柴田勝家の哀愁 ~もう1つの桶狭間、鬼柴田はどこにいたの?~

牛一/冬星明

第1話 鬼柴田

不思議なことに柴田勝家は永禄元年(1558年)から永禄11年(1568年)まで戦に重用されることがなかった。

太閤記などでは墨俣の築城に失敗しているが、実際の文献には美濃の攻略に参加した記録がない。

あの有名な『桶狭間の戦い』にも勝家の名はない。

大切なことなので、もう1度言います。


『柴田勝家は桶狭間の戦いに参加していない』


では、織田信長と今川義元が戦っている時、柴田勝家は何をしていたのか?

勝家も戦っていたのです。

もう1つの桶狭間の戦いで!


『掛かれ!』


掛かれ、柴田勝家が吠えた。

馬の手綱を弾き、味方の4倍はある敵に襲い掛かった。

そこに迷いはない。


「信長様の退路をお守りしろ!」


勝家に本骨頂、指示が単純で間違わない。

間違えようがない。

誰よりも先頭に立ち、敵に向かってゆく。

勝家は槍を振り回し、敵を蠅の如くに払った為に敵方の岩崎勢が押されていた。


「押せ、押せ、押せ!」


勝家の怒号が天に轟いた。


 ◇◇◇


柴田家は斯波高経の子孫である斯波義勝が越後国新発田柴田を拝領し、そこから柴田氏を名乗ったと伝えられる。その子孫が斯波家を頼って尾張一色村に移り住み、その隣村であった上社村の土豪に元に婿入りしたことで我が上社柴田家が起こったと伝わる。

祖父の勝國の代になると、主家である斯波家が没落して、三奉行の一人であった織田弾正家の信定が頭角を現した。

上社村の南方の土豪であった加藤勘三郎は織田弾正家の家臣となって辺りを併合して上社城を築城し、後に高針城を作ると上社城を柴田主家の柴田勝義に譲った。

祖父の勝國も織田信秀(信長の祖父)に臣従し、下社城しもやしろじょう(下社村)を拝領した。

勝家は大永2年(1522年)に上社村に生まれ、末森城主である次男の信勝の傅役に任命され、信秀の信任も厚く、順風満帆じゅんぷうまんぱんに進んでゆくように見えた。

信長が母親似の女顔でひ弱だったのと対照的に、信勝は信長の年子(1歳下)の弟で聡明な上に信秀似の体格のよさを兼ねていた。


「庄左衛門、父上はお帰りか?」

「さきほど、末森城より戻って来られました」

「そうか」


勝家の子、勝里は居間に座って中庭を見ながら腕を組んだ。

勝家はかって織田信長を南蛮かぶれしたたわけ者・・・・と呼んでいた。

それは不思議ではない。

信長は女顔で体も小さく、線が細く、武将としては頼りなく見える。

奇妙な格好で市中を歩いていたのでそう呼ばれた。


「庄左衛門から見て、信長様はどう映る」

「背も普通ですし、腕も細い。声が大きいことを除けば、大将として見栄えはよくございません」

「5尺5寸(165cm)だからな!」

「見た目はそうでございますが、戦場では違います。先頭に立つ信長様は鬼のように敵に突入して行かれます。信長様が育てた足軽は、それに応えるように戦うのです」

「稲生の戦いでは、父上もそれに負けた」

「勝家様も手強い足軽に一度に掛かられれば、手も足もでません」

加世者かせものがそこまで強くなるとは驚きだ」

「誠に!」

(※加世者:悴者〔かせもの〕、日銭で雇われた傭兵、賎民など)


あの『稲生いのうの戦い』は、信長700人に対して、信勝1,700人、

信勝方には、林 秀貞はやし ひでさだ、林通具(美作守)、柴田勝家が参戦し、兵数で圧倒的して勝つはずだった。

当初は数の有利で進んでいたが、信長が参戦すると柴田軍の兵は浮き足立ち、信長の兵は一糸乱れぬ攻撃で勝家に襲い掛かる。


「父上の兵とどこが違ったのか?」

「まず、農民は信長様を慕っております。祭りなどに行かれて一緒に踊り、餅など配っております。農民は信長様を神のように崇め、信長様の顔を見ると恐れおののくのです」

「無駄に餅を配っていたのではなかったのだな!」

「領主様の顔を知る農民は多くおりますが、殿様の顔を知る農民は少のうございます。しかし、信長様は村に顔を出す殿様です。農民達は神のように崇めております。その神様に逆らうのは無理なのです。逆に信長様が雇われた加世者は足軽として家を与えられ、日々の生活を得ております。信長様がお亡くなりになれば、元のその日暮らしに戻ります。彼らは信長様の為に必死に戦うのを厭わないのです」

