第4話
少女は物心がついた時、世界に絶望した。
体が弱かった。生まれつき下半身は機能しておらず歩くこともままならない。免疫は人よりも劣り、軽い風邪ですら致命的な肺炎を発症するほどだ。
加えて感覚野にも異常をきたしていた。聴覚過敏や嗅覚過敏は勿論、感覚過敏を患っており、皮膚が空気や紫外線に触れただけでも針に刺されたような痛みに苛まれる。
幼少期は地獄だったことだろう。外に出ることは禁止、無菌室の様な部屋で過ごすことを強要され、その上、肌の痛みで熟睡も叶わない。可愛らしい容姿も相まって誰もが彼女を哀れんだことだろう。
―――それだけならば。
8歳になる誕生日の席で彼女は両親に言った。
「肌が痛くて眠れません、なぜ治してもらえないのでしょうか?」
彼女からすれば、ふと湧いた疑問を口に出しただけなのだろう。体が弱く、外に出ることも許されない。無邪気ながらも正当な言葉に、善良な両親は涙を流した。
「ごめんなさい」
「許してほしい」
「そんな体で産んでしまって」
「これから苦しいこと、辛いと、たくさんあるだろう」
「だけどこれだけは知っておいて欲しい」
「私たちは貴女のことずっと愛していることを」
その言葉に少女は。
「いえ、そんなどうでもいいことではなく、この程度の障害をなぜ治せないのかと聞いているのですが?」
簡単に言った。
「神経性疼痛の一種ですよね、神経ブロック治療を行えば少なくとも改善されるはずです。どこの神経がどうなっているかは私が把握しておりますので、早く治してください、不愉快です」
結果的に言えば、成功したと言えるだろう。彼女の指示通りの治療を行うことで完治とまではいかないものの、症状は大きく改善されて熟睡を満喫出来るようになった。
ギフテッドと言う言葉がある。
今では実際に称号などと言う本当の贈り物があるから、そう呼ばれてはいないが、称号と言う概念がなかった前時代においてギフテッドと呼ばれるものは先天的な脳構造により異常な能力を発揮するものなどをさしていた。
有名なところではジーニアス病、サヴァン症候群などがあるが、彼女はまさにそれであった。頭頂葉、側頭葉の異常増大が運動野や感覚野に影響を与えた結果として、下半身不随や神経性疼痛などを引き起こした様だが、そんなものは些細なことだ。
恐ろしいことがあるとすれば、本来、人としての機能が異常化しただけの彼女の持つ知性が、神々の与えた称号持ちに劣らないと言う事だろうか。そんな人間は後にも先にも2人だけしか存在しない。
そして、さらに恐ろしいのは、それだけの力を持った彼女は後天的に。
――称号を与えられた。
後に彼女は日本最悪と呼ばれるようになる。
紫織はため息をついた。ただ息を吐くだけの所作だが、見目が麗しいと言うだけで世界を憂う深窓の令嬢などと呼ばれたこともある。ちなみに、その時脳内で思い描いていたのは、身体に動物の体を継ぎ接ぎしてショック死した人間のことだ。
なぜ、だろうか。
より強い体になりたいと言うから、生物の中で最も運動効率がいいであろう昆虫の体をつけてみたのに、麻酔から起きた途端に絶叫し心を壊してしまった。稼働実験位は行いたかったなと哀愁を纏っている。
錬金術師の脳内なんてこんなものだし、世界を憂う聖女なんてものは民衆の妄想でしかない。現実を見て欲しい、本物の聖女称号など戦争に突貫して、荒らしまわっている頭のおかしな女だ。
いや、現実がそんなものだから、妄想をするのだろうか。世を憂う美女なんて下らない、そもそも他者に心を傾ける称号持ちなどいてたまるものか。
とは言え、遺憾なことに全くの見当違いと言う訳でもない。紫織はある意味で世界を想い、憂いている。その天才と言って過言ではない、
「猿」が素知らぬ顔をして、あちこちに
憂いて、気にかけて、案じていることだろう。
