泥だらけの足

みたか

泥だらけの足

 空を飛んで、流れ星となった人がいたそうだ。その仲間が言うには、宇宙から見た地球はまるで天国のようであったという。地球は楽園で、尊いものらしい。

 そうだ。頭では分かっている。この世界は尊く、地球に生まれたことは奇跡なんだ。

 それでも私の小さい世界では、そんなことはすぐに消えて忘れていってしまう。自分が生きている目の前の生活で、いっぱいいっぱいなのだから。



 夜の住宅街は静かで、この地球には私しかいないんじゃないかと錯覚する。もう他人を怖れて生きていかなくてもいいのかもしれない。そんな希望が頭をかすめたとき、真横から「ふわあ」と気の抜けたあくびが聞こえてきて、そうではないのだと我に返った。

 蒸し暑い風が、私たちの間をすり抜けていく。膝までのワンピースが視界の端で揺れた。

「知ってる? 人は死ぬと星になるんだよ」

 よくある作り話を、ナミの横顔に呟いた。ナミとは幼馴染で、小さい頃からずっと一緒だ。

「へえ、そうなんだ! ミカは物知りだね!」

 初めて聞いたと驚くナミを見て、小さくため息をついた。ナミは少しずれたところがあって、私がバレバレな嘘をついても、すぐに信じてしまう。いつもそうだから、今夜は少し物足りない感じがした。

「死んだら星になって、魂を燃やして、燃え尽きる瞬間に流れ星になるんだよ」

「じゃあ私たちもいつかは空に行くんだね」

「そうだよ」

 つま先で小石を蹴りながら言うと、ナミはいきなり「あっ!」と大きな声を出した。その声で窓から誰かが顔を出すんじゃないかと、背中がひやりとする。

「それじゃあ、いつか夜空は星でいっぱいになっちゃうんじゃない!?」

「もう星でいっぱいじゃん」

「そうだけど! これから先みんな死んでいったら、もっともっと星が増えて、流れ星も追いつかなくなって、空を埋め尽くしちゃうよ!」

 そんなことを大真面目に言うナミがおかしくて、頬が緩んでしまった。白い腕で脇腹をつつかれる。プールの授業が始まって何週間も経つのに、ナミの体は白いままだった。

 ナミとは中学でクラスが別れてしまった。教室も階が離れているから、学校ではあまり会えない。だからこうして、ときどき二人で夜の散歩をしている。親には、近所を少し歩くだけだと言ってある。

 ナミと一緒にいるときだけ、私は私のままでいられる。

 本当の私を知ってほしいくせに、知られるのが怖くて、隠して離れてしまう。否定されるのが怖い。間違っていると言われるのが怖い。そう思っていたら、言いたいことが言えなくなった。周りに合わせて笑ってしまう私は、ニセモノみたいだった。

 私はどの女子グループにも馴染めず、教室では一人でいることが多くなった。それでも自分を出せなかった。幻滅されるくらいなら、離れたい。一人でいたら傷つくこともない。



「ねえ、公園寄ろう!」

 ナミの言葉に頷いた。私たちが昔よく遊んでいた公園だ。

 夜の公園は、昼間とは違ってひっそりしていて、なんだか寂しい感じがする。ブランコも滑り台も、こんなに廃れていただろうか。

 夕方まで降っていた雨が、所々に水たまりを作っている。一番大きな水たまりを覗くと、鏡のように夜空が映った。

 私の背中に広がるたくさんの星たち。指先でつつくと、ゆらゆらと波打って霞んでいった。

 霞んだのは、波紋のせいだけではなかったらしい。頬を伝うぬるい液体を、手のひらでこっそり拭った。

 空が明るい。眩しいくらいだ。星がこんなに私を照らしてくれているのに、私は真っ暗なままだ。

 夜になると涙が溢れて、朝に怯えながら昨日にさよならをする。

 何をしていても朝は来る。未来は必ずやって来る。でもそれは、全ての人に当たり前にやって来るものではないということも知っている。

 それなのに、私は朝が怖い。

「うわっ!」

 思考の波に溺れそうになったとき、ぬるぬるした液体が顔に飛んできた。

「ひゃー! ごめん! 顔汚しちゃった!」

 どうやらナミが、水たまりに思いきり飛び込んだらしい。頬を拭うと手のひらに泥がついた。

「大丈夫だった?」

「……うん、平気だよ」

 ナミは水たまりから水たまりへとジャンプする遊びをしていた。せっかく履いてきたかわいいサンダルが、すでに泥だらけになっている。

「うん、平気。だから私もやる!」

 しゃがんで覗いていた大きな水たまりに、勢いよく飛び込んだ。

「ひゃあ!」

 ぬるい泥が飛んで、足もショートパンツも、全て汚していく。どろどろのサンダルが鬱陶しくて、私は裸足になった。

 そういえば、昔もこうして遊んだことがあったな。

 びしゃびしゃと体を汚していくと、全てがどうでも良くなった。汚れた服も、悩んでいたことも。真っ黒な足とは反対に、心はだんだん晴れていく。

 ポケットからスマホを取り出して、カメラを夜空に向ける。私の古いスマホでは、星は一つも映らなかった。

 それでもいい。私はこの夜を覚えていたい。真っ暗な画面のまま、私は撮影ボタンを押した。



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泥だらけの足 みたか @hitomi_no_tsuki

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