第十一話 組手
空全体は、薄闇に包まれつつあった。
俺は今、道場で父である天梨優朔と向かい合っている。その周りには、お母さんが審判を務め、祖父母とイーネスは少し離れた場所で俺たちを見守っている。
じいちゃんは何やらワクワクした面持ちで俺たちを眺め、一方ばあちゃんはというと落ち着き払った冷静な態度で傍観に徹している。イーネスも努めて平静を装っていたが、どこか緊張した様子だった。
三十分前、今の時間にイーネスとともに道場に来いと言われ、稽古着に着替えるプラスイーネスを呼ぶべく自分の部屋に戻っていた。イーネスを呼び出し、ついでに稽古着に着替えると、すぐさまイーネスとともに道場へ向かった。
イーネスは、「え!? わ、わたしも?」と、驚いた様子だったが、組手の話をしたら興味津々といった様子で同行してくれた。
道場を開けると、すでに俺たち以外のみんなは揃っていた。予定時間まではまだニ十分も余裕があるのに、だ。
お父さんは俺と同じ稽古着に着替え、道場の中央で正座をし、黙想をしていた。俺とイーネスが道場に挨拶とともに入ると、お父さんは黙想をやめて立ち上がった。(ちなみに、イーネスには武器整備の時に道場に対する礼儀作法は一通り教えた。呑み込みが早く、異文化のはずなのにすぐに適応してしまったイーネス、すごい)
「予定時間はまだあるけど、準備運動は済んだのかい?」
「それは愚問だよ、お父さん。武道家たるものいつ何時戦いになるかわからない。故に、いかなる状況であろうとも常に戦えるように在れ。だよね、じいちゃん」
「カーッカッカッカ! 現代科学様クソくらえの精神論じゃが、大正解じゃぞ優月ぃ! 武道家の心構えとしては満点じゃ!」
じいちゃんは、満足そうに破顔する。「じゃがのぉ」と、続けて、
「できるときにできる限りの、万全の準備を整えておくのもまた、真の武道家のあるべき姿じゃ。時間まではまだある。その間はしっかりと準備運動をしておけぃ」
なるほど、確かにそうだ。今の俺は、自分の好きな考えに固執してしまって、柔軟な考えができていなかった。武道家として、まだまだ未熟だ。
「分かったよじいちゃん。あと十五分……くらいかな? その間に準備運動を済ますね」
お父さんも首を縦に振り、また黙想に戻った。しばらく、俺の準備運動をする音だけが響いた。
自然と、その場は沈黙が保たれていた。誰一人として口を開かない。こういう空気は、いい意味で肌がピリピリして身が引き締まるような感じがする。
――やがて、時間が来た。
「……ふぅ、まぁこんなとこか」
俺はちょうど、一通りの準備運動を終えた。お父さんも同じタイミングで黙想をやめ、再び立ち上がった。俺たちは、静かに向かい合う。そこへ、お母さんが近づいてきた。
「それでは、これより天梨優朔と天梨優月の組手を始める」
軽くルールが説明されるが、元よりこの『柳刃天穿流古武術』は、『人を殺すため』だけに編み出された古武術であるため、ルールによる制約が少ない。眼球への攻撃禁止、それ以外には基本的に何でもありだ。稽古では拳や脚にサポーターをはめるとはいえ、十分危険な古武術なのだ。
今回提示された組手のルールは、武器の使用禁止、眼球への攻撃禁止、サポーターなどの防具類の装着禁止、制限時間五分というものだった。俺もお父さんも、審判であるお母さんが提示したそのルールに首肯する。
「お願いします」
互いに挨拶と握手を交わし、定位置につく。と、お父さんが一言、声をかけてきた。
「優月、この組手、全力で来なさい。一切の手加減は無しだ」
「……わかった」
俺の周りの空気は、緊張で張り詰めた。この時点で俺が意識しているものは二つだった。
一つ、審判である母の、組手開始の合図。
二つ、組手の相手である、お父さんの挙動。
全神経を駆使して、この二つにのみ、意識を傾ける。幼少期より育んできた集中力と、自己コントロール能力をいかんなく発揮し、事に備える。
何せ、相手はお父さん――『柳刃天穿流古武術』免許皆伝、天梨優朔だ。お父さんとは組手では何度も戦ったことはある。結果としては、よくて引き分け、悪くて完敗。接近戦で勝ったことなど一度もなかった。ぶっちゃけ、手加減などしている余裕はないのである。
言われなくとも、元から、全力で行くつもりだ。今は、とにかく、集中。
お母さんが合図を出すまでの刹那が、異常なほど長く感じられた。緊張もあるだろうが、何となく、今自分の置かれている状況が大きくかかわっているからのように思う。いじめの事だったり、何の運命のいたずらか分からない異世界の事だったり。けど、いくら長く感じる時間でも、終わらない時間はないのであって。
――その瞬間は、唐突にやってきた。
「始めぇ!」
母の鋭い合図に研ぎ澄ました反射神経で反応し、たわめていた脚を開放、俺は一気に飛び出した。
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