ツキノヒト-fragment of lunarian-

鍵虫

ある賢者との記憶 - 1


「焦る必要はない。ゆっくりと、呼吸を落ち着けて」


 後ろから届いた声に、わかってるわよ、と小さく呟いて、私はターゲットを見据える。ダーツのそれと似たような同心円。意識を集中。目標までの距離は100m。磁場に乱れはなし。何も、問題は、無い。


「いくわよ──」


 見守る男の返答を待つ事なく、私は「力」を解き放った。彼曰く──「事象の繋がりが割れる」事に因る破砕音と共に、静電気を帯びた月の砂が青白い電光の槍へと集積していく。刹那──唸りを上げ、超音速で疾走したそれが、目標を寸分の違えなく粉砕した。


 「力」──ESPの起動後に特有の心地よい耳鳴りを覚えながら振り返ると、浅黒い肌の男がにこやかに拍手している。伸び放題の顎髭と、後ろで結えた長い黒髪……。そして強烈な柄のアロハシャツを着崩したその大男を目にして、彼が科学者だと──そして、五碩学にも数えられる程の人物だと気付くのは困難だろう。……もっともそれについては、16歳の少女に過ぎない私に指摘できる事ではないのだが。


「素晴らしい……。雷神インドラの御姿を目の当たりにしたかのようだよ。まさかこんな短時間で習得出来るとは思わなかった。『壇上の妖精』に、この程度の神秘は造作も無かったという事かな?」

「その名前で呼ぶのはやめて頂戴……。それに、これはもう神秘じゃないでしょ? 他ならぬ貴方が発見して、体系づけた技術じゃない」

「そう呼ばれるようになったのもごく最近だがね。しかし、意外な事もあるものだ。君の方から私を頼りにしてくるとは」

「……最近は何かと物騒でしょ。いざという時のために、自分の身は自分で守れるようにしておきたかったの」

「フゥン……それは良い心掛けだとは思うが、いいのかね? 君の父君に無断でこんな事を。特に彼は私を嫌っているようだし……」

「あの人が他人を嫌うわけないでしょ……。貴方がそんなだから、苦手に思ってるのは確か──だろうけど──」


 不意に目眩がしてバランスを崩した私を、男の太い腕が支える。むさ苦しい腕毛の感触に寒気を感じて飛び退くと、彼は喉の奥で笑った。


「そんなに照れる事はないだろう。私と君の仲なんだから」

「本気で照れてるように見えるなら病院をお勧めするわ。頭のよ」

「冗談だ。それより、精神力を消耗し過ぎたのかもしれないね。私の研究室でお茶でもしながら、少し休憩というのはどうかな?」

「……こんな美少女を部屋に連れ込むって? 体調不良につけ込んで妙な事する気じゃないでしょうね」

「そそられる響きだが、これでも地球に妻子を残しているのでね。裏切るような真似はしないよ。それに君としても、ふらついた状態で帰っては父君に余計な心配をかけるんじゃあないかい?」

「……そうね。お言葉に甘えさせて貰うわ。いざとなったら、撃退する為の力だって頂いたんだし」

「ハハハ、身持ちが固いのは良い事だ。では、行こうか」


 先立って歩き出す男の大きな背中を追うように、私は訓練場を後にする。振り返ると、既に清掃ロボット達が後片付けを始めているところだ。会釈する彼らに小さく手を振って、私は分厚い扉を閉めた。


***


超心理学的拡張感覚Expanded Sence by Paraphychology……通称ESP。当の私にとっても未知数な部分が多い技術ではある、が……。ただ一つ確かな事がある。その根本的な原理自体は、元から周知されているものだったのだよ」


 彼の研究室は、嗅ぎ慣れない薬の匂いが常に漂っている。内装品は木製が多く、恐らく地球から持ち込んだのであろう民芸品が所々に飾り付けられていて、デスクの上に置かれた青銀色のラップトップが少し居心地悪そうにしていた。私はといえば、彼が手ずから用意してくれたホットチョコレートを啜りながら、その講義に耳を傾けている。ESPによる消耗には糖分の補給が欠かせない、らしい。