「人間」として。
「それで、錬金術師ともあろうお方が、こんな所に何か用でも?ここには精々、ロリコン魔王くらいしか見るべきものはないはずだ」
「うふふ、うふふふふ。そうでしょうか?そうでもないでしょう?見るべきものは、たくさんありますよ。例えばそうですね―――最新の称号とか」
予測通りにの解答に太陽は心の中でため息をついた。現状、3つしか確認されていない特殊称号にして、錬金術師の特性であるアーカイブに記されていない唯一の存在に、この女が興味を持たない訳もない。
とは言え、魔王の居城に入れば問答無用に排除されるのも理解しているから、この付近で観察していたのだろう。それを指し示すのは彼女の後ろに浮かぶ
「ハハハ、ドローンですか」
「便利になったものでしょう?私の様に力がなくても簡単に操作が出来ます。それなりに解像度もよく、自動運転も可能ですしね」
彼女が引き連れているのは複数の翼を回すことで生じた風により飛行する
「そのラジコンを今すぐ止めて帰っていただいても?」
「構いませんよ。後日、騎士様が神子様を紹介して下さるならですが」
「ハハハ!あり得ない!!」
こいつに幼子を渡そうなどと狂った思考の持ち主は称号持ちにだっていないだろう。何せ気まぐれで子供を1人引き取って、称号持ちの遺体から取り出した脳髄を無理矢理移植したことがある様な女だ。
中途半端に成功してしまったせいで知らない記憶を抱えて発狂した少年を処分し、当人は涙を流して「愛せると思ったのに」と
勿論、騎士と呼ばれる男がそんなことを許容するはずもない。
「無理に止めて欲しいので?」
「騎士様に無理矢理されると言うのは、とても。とてもとてもとても興味深いお話ですが、女性に手は出さないのでは?」
「暴力は振るいません、寝てもらうことにはなりますが」
「出来るものなら」
嘲笑うように手を広げた彼女に対して溢れるのは不信だ。錬金術師と言えども女性である事に変わりはなく、太陽なら文字通り赤子の手を捻るより容易く昏倒させることが出来る。なら、この自信はどこから来るのだろうか。
考えたところで関係はない。頭で錬金術師にかなうはずもないし、そもそも敵の罠など踏みつぶしてこその騎士なれば、車椅子に座って、特に抵抗を示すわけでもない紫織に手を伸ばした。
緩慢と言っていい速度で彼女に触れようとする。
瞬間。
どこからか現れた男が、太陽の腕を掴んだ。
彼の顔はマスクと帽子で隠されているものの既視感があった。
「紹介致します。彼は今、私の護衛を担っていましてね」
優しく微笑みながら女は笑った。称号持ちすらも凌駕する、人類史が誇る天才。流石の彼女であれど脳構造の異常からなる下半身不随を改善は出来なかった。故に、歩くことは叶わず、不便も多いため必ず世話役の護衛を引き連れており、今回はこの男と言う訳だ。
「だから?」
それに何の意味があるのだろうか。
男の正体は不明だ。しかし、何であれどうでもいい。
改造人間か、ゴーレムか、人口生命か、あるいはどこかの称号持ちか。そのどれであろうとも純粋に力で太陽を止めることが可能なものは存在しない。中華国の悪来やフランスの神祖、完全装備の雷帝でさえ力という1点においては、騎士に劣る。
だから太陽は掴まれた腕を無視してそのまま手を伸ばそうとして。
停止した。
「おや?」
まるで鉄の塊に溶接された様にビクともしない。もっとも、あくまで比喩であり、その程度の固定であれば容易く引きちぎるのが騎士称号なのだが、そんな化け物に対して力を拮抗させている男は何者なのか。
少しだけ笑いを零した。
「ハハハ!」
太陽が僅かに力を込める。
感覚的にはダンプカーが吹き飛ぶ程度の力。作用に対する反作用で地面が屈服した様に
「ハハハ!少なくとも肩の骨は砕けた様だが」
