声は小さかったが、閉まる扉の先で、男が満足そうに目を細めて笑うのが見えた。

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