ある賢者との記憶 - 2


 扉を開くと、むせ返るような植物の香りが鼻をついた。

 眼前には、豊かに生い茂った広葉樹の林が広がっている。水のせせらぎ、小鳥のさえずりが耳朶を打ち、目の前をサファイア色の糸蜻蛉が横切っていく。まるでそれは、故郷の星──地球に帰ってきたかのような錯覚を僕に与えた。よく見ると、そこかしこに配管や照明器具の類が見え隠れしていて、ここが広大な温室であるという事が伺えるのだが。


「……いつ見ても、見事なものだ」


 義娘の目には、この景色はどのように映っているのだろう。……僕の手を握っている彼女に問いかけようとすると、気怠げな声が僕達を呼んだ。


「こっちだ、何を惚けている」


 声の主は、僕達をここに呼びつけた人物── 四 碩 学 ジーニアス・フォーが一人、オリガ・エスレンジその人である。とはいえ、知識が無ければ、そうであると気づくのは困難だっただろう。彼女の上背は、4歳の義娘よりやや高い程度しかない。年季の入った白衣の裾は長く余って、腰まで垂れ下がっている。ただ、隈の浮かんだ三白眼は鋭く、そこだけは只者ではない雰囲気を感じられはしたが……。


「ああ……すまない。行くよ、カグヤ」

「……ええ」


 義娘──カグヤの手を引いて向かった先には白塗りのガーデンテーブルが備え付けられており、コーヒーブレイクの為の一式も用意されていた。彼女なりに歓迎しているのか、と一瞬思ったが、カップは一つしかなく、その上それは、既に席についていたオリガが啜っている。自分の為に用意しただけらしい。

 特に勧められた訳ではないが、椅子の一つを引いてカグヤに座らせ、その隣の席に僕も腰掛ける。カップをソーサーに戻すと、オリガがおもむろに口を開いた。


「娘まで連れてくるとは思っていなかったぞ」

「いい勉強になると思ったんだ。この子は、自然というものに触れたことがないから。……どうだい、カグヤ」

「……変な匂いがするわ」

「……変、って」


 仮にもこの庭園の主の前で……と窘めようとするが、それを遮るように、小柄な生物学者が言った。


「周囲の木々が分泌している揮発性防御物質フィトンチッドによるものだ。昆虫の食害や、感染症から自身を守る為の機能だな」

「……知ってるわよ、そんな事。体感するのは初めてだけど」

「ハ、白黒の部屋のメアリーというわけか。しかし、それが不快に感じられているという事は……この庭園が、異物たるお前を排除しようとしているのかもしれんな?」

「……オリガ」

「貶めているつもりはない。この娘の異常性には価値がある。……どうだ、以前の話は考えてくれたか?」


 暴言を悪びれる事もなく問い掛けるオリガに、カグヤは眉を潜める。


「お断りよ。誰が進んでモルモットになんか」

「直接お前の身体をどうこうしようなどとは言っていない。粘膜のひとかけらでも提供して貰えれば」

「冗談じゃないわ。大体、そう言ってどんどん要求をエスカレートさせる気でしょ?」

「理解が得られないのは残念だな。人類の未来の為なのだが」

「……よく言うわ」


 カグヤは吐き捨てるようにそう言って、席を立ってしまう。……僕の思いつきで不愉快な気分にさせてしまっただろうか。僕が脳内で弁解の言葉を編んでいると、さて、と、前置きして、オリガが数枚の資料をテーブルの上に広げた。


「ハロルド。お前に以前尋ねられた件だが、セントールの機密セクションに先行研究のレポートが残っていた。15年前に月出生アカゲザルを用いて行われた実験だ」


 資料に並んだ文章と図表。──それが示す結果に、僕は失望を禁じ得なかった。


「検体は雌雄合わせて各8頭。……これを確保するだけでも骨が折れただろうな。地球出生群コントロールが全個体生存したのに対し、月出生群3頭が大気圏突入時に死亡。残りも5日以内に原因不明の衰弱死を遂げている。現状──月で産まれた者は、地球に還れないと言っても差し支えないだろう」

「……何か、方法は見つかっていないのか。例えば重力制御法ヌルグラヴを──」

「月面での脊椎動物の繁殖成功には数十年を要したんだぞ。検体は貴重品だ。今取り上げた研究も既に理事会の指示で凍結されている。──その娘に地球の土を踏ませるのは、諦めろ」

「……ッ」


 声を詰まらせる私を、オリガは冷ややかに見やる。


「あの故郷の星がそうまで尊いか? どうしても青い空を見せてやりたいと?」

「君こそ、理解できるんじゃあないのか。こうして、敷地内にあの星の環境を再現までしている君こそ」


 カグヤは少し離れた所に据え付けられた配電盤に身を寄せている。足元を跳ねているカエルには目もくれる様子がない。オリガはふっと遠くを見つめ、それからやおら口を開いた。


「──私が電源を断てば、この庭に犇く命は全て死に絶える」

「……ッ?」

「彼らは自由に伸び伸びと生きているように見えるかもしれないが、本当は違う。全ては私の掌の上だ。そしてその掌を握り込む事に、私は些かの躊躇いもない。この意味がわかるか?」

