第三話 アイラ

 目の前の黒馬の放つ、普遍的な生物の一線を越えた独特なオーラを前に、俺たち四人は動けないでいた。


 かといってそれは威圧的なものではなく、存在する世界というか、住んでいる次元が違うというか、見るものを釘付けにしてしまうような、そして、あまりに美しいその姿を見ることに対して、生物としての罪悪感を覚えるような、圧倒的なものだった。


 そして、悲しみに溺れているその黒馬の足元には、ところどころ肉が抉れ、額には生えていた角が切り取られたような跡があり、たくましい蹄は粉々に砕け、腹部は爆ぜて腸が飛び出して……と言ったような、上げればきりがないほどに激しい損傷を負った、おそらくこの黒馬の親であろう一体の黒馬の亡骸が横たわっていた。


「……一体、ここで何が……」


 思わず、そう呟く。


 俺が呟いた直後、バキッという、大きな音がした。どうやら、動揺のあまり先頭にいたザンがふらつき、大きめの枝を踏み折ってしまったらしい。


 その瞬間、ピクリ、と黒馬の耳が動いた。


 ゆっくりと、その馬が首を上げ、こちらに顔を向ける。


 そして、俺たちを視界にとらえた。


 ――瞬間、涙を湛えた目が、明らかな怒りと敵意、憎悪と言った類の色に染まった。


「オォォォオオオオォオオオ!」


 到底、馬とは思えないような重たすぎる圧力を孕んだ高音で、怒りのままにいなないたその馬は、絡み合う二本の角を光らせ、魔法を発動した。


「――ヤベェ……これは……、マっ、マジでヤベェ」


 圧倒的な覇気を前にいまだに動けないでいる俺たちは、今し方ザンの発したような掠れた声しか出せないでいた。


「なんて……大きっ、な……まほッ、なの、よ……こっ、れ」


 奥歯をがたつかせながら、ヴェロニカがそう絞り出す。


「あの、幻、獣……わ、わたしたち、を、巻き込、んで、自爆しようと、してる!」


 イーネスがとんでもないことを言い出した。それが事実だとしたら本当にまずい。


 とはいっても、俺自信、動く余裕なんてない。そんなことをしたら、この圧倒的プレッシャーに負けて膝をついてしまい、本当に動けなくなってしまいそうだからだ。今は歯を食いしばって、必死に耐えているが、それが、限界。


「おっ、オレが、守んねぇとっ……」


 ザンが、その圧倒的なプレッシャーに抗い、盾を取り出そうとする。しかし、それすら叶わず彼はついに膝を折った。


 なにか、何か打つ手はないのか。何でもいい。本当に何でもいいんだ。


 さっきみたいに剣を投げる? 無理だ。今そんなことできない。


 身体強化は? やってみる価値はあるが、体が言うことを聞かない今、その体を強化しても意味なんてあるのか?


 ユニークスキルは? 言いつけを破ることになるが、試してみる価値はありそうだ。だが、これも自由に動けない今、しかも一度も使ったことのないものなので、できるかどうか……。


 いや、考えるのは後だ。思いつくことは、全部試してやる。どうにかしてこの状況を変えないと、おそらくあの黒馬が放つ魔法で俺たちは文字通り消し飛ぶだろう。


 まずは、身体強化からだ。


 俺は、プレッシャーで言うことを聞かない体を無理に動かして、意地で魔法を唱えようとした。


 その時、目の前で魔法を使おうとしていた黒馬が、全身から血を噴き出して倒れた。


 一気に、その場に立ち込めていたプレッシャーが薄れる。


 俺たちは長時間の重労働から解放された様にドサドサと座り込んだ。


「な、なにが、起こったの……?」


 肩で息をしながら、イーネスが呟く。


「わ、分かんない……けど……」


 俺は、何とかイーネスに返事を返しつつ、鉛のように重くなった体に鞭打って立ち上がる。そして、血だまりに倒れ伏す黒馬にゆっくりと近づいて行く。


「ちょ、ユヅキくん……な、なにする、気なの……?」

「あの馬、傷だらけだ。助けなきゃ……」

「そんな! ユヅキ、危険すぎるよ!」

「そ、そうよユヅキくん! 幻獣、は、詳しいことはまだわかってない、けど! 普通のま、魔物とも比べものにならないくらい、つ、強いのよ? それだけは、確かだし、弱ってたって、それは揺るがない! それに、今アタシたちを攻撃しようとしてたのよ?」