「父上が見直されたのは、そこであったか!」

「はい」


若き信長は2男や3男を引き連れて村々を周り、相撲や水遊びをして過ごした。

武家と頭領として、折り目正しく、弓・馬の稽古をしていた信勝とは、似ても似つかない振る舞いであった。

農民に好かれる信長と武将に好感を持たれる信勝。

武将達は信勝こそ、家督を得るにふさわしいと当然だと思った。

しかし、イザぁ戦をすると信長の強さが目立つ。

戦をするのは武将ではなく、足軽という農民なのだ。


「勝里様、それは一面でしかありません」

「何が違う?」

「信長様の南蛮かぶれなのは津島衆や熱田衆と親しくされておるからです。津島衆は商人の出が多く、合理性を好みます。合理的な思考をされる信長様は佐渡守から疎まれましたが、津島衆には絶大な人気を持っておれます」

「たわけと言われながらか?」

「たわけと呼んでいるのは北朝の家臣団のみです。たとえば、瓢箪を腰に下げておられます」

「変わった出で立ちじゃなぁ!」

「あれは鍛冶師が使っていたらしいのですが、夏でも水を飲むと倒れずに済むとか。津島や熱田の商人が真似るようになっております」

「商人らが信長様を真似ているのか?」

「たわけと言っているのは北朝の家臣団の皆さまのみ、津島・熱田衆の商人らは信長様を尊敬しているのです。北朝の家臣団は銭を汚い物だと思われ、銭に執着することを嫌われます。しかし、弾正家の力の源は銭であることを(織田)信光様をはじめとされる一門衆はよく知っておられ、信長様を支持しておりました」

「なるほど、信長様を“たわけ”と呼んでいたのは北朝の者であったか」


信秀が末森城で亡くなる。

看取ったのは土田御前どたごぜんと信長の筆頭家老であった佐渡守(林 秀貞はやし ひでさだ)であった。

遺言で弾正家の家督を信勝が継がれた。

筆頭家老、佐渡守(林 秀貞はやし ひでさだ)の裏切りであった。

佐渡守は信秀を支えた忠臣であり、いくら信長と馬が合わないからと言って筆頭家老が嘘を付くとは誰も思わない。

信長も腸が煮えくり返るほど怒っただろうが覆すことはできなかった。


「信長様の行為は行儀が良いと思えぬが、我慢されたのだろうな?」

「葬儀を潰さなかっただけでも大した者です」

「喪主を弟が仕切るなど、私なら兵を出して暴れるかもしれん」

「家を割る事を嫌ったのでございましょう。根はお優しい方でございます。それに佐渡守も参列している葬儀です。兵はわずかしか集まりません。家臣に反感を買うだけで意味のない行動と思ったのでしょう。信長様は合理性に合わないことをされません」

「自重できるお方なのだな」

「こう申しては何ですが、勝家様が生かされたのはその方が都合良かったからであり、温情だけで生かされた訳ではございません」

「まぁ、戦に負けて、その命を助けて頂いたのだ。父上も感謝こそすれ、思惑を巡って憎むこともあるまい」


弾正家の家督を奪われた信長は怒ったが、それ以上の無茶をするようなこともなかった。

しかし、虎視眈々と次の一手を狙っていた。

守護斯波 義統しば よしむねが斬殺されると、その一子である義銀よしかねを手に入れ、仇の守護代(織田 信友おだ のぶとも)を倒し、義銀よしかねと共に守護代理となって清州に入った。