「そちらこそ。腕の骨が折れて肉が潰れている様に見える」
口を開いた男の声は痛みなど感じていないかの様に淡々と事実を指摘した。驚愕すべき結果だろう。この男は称号騎士と真っ向からの力勝負で対等に肉と骨を砕きあったのだ。しかし。
「だから?」
それがどうしたと言うのか。
肩が潰れたことで生じた隙に手から逃れる。手形上に握り潰された腕からは血やら肉やらが滴っているが、そんなものは大したことではない。
「ふふ。ふふふふふふ。近くで見るのは初めてですね」
「まあ、人に見せたいものではないので」
錬金術師が感嘆の声をあげる。挽肉同然になっていた腕。それが数秒で元に戻ったのだから、当然の反応だろう。
これこそ騎士称号が持つ特性の副作用である筋力強化と超速再生能力だ。単独で、数百トン以上の力を行使して、致命傷すらも容易く治る。
相手取るなら、これ以上の悪夢があるだろうか。
控えめに言って化け物と言うに相応しい、しかし、男は動揺もなく紫織との間に突っ立っている。
むしろ、目を見開いたのは太陽の方だ。
「肩は潰れたはずでは?」
「別に。そちらの腕が治るのだから、同じことだろう」
確かに骨ごと肉や靭帯も砕けたはずだ。しかし、血の跡はあれど、男は何事も無かったと言わんばかりに肩を回していた。まるで太陽と同じく完治した様に。
「ハハハ、相変わらず悪趣味なことで」
目の前に立つ男を不愉快そうに見た。光あたりが、それを見れば珍しさのあまりに「明日辺り雷帝でも降ってくるかもしれないな」と
「そう言えば、臓器用クローン技術の開発は成功していましたね」
「えぇ、えぇえぇえぇ。実際、そこまで難しいことではありませんでした。臓器の細胞は、その臓器の形を理解しているので、後はただ増やせばいいだけです」
「その成果がそれですか?ハハハ、笑えない」
「貴方様のサンプルは簡単に手に入りますからね、それに称号自体も最適です」
ドッペルゲンガーを知っているだろうか。自身と同じ顔をしたものが殺しに来るなんて与太話だ。しかし案外その話は正鵠をついているのかも知れない。
人間の思考には根本的に自己嫌悪、同類嫌悪が存在している。これは自分とは違う遺伝子を残す為に脳髄に刻まれていると言っていい本能であり、仮にそんな生き物が自分と同じ他人を見た場合どうなることか想像に難くない。
そこに生まれるのは「殺意」のみだ。
騎士は護衛の男を見据えた。
大柄だ。ちょうど太陽と同じくらいの身長、体格をしている。マスクや帽子で隠されているが、顔もきっと似ていることだろう。
否、それは誤解を与えるので言い換えよう。
似ているのではない、きっとまったく同じなのだろう。
「うふふ。うふふふふふ。私も女ですもの。叶う事なら騎士様に守ってもらいたいと思うのも仕方がないことでしょう?」
「そう思って頂けるのなら、これ以上、不名誉なことはない。吐き気がしますね、お
恋焦がれる少女の様に頬を赤らめる女に唾を吐き捨てたい衝動に駆られる。例え考え付いたとしても、実行するだろうか。臓器用クローン技術を転用して、僅かな遺伝子から1人の人間のドッペルゲンガーを生み出そうなどと。倫理や禁忌なんて笑顔で破壊するのだ、この女は。「人類の為」なんて馬鹿げた大義名分を掲げて、知的欲求を満たし続ける。
その結果が騎士の目の前に立つ太陽のクローンと言う訳だ。
「ハハハ、真の敵は文字通りに自分自身と言う訳か。その人形、壊しても文句は言わないで下さいね、お
「やれるものなら。やってみるといい、オリジナル」
「では遠慮なく」
そう言うや否や、太陽の拳が男の顔面を殴り飛ばす。
「ねぇ、死んじゃうよ?」
ふと、少女の声が聞こえた気がした。
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