「元から周知、って、どういう意味?」

「こんな経験は無いかな。テーブルから落としてしまった食パンは、必ずジャムを塗った方を下にして落ちる。大事な予定がある日に限って不意の来客がある」

「……マーフィーの法則の事? でもそれは、そういう厄介な経験にバイアスがかかって記憶されてるだけで」

「必ずしもそうとは限らなかった、という事さ。個人の思考は、少なからず世界の在り方に影響を与えているんだよ」


 ミルクティーの注がれたカップを置いて、男は私を見つめた。珍しく見る真剣な眼差しに、思わず魅入られそうになる。


「……そんな事が」

「勿論それは本来、極めてミクロな領域の出来事でしかない。つい、さっき私が挙げたような現象は、蝶の羽ばたきが台風を引き起こすような、連鎖的な偶然の結果だ。だがもし、その『連鎖』を破断し、思考と現象を直接接続する事が出来たとしたら? まるで神話の再現の如く、あらゆる事象を自在に引き起こす事が可能になるだろう。──此処から私の探究は始まった訳だよ、カグヤ」

「……俄には信じ難いわね」


 私がそう呟くと、男は破顔して話を続ける。


「そうだね。最初は私も、オカルトに傾倒した脳科学者としてメディアの玩具にされたりしたものさ。ESPがこういった形でひとつの成果になったのは、私を信じて支えてくれたアディラの──妻のおかげだ。このオリオンに渡って、君の父君と知己の間柄になれたのも大きかったね。今までに無い知見から物事を捉えられるようになった」


 しかし──と、男は物憂げに天井を仰いだ。


「この都市での充実した日々も、そろそろ終わりになるだろう」

「……どういう事?」

「上からの圧力が強まっていてね……。連中はESPの軍事転用を狙っているらしい。確かに、この技術はまだ地球側にもひた隠しにされている。あちら側に対しては大きなアドバンテージに成り得るだろうが……」

「……ああ、なるほどね」


 新理事長の元推し進められている「月の解放」だ。私とて地球の連中に恨みはあるが、力で捩じ伏せるような方法が美しいとは思えない。私が望んでいるのは、もっと圧倒的かつ、絶対的な精神的地位の逆転だというのに。

 私が溜息をつくと、男は寂しげに微笑んだ。


「……実はね、もうすぐこの月を発とうと思っているんだ」

「え?」

「妨害があるといけないから、本当に近しい者にしか話していないがね。この研究室に残っている資料も、もうハリボテだけだ。あとは私が僅かな手荷物を片手に、部屋を後にするだけという訳さ。ちょうどいいタイミングで訪ねてきてくれたものだよ」

「ふぅん、そうなの」

「寂しいな、引き留めてくれないのかい」

「私だって、知り合いが尻尾振って理事会の飼い犬になるとこなんか見たくないもの。何処か知らないところで元気にしてるだろう、って想像する方がマシだわ。貴方の選択を尊重する」

「……フ、そう言って貰えて救われたよ。……いっその事どうだい、君も──」


 そこまで言いかけて、彼は珍しくバツの悪そうな顔をした。それがおかしくて、私の口の端に笑みが浮かぶ。


「……すまない。君は……」

「いいのよ、気にしなくて。別に不幸だなんて思ってないし」


 この月で生まれた私は、地球の環境下では恐らく生きていけない。いくらこの都市が望まぬ道へ進んで行こうと、私に逃げ場はない。しかし、それでも──。


「私はこの街が嫌いじゃない。私の体質とかは関係なく、最後まで見捨てたくないの。それに、パパだってついてるんだから大丈夫。結構頼りになるのよ、あの人。意外と口も達者だし」