弾正家の家督を奪われた信長であったが、守護代理となった信長の方が偉くなった。

弾正家は奉行職に過ぎない。

今度は信勝が信長に頭を下げる必要になった。


「信秀様は、南朝を信長様、北朝を信勝様、二人で弾正家を支えて貰いたかったのかもしれません」

「政治を信長、武芸を信勝と分けたかったのか?」

「二人で織田家を盛り立てれば、盤石になったに違いありません」

「だが、自分より偉くなった信長に憎悪した信勝が愚かだった訳だな!」

「信長様ができた自重を、信勝はできませんでした」


信勝は佐渡守(林 秀貞はやし ひでさだ)の協力を得て信長と対抗した。

美濃の斎藤 義龍さいとう よしたつが道三を討ったことで信長の後ろ盾はなくなり、逆に信勝と同盟を申し出てきたのが大きかった。

そして、『稲生いのうの戦い』になった。

敗退した信勝は土田御前の嘆願で許され、そのまま末森に残ることになった。

これで兄弟仲良く力を合わせれば、すべてが巧くいったのだがそうならなかった。


津々木 蔵人つづき くらんどは今川と通じておったのであろうな!」

「おそらく、そうかと!」

「信勝の首を取らなかったのが仇となったか!」

「信長様は戦国武将として、恐ろしいほど甘いお方です。勝家様もそれで助かっております」

「それを言われると辛いな!」


信勝は大敗したのに、再び信長の首を取ろうと画策した。

勝家は止めたが、近臣の津々木 蔵人つづき くらんどの誘惑に乗ってしまったのだ。

岩倉城の織田信安に通じるなどして謀反を企て、再び篠木三郷を押領しようとした。

それを勝家が密告して、信長は病に掛かったと仮病を装って清洲城へ呼び出して誘殺された。


「家老として信勝)を諌められなかった罪で、信勝の子である坊丸(後の津田 信澄つだ のぶずみ)の教育を命じられた!」

「信長様の温情でございます」

「しかし、登城を禁止されては、汚名返上おめいへんじょうの機会がないではないか!」

「坊丸様の傅役という大任を頂いております」

「6歳の稚児がいつになったら元服する。もう今川の大軍が押し寄せて来ているわ」


永禄3年(1560年)5月、今川義元は大軍で尾張に迫っていた。


 ◇◇◇


柴田勝家の下社城しもやしろじょうは尾張の東にあり、那古野城から末森、下社、岩崎を抜けて、飯田街道を通って三河の安祥城に行ける。

尾張から三河に抜ける道の途中にあった。

海の満ち引きで通行に支障をきたす鎌倉街道と違い、飯田街道は月を気にすることがない。

故に、織田信秀は居城を末森城に移した。

下社城しもやしろじょうはその末森城に至る出口を守る城の1つであった。


勝家は今川の様子を伺う為に毛受照昌を三河に派遣し、今川義元の動きを探らせ、その毛受照昌が帰ってきた。


「庄左衛門、あいさつは良い。今川の動きを教えろ!」


はぁ、照昌は頭を下げると、勝家と勝里の前に座り直した。

その顔はかなり厳しい。


「16日、義元の本隊が岡崎城で宿泊し、先発隊は池鯉鮒(知立)宿まで来ております。福谷城に向わず、祐福寺に前触れが走った様子でございます」

「祐福寺ということは、沓掛城に入るのか?」

「おそらく、そうなると思います」


勝家の眉間が集まり、厳つい渋い顔がより険しくなる。

逆に勝里の顔に笑みが覗いた。

この度の戦は今川義元の上洛戦という噂が流れていたが、福谷城から岩崎城に入る道は消えたと思ったからだ。

よかった、下社城しもやしろじょうが主戦場でなくなる。


「庄左衛門、義元は大高の救援に向かったのか?」

「それは間違いございません。しかし、先発隊と本隊を合わせて2万はおります。救援だけで、それだけの兵を動かすことはございません」

「狙いは熱田か!」

「はい、その通りかと。熱田を取り、知多半島の領有権を握られれば、伊勢湾の半分を今川が握ることになり、東西の物流は今川の物になります」


知多半島の焼物は全国に売られており、熱田を抑えている織田家が持っていた。

東西の物流拠点を抑えることで、今川家の経済力がより増す。

逆に織田家は財力の半分を奪われて、今川家と対抗する術を失う。

それを義元が承知していたかは判らない。

しかし、結果的に尾張織田は終わりを告げるに違いなかった。


「沓掛より末森に続く道もあったな!」

「ございます」

「飯田街道の抜け道の1つ、慈眼寺じげんじ参道を通り、北上して高針城を襲うことができます」

「父上、義元は沓掛から北上して来るのですか?」

「勝里、何を驚く。敵は大軍だ。5,000くらいが北を回ってくると思って間違いあるまい」


勝里は沓掛に向かったので鎌倉街道を通ると思ってしまった。

迂闊だった。

飯田街道を通って那古野と目指さないなら、高針城、下社城、上社城の3城が主戦場にならないと安心してしまったが、勝家が言った通り、敵は大軍で兵を割る可能性があった。

勝里は反省する。

まだ、父の勝家に遠く及ばない。


「父上、まだ義元が直接襲ってくるとお考えなのでしょうか?」

「それは判らん。勝里、戦とは一箇所で起こるものではない。本陣が鎌倉街道を通るとして、別働隊がこちらに向わぬとどうして思う? 岩崎勢だけでも2,000を集められる。その背後の福谷城周辺の兵を集めても2,000はいる。彼らが何もせずに大人しくしていると思うか?」


勝里ははっとなる。

その通りだった。

今川義元が鎌倉街道を西に進むとして、岩崎勢や福谷に入った三河勢が大人しくしているだろうか?