「分かってるけど……でも、あの馬は泣いてた。泣いてたんだよ! 同族の死を、前にして……。俺は、仲間が死んだことに対して涙を流すような奴が、意味もなく敵意を向けてくるとは、思えない、んだ! なにかきっと、訳があって……」

「そ、んなの、希望的観測ってやつじゃあねぇかよぉ……」


 たしかに、そうかもしれない。すべては俺の憶測によるもので、本当に意味も無しに敵意を向けてきた可能性も否めない。だが、俺はあんな悲しみを湛えた目をする奴がそんなことをするなんてどうしても思えなかった。


 それに、これは自分でもなんでなのかよく分からないが、この馬を今ここで死なせてはならない、そんな衝動に駆られたのだ。


 重たい体を引きずって、一歩ずつ近づいていく。


 そして、倒れ伏す黒馬のすぐ近くまで足を進めたとき、馬が小さく震えながら首を上げた。その時、いまだに悲しみを含んだその瞳と目が合った。


 俺は、そんな瞳に必死になって訴えた。


「だ、いじょうぶ。俺たちは敵じゃないし、君に危害を加えるようなことは何もしないよ」


 俺の訴えが届いたのかどうかはわからない。しかし、その馬は俺の言葉に耳を震わせると、角の先端に光を集め、輝く光の玉を作った。そしてそれを、ふわふわと漂わせながら俺に向けて飛ばしてきた。


 不思議と、それに対しては危険な感じはしなかった。


 俺の頭をめがけてゆっくりと向かってくる光の玉に対して俺は何の抵抗もせず、それを受け入れた。光の玉は、俺の額に触れたかと思うと溶け入るように頭の中に入り込んできた。瞬間、バイコーンの様々な記憶の断片が爆発した。


 刃物を手にした黒いローブの人間たち。


 次々と襲い掛かってくるその刃。


 攻撃に対処しきれず、深手を負った娘。


 その娘を魔法で治療しつつ、上位魔法で反撃する母親。


 それを、何故かたやすく跳ね返す人間たち。


 増幅され、何度も跳ね返された自分の魔法で死んだ母親。


 その亡骸から角を切り取ってどこかに消えた人間たち。


 そのうち何人かは灰になって消えた。


 残ったのは、全身傷だらけの娘と、母親だったもの。


 悲しい。


 辛い。


 久しぶりの森。


 嫌だ。


 楽しみにしてたのに。


 死んだ。


 お母さん。


 もういない。


 何で?


 どうして?


 憎い。


 人間が。


 アイラたちが何をしたの?


 何を? 何を? 何を?


 ――何をした?


 おかあさん、いかないで……。


 ………………。


 気が付くと、俺は涙を零していた。自然と溢れたそれはとめどなく流れ続け、頬を濡らす。


 様々な情報が流れて、溢れて、消えていった。最後に残ったのは、目の前の黒馬の人間に対する憎悪と、最愛の母親を亡くした、深い、深い悲しみだけだった。


「……そうだったんだ」


 おもむろにそう呟くと、俺は腰に吊っていた剣を鞘ごと外し、その場に置いた。腰に固定してあるダガーも鞘から抜き取り、剣とともに置いた。


 そして、怒りと悲しみに満ちた黒馬に、そっと歩み寄る。すると、その黒馬は俺が近づくと同時に、角を光らせ始めた。魔法の素人でもわかる、攻撃魔法だった。


 だが、すぐに光っていた角が点滅し、集めたマナが暴走して逃げ出した。その暴走したマナは、荒れ狂う波を思わせる動きで周りの木をなぎ倒して燃やし、最後には母馬の亡骸に着弾、魂なきその体を、灰に変えていった。しかし、懲りずにまた角を光らせ、マナを集める。


「……みんなは、危なくないところまで下がってて。後は、俺が何とかする」

「ダメだよユヅキ! そのバイコーン、自爆、しようとしてる! 一緒に逃げようよ!」

「それじゃダメなんだ……。あのバイコーンは、ここで死なせちゃいけないんだ。散々な目にあって、母親まで亡くして、人間への憎しみに満ちたまま、死ぬなんて……。そんな死に方って、無いだろ」