「……いや」


 四碩学の生物学者は、コーヒーを一口啜った。


「少し昔話をしよう。確か幼児学級フォルスコーラにいた頃の事だったか。戯れに草花を毟っていた私は、当時の教諭に叱責を受けた。こんな小さな花にも、貴女と同じ命が宿っているのよ、とな。彼女としては、私に生命の尊さを教えたつもりだったのだろう。だが、私の胸に去来したのは恐怖だった」

「恐怖……?」

「私は、私がいるからこそこの世界は存在すると信じていたんだ。だが、そうでは無かった。所詮私は、あの星に那由多に不可思議に存在する生命というものの一つでしか無かったんだ。私はあの時、初めてそれを知らされた。まるで自分というものが相対的に無価値にさせられたかのような気がしたものだ」

「……」

「だから、私は生命の創造を志した。遍く美しいものとして語られる命の尊厳を地に叩き落としたかった。所詮は人の叡智によって容易く捻じ曲げられ、操られる程度のものでしか無いのだと。私は、あらゆる生命に対して絶対的な優位性を持つ存在になりたかった。この庭園を作ったのもその性癖の一端だ」

「……すまない。上手く、理解が出来ない」


 僕が絞り出すようにそう述べると、オリガは口の端を歪めた。私に笑いかけたのだと気づくのにはしばらくかかった。


「この話を聞いたものは皆そう言う。分かってはいる、私は異常だ。だが……あの娘とてそうなのではないか?」

「どういう意味だ……?」

「あの娘がお前と同じ価値観を持っているとは限らないという事だ」

「……ッ」


 口籠る僕をよそに、オリガは次のコーヒーをカップに注ぎながら続ける。


「あの娘は山も海も川も空もないこの街で生まれた。そして4年間をロボットに養育されてきた。彼女にとっては、地球の環境こそが未知の空間として映るだろう。それでも脈々と受け継がれたヒトの本能が生命の息吹を希求するはず、などと思っているなら、それは大きな誤りだ。気づいていたか? 此処に来るまでのあの娘の脚は、微かに震えていたぞ」

「な……」


 僕は慌ててカグヤの方を見る。彼女は配電盤にもたれかかったまま目を閉じている。まるで、唯一見知ったものに縋り付くかのように。


「可哀想に。自分の細胞をしきりに要求する異常者の近くには居たくない。こんな異様な空間にも居たくない。唯一アレだけが、彼女の頼りにできるものだったんだろうな」

「……カグヤ!!」


 そばに駆け寄り身を屈めると、カグヤは目蓋を開いて、琥珀色の瞳で僕を睨みつけた。


「……何?」

「済まない、僕の一存で連れてきてしまって……。怖かっただろう」

「……ッ、別に怖いとかじゃないわ。ここは……見た事ないものが多いから、疲れるの……」

「……済まない」

「……本当に、貴方そればっかりね」


 彼女はそう言って溜息をつく。……返す言葉が思いつかず、僕は黙り込むしかなかった。


「……大方」


 いつの間にかそばにまで歩み寄っていたオリガが、僕達を見下しながら口を開く。


「月から出られなくて可哀想、などというつまらん俗物の論を間に受けたのだろう。だがな、父親としてお前がすべきは、その娘を大衆に迎合するよう仕向ける事ではない。そういった無理解、無神経から守ってやる事だ。違うか?」

「……ハハ。一児を育て上げた母親なだけはあるね」

「そうでなくてもお前の腑抜けは目に余る。世辞を吐く前に自分を恥じろ、愚か者」


 私はただ恐縮して、情けなく笑うより他に無かった。バーニィには「上手くやっていける」などと吹いたが、実際のところ前途多難だ。


「今日はもう帰れ。元々の用事は済んだだろう。私も忙しい」

「……まだ帰らない」


 間髪入れずにオリガに答えたのは、意外にもカグヤだった。スカートについた塵を払いながら立ち上がると、挑戦的な眼差しでオリガを見やる。


「気持ち悪いから、理解できないからって、蓋して見ないようにするのは凡人のする事でしょ。もう少しこの中を見て回る。それから改めて文句をつけるわ」

「……大した根性だ。嫌いではないぞ。……おい、いつまで座り込んでいる気だ不能インポテンツ。さっさとお姫様をエスコートしてやれ」

「いっ……わ、分かっているよ……」


 小柄な女科学者に蹴飛ばされつつ力無く立ち上がった僕の前に、カグヤが手を差し出してくる。ポカンとしている僕を、義娘は上目で睨みつけた。よく見ると、頬が少し赤くなっている。


「……手を握って!!」

「す、済まない……」


 僕が差し出した手は、彼女の小さく柔らかなそれに、思ったより強く握り返された。意外と頼りにしてもらえているのか、と思ったのも束の間、カグヤは僕を引きずるように歩き出す。


「……全く。どちらが養育されているのかわからんな」


 僕達を見送りながら、オリガが肩を竦めたのがわかった。

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