「……そうか」


 男はミルクティーを一口啜ると、不意に笑顔を向けながら言った。


「そうだ。しばらくはお目にかかれない事だろうし、少しばかり君の行先を占ってみようか」

「え?」


 突然の提案に困惑している私をよそに、男は傍のラップトップを引き寄せると、電源を入れた。冷却ファンの唸る微かな音と共に、彼は語り始める。


「昔占いを嗜んでいてね。君はそんなもの信じない性質にも思えるが、私なりの君へのアドバイス、もしくはエールとして、話を聞いて欲しいと思うんだ」

「……構わないけど、その為に何で端末を立ち上げる必要があるの?」

「便利なものでね。今はそれ専門のウェブサイトというものがあるんだよ。必要事項を入力すれば、たちどころにその人物の星巡りがHTML上に出力されるという寸法さ」

「……神秘性のカケラも無いわね……」

「ハハ、まぁそう言わないでくれたまえよ。……さて、早速だが、君の生年月日を聞かせてくれるかな?」

「……N.E.ニール暦88年の9月14日」

「つまりはまだ16歳か。若いね、羨ましいよ」


 軽口を叩きながら男はキーボードを滑らせる。現れた結果は私の角度からは見えない──恐らく見えても理解できないだろう──が、彼は顎髭を撫ぜながら、興味深げに頷いてみせた。


「……何よ」

「なかなか興味深い結果が出たものでね。さて、君の未来について……君自身、何か気になることはあるかい?」

「……強いて言うなら、ゾディアック・システムが無事に実現するか、とか? まぁ、運命が芳しく無くても実現させるつもりだけど」

「君らしい。それについては……」


 男は私の方に向き直ると、神妙な面持ちで告げる。


「……その行先には大きな試練が待ち構えているようだ。それはもしかすると、君が今まで経験した事がないほどの──君の気丈な心を、いとも容易くへし折ってしまうようなものかもしれない」

「……」

「だからといって、その道を諦めろ、などというつもりはないよ。ゾディアック・システム構想に君がどれだけの情熱を捧げているのか、私は知っているからね。ただ……忠告として、覚えておいて欲しい。いつかそれが訪れた時、君が前を向いて、立ち向かっていけるように。私もそれを望んでいる」

「……ふん。言われるまでもないわね」


 私の答えに、男はにこやかに頷き、それから、と一言おいて続けた。


「……君、もしかして今恋をしているのかな?」

「はぁ!?」


 男の口から飛び出してきた予想外の台詞に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。……そんなの、私の今までの辞書には登録されていなかった単語だ。勿論、下世話な週刊誌の記者などがニヤつきながら話題にしてきたことはあったが。


「君は近々──具体的には1年以内に、生涯を共にするパートナーを得る事に……なるようだ。もしかすると、その候補とはもう縁が繋がっているのかと思ったのだが」

「……馬鹿言わないで。知ってるでしょ、私の周りの男なんてパパくらいしかいないわよ。あの人だってそういう対象には成り得ないわ」


 ひとつ溜息をついて、私はホットチョコレートを啜った。もう人肌程度にまで冷めてしまっている。

 恋愛だの、結婚だの……そんなのは今までの人生で考えたことも無かった。大体私はこの月から出られないのだし、そういう事があるとすれば、それは繁殖などを度外視した心の繋がりに他ならない。……私に限って、ますますあり得ない事ではないか。


「……最初はちょっと真面目に聞いてたのに。結局はオカルトの類を出なかったみたいね」

「そうかい? 私も昔は君のようなスタンスだったものだが、アディラと出会ってからは世界の色が変わったように見えて──」

「はいはい。惚気は地球に帰ってから、私の知らない奴にして頂戴」


 私は空になったカップをソーサーに戻すと、席を立った。もう目眩がする事はない。今日の外出についてエルには伝えていたけれど、あまり遅くなると、また養父が余計な心配をする事になるだろう。


「ご馳走様。もしこの街が正気を取り戻したら、また会いましょう」

「ああ。このアサーブ・チャンドラ・サティシュ、彼方の故郷から、君の理想が果たされる事を祈っているよ。また会おう」


 手を振る彼に応えながら、私は五碩学サティシュ博士の研究室を後にする。目に飛び込んできたシミひとつない白亜の廊下に、私はまるで時間を飛び越えてきたかのような錯覚を覚えた。


 ──具体的には1年以内に、生涯を共にするパートナーを得る事に……なるようだ。


「……馬鹿馬鹿しい」


 先程の会話を反芻して、私はかぶりを振る。他にも沢山重要な話をされた筈なのに、あの話題だけにバイアスがかかって思い出されてしまうのは──私が結局は、16歳の少女に過ぎないと言う事の証左なのだろうか。


「……全く、最後まで食えない男だったわ」


 負け惜しみのようにそう呟いて、私は自室への帰路についた。

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