 声を絞り出しながら、一歩ずつ、前へ。


 荒い息を吐きながら威嚇を繰り返す黒馬。その体力は限界に近いようで、自爆魔法の発動もうまくいっていないようだ。その証拠に、蒼白く輝く角の光が点滅を繰り返し、溜めた魔法が徐々に消えかけている。


 そしてついに、倒れる馬の前に俺は立った。


「大丈夫、俺たちは敵じゃない」


 できるだけ優しげな声色で、俺はそう声をかける。そして、首元の傷に、薬草を押し当てた。


 黒馬がビクッと、体を震わせる。


 近くで見ると、本当に全身傷だらけだ。よっぽど痛めつけられたのだろう。


「……理不尽だよな、こんなの」


 何も悪いことはしていないのに、楽しみにしていた久々の森で家族を奪われ、痛めつけられ。まるで、俺が受けていたいじめそのものじゃないか。いや、それ以上だ。家族が殺されているんだから。


 バイコーンを襲った集団の目的はわからない。わからないけど、あまりにも理不尽であることは流れてきたバイコーンの記憶の断片から見て取れる。


「ごめんな。大丈夫、大丈夫だから……」


 俺はそう言って、傷薬を塗った薬草を当てる。それを優しく首筋に押し当て、ゆっくり、ゆっくりと塗り込む。


 その時、声が聞こえた。


『……どうして? なんで人間のあなたが助けようとするの? 伝えましたよね? 今、人間に母を殺された、だから、あなたたち人間が憎いって。なのになんで……』


 俺は、驚愕した。その声が鼓膜ではなく、直接脳内に響き渡ってきたからだ。しかし、動揺を抑えつつ、その問いに答える。


「……確かに、人間の中には悪い奴もいるよ。君の母親を殺して、君の心身を傷つけたやつらみたいに。でも、人間ってそんな奴ばかりじゃないんだ。俺がそうだとは言わないけど、いい人もいっぱいいるんだよ。それに、目の前で傷だらけで倒れてる生き物がいたらそりゃ助けるよ。理由なんて無くてもね」


 優しくそう言葉をかけながら首筋を撫で、開いた手で治療を続ける。


「俺が君を助けたいって気持ちは本当だからさ、自爆とかやめて今は傷を癒そうよ。君、全身ボロボロだしさ」

『……お母さんを失った。お父さんは物心ついた時からいなかったから、お母さんがたった一人の家族だった。それすら亡くして、もう何も残っていないのに、まだ生きろというの?』

「うん、言うよ。だって、君の記憶の中のお母さん、最後まで君のこと守ろうとしてたじゃん。それって君に生きてほしいからそうしたんだと思うんだ。だから、こんなところで死んだらお母さん、悲しむんじゃないかなぁって思うんだけど……」


 黒馬は、ハッと目を見開く。


『そう……考えれば、そうかも……』

「でしょ? だから今はとりあえず傷を治すことに集中しよう」

『……今、あなたたちを殺そうとしたんだよ?』

「知ってる」

『それでも助けようというの?』

「うん、助けるよ。だって、あんなにも理不尽な君の記憶を見せられたら、人間のことが憎くて殺してやりたいって気持ち、わかるし」


 そう。規模は違うかもしれないが、俺だって斎藤達を殺してやりたいって思ったことは何度もあるし、気持ちはわかるのだ。


「ほら、とりあえず、傷を治さなきゃ」

『……そう、だね、そうする。でも……』

「ん? どうかしたの?」

『あの、結構限界が来てて、この姿を維持するのも、もう、持た、ない……』

「ん? え? どういうこと?」


 脳内に疑問符を浮かべていると、その黒馬の全身が光り出した。


「な、なんだ!?」


 眩しさに思わず目を細める。この光の感じ、さっきの自爆魔法の感じとは違うし、今まで見てきたどの魔法にも当てはまらない新しい感覚だ。


 しばらくすると、だんだんと光が弱まっていき、視界も元通りになった。そして、先程まで血だまりに沈んでいた黒馬の姿は無くなっていて、代わりに白と黒が混じった髪を持つ、小さな女の子が横たわっていた。裸で。

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