第58話
クィンが使おうとしている魔法はまだ練習中で未完成のもの。けれどそれでも今の状況を打破するにはこれしかないと思っていた。
完成形は彼女の兄が使うような、身体に炎を纏い相手を焼き焦がし、自分は炎で高速で動くことができるというもの。
未熟な自分では炎を纏うことができても、その反動で自分自身も焼いてしまう。
限られた時間の中でなら耐えられるだろう。
自身の体温が下がっているというのも、炎の中であれば軽減できる。
その結果自分にかかる負担については考えたくもないけれど、クィンはそれを使う覚悟を決めた。
アイシャの後ろ姿を見ながらクィンは気付かれないように準備を進める。
対するアイシャはクィンが何処へ逃げたのかがわからないでいた。
「そんなに遠くへは行っていないと思うのだけれど」
彼女は自分の魔力を冷気と一緒に闘技場へ行き渡らせる。自分以外の反応があったらわかるのだが、なんの反応も感じ取れなかった。
どうやらクィンは自分の魔力を抑える術をきちんと習得しているようだと実力を上方修正する。
どうするか少し悩み、だからなんだと気にする必要もないかと思いどんどんと冷気を増していく。
結果動けなくなればそれはそれで好都合だし、焦って飛び出してくればトドメを刺せばいいだけ。
一方のクィンにとっては不幸なことに、アイシャという少女は焦るということをしない。
自分にできることを淡々とこなし、相手を追い詰める術を探し実行、それでいて冷静な判断ができる。
クィンはじわりじわりと足元から冷気が迫ってくるのを感じていた。
冷気の特性上、空気としては重いので初めアイシャが探っていた時は上にいたクィンを感じ取ることが出来なかった。
しかし、時間の経った今、冷気は闘技場内を薄く包んでいた。
そこまでいけばクィンがその包囲網から逃げる事は不可能となる。
「見つけた」
アイシャはうっすらとした反応を感じ取った瞬間にくるりと身体を回転させてクィンの方を真っ直ぐに見つめる。
どうやら魔力を隠していた訳ではなかったようだ。
人形めいた美しさを持つアイシャが真っ直ぐに自分を見ているというのは不気味な美しさがあった。
油断はしない。慢心もしない。
自分の持てる力で相手を倒す。
闘技場を包んでいた冷気を集めクィンの元に収束させる。
彼女と自分を中心として擬似的なブリザードを作り出し、呼吸することも困難なほどの速さで風を浴びせる。
クィンは氷と風の暴力とも言えるそれを歯を食いしばって耐える。
しかし、元々低かった体温は風にさらされることでさらに下がり、正常な判断ができなくなりつつあった。
寒い。心の芯まで凍りつくような寒さ。
息をするだけで肺が凍りつきそうだ。
その中で一瞬、吹雪の風が弱まった。
ここでいくしかない。
クィンは起死回生の一手を狙って魔法を発動させる。
炎が自分を包み込んでいく。
寒いと思っていたのが、温かい、そして徐々に身を焼く熱さへと変わっていく。
ブリザードの中で赤く光る何かを見つけたアイシャは僅かに目を細め、それが何なのかに気づき目を見開く。
「属性強化も使えたのね」
魔法による身体強化にもいくつか種類がある。
その中の一つが属性強化だ。
自分に合った適性の属性魔法を使い自身を強化する。
それは風を纏うものであったり、雷のように速く動けるようなものであったり人や属性によって効果は様々だ。
アイシャがクィンの剣を受けるのに使った魔法。これも属性強化に分類される。
身体を薄く透明な氷で包み自分の防御力を上げる。
扱いを間違えれば氷は彼女自身を冷やし固めてしまうが、アイシャは制御できていた。
けれど、クィンはまだ制御できていないようだ。
「うっ…ぐうぅ!」
炎の中で苦しそうに呻き声を上げながらもアイシャから目を逸らさないクィン。
息をするのも辛いだろうに、彼女の精神力には脱帽する。
「それほど本気ということね」
クィンの時間はあまり残されていない。
ならば限られた時間の中で、思い知らせてあげよう。
付け焼き刃の魔法なんかでは自分に勝てないという事実を。
「来なさい」
アイシャが呟いた瞬間、凄まじい音で地面が爆ぜる。
クィンが地面を蹴ってこちらへ向かってくる。
アイシャがそう判断したときには、目の前に熱く燃えるクィンが立ち、剣を振り上げていた。
剣は熱で溶けていないのを不思議に思いつつ、アイシャはひらりと躱す。
クィンが何度も剣を振るも、アイシャはそれを躱し続ける。
まるで炎と踊っているかのような光景は、見ているものの目を惹きつけるものだった。
「苦しいでしょう? もう終わりにしてあげましょうか?」
「…馬鹿に、しないでいただきたい……っ!」
覚悟を決めて立っている自分を哀れむな。
クィンはさらに炎を纏い、苛烈に攻め続ける。
動いていなければ、身を焦がす痛みと熱さに耐えられなさそうだった。
けれどどれだけ剣を振っても、拳を向けてもアイシャはそれを蝶が舞うようにひらりひらりと避けていく。
当たりそうで当たらない。
届きそうで届かない。
そんなもどかしい気持ちがクィンの心を支配する。
「うぐぅ…ああ!」
もっと身を焦がせ。もっと炎を。
やがて赤く光り輝く炎は、僅かに黄色へと変化する。
煌々と煌く黄色い炎。
より熱を持ったそれは、近くにいるアイシャを容赦なく焼き殺そうとする。
「まるで炎の天使ね」
かろうじて人の形を保っている炎の塊を見て呟く。
既に自分が展開していた茨たちはクィンの炎で焼かれ溶けて消えてしまった。
せっかく自分が動きやすい舞台を整えたのに。
少し気落ちするアイシャであったけれど、その顔からはまだ余裕が伺える。
彼女は自分とクィンの世界を分けるように結界を張る。
「あなたの覚悟は充分に伝わったわ」
自分を焼き焦がしながらも闘争心を露わにして向かってくるクィンの覚悟を感じ、アイシャもまた真剣に彼女を見つめる。
先ほどまでアイシャは真面目ではあった。けれど全力でも本気でもなかった。
「あなたの覚悟に免じて、私も力を示すのが礼儀ね」
薄く張った結界は、クィンの炎と熱の一切を通さなかった。
クィンがどれだけ結界を斬りつけようが叩こうが結界が割れるようなことはない。
「永劫に溶けない氷の世界を見せてあげましょう
『ニブルヘイム』」
アイシャが呟いた瞬間、世界が凍りついた。
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