否、あり得ない。


皆、手柄が欲しい。

つまり、岩崎勢も福谷の三河勢も隙があるなら尾張を攻めたいと考える。

多方面からの同時攻撃は戦の基本であった。

問題はいつ襲ってくるかだ!

それが判らない。だが、必ず動いてくる。

つまり、必ず別働隊が下社城しもやしろじょうを襲ってくる。


「庄左衛門、慈眼寺じげんじはどうなっておる」


慈眼寺じげんじは、天白川てんぱくがわの上流に位置する沓掛城の西北6.5kmにある寺であった。沓掛城から大高城に向かうのも、慈眼寺じげんじに向かうのも距離的に余り変わらない。


「今の所はどうともなっておりません」

「信長様に進言するべきか?」

「聡明な信長様が気づいておらぬと思いませんが!」

「そうであったな」


廊下から慌てて走ってくる小者が入っていた。


「殿、火急の用事と。丹羽様がお越しでございます」

「米五郎左が! 構わん。通せ!」


丹羽 長秀にわ ながひで、通称は五郎左衛門尉と言う。

若手の出世頭の一人であり、計算が出来ることから信長様のお気に入りの一人であった。

長秀は細長い長身の男であった。

長身と言っても5尺8寸(174cm)であり、体の厳つい大男ではない。

ただ、平均の身長が5尺3寸(158cm)だったので、他の者より長身というだけだ。

長秀は飄々と勝家の前に座った。


「お久しぶりです」

「前は世話になった」

「信長様に命じられたまでのこと」


弘治2年(1556年)1月、『稲生の戦い』の8月前に柴田勝家は福谷城を攻めてことがあった。

城主は酒井忠次が預かっており、勝家の猛攻で陥落寸前まで追い詰めた。

しかし、三河からの援軍が到着して勝家は撤退する。

福谷城は岩崎城の南東6.4km、沓掛城の北東8.6kmに位置する。

ここを抑えれば、岩崎勢を落とすのも用意になり、大高、鳴海への補給路を絶つこともできた。

南下して安城、刈谷を襲うことも容易になった。

すべてたらば、失敗した話だった。


その福谷攻めの後詰をしたのが丹羽長秀であり、岩崎勢に張り付いて動けなくしていた。

長秀にとって過去の話であったが、勝家にとって勝たねばならなかった戦であった。

勝っていたなら信勝は三河攻めで忙しくなり、『稲生の戦い』を回避できた。

安城を攻める余力があるなら三河勢の半分が、今でも織田の味方であった。

しかし、結果として『稲生の戦い』が起こり、織田は弱体化し、今川は三河を掌握してしまった。

織田の苦境はあの1戦に勝ちきれなかったことにあった。


 ◇◇◇


「お館様のお言葉をお伝えします」


長秀は飄々とした柔らかな表情を引き締めると空気が一瞬で凍りつくような感覚を勝里は感じた。

まだ若い武将なのに信長の信任を受ける訳だ。


「義元が沓掛を出て鎌倉街道を進む。勝家は慈眼寺じげんじに兵を移して後背を守るように」

「謹んでお受け致します」

「某は守山の城番を言い付けられました。1,200を連れて上社、下社、高針、島田に200ずつ後詰を送ります。平針は佐々成政に200を付けて入れます。連絡の方はそちらでお願いします」

「承知しました」

「但し、当日までこのことは他言無用でお願いします」

「畏まりました」

「儂は丹下砦に入ると思いますが、先に牧様が入っておるのでやり難いのですよ。しかも状況に応じて好きに動けとか、困るような命令は遠慮して貰いたいですな」

「ふふふ、期待されてますな」

「期待というか、便利使いですな!」


そう告げると長秀の顔に笑みが戻り、最後は愚痴っぽく言うので空気が柔らかく戻った。

勝里は思うままに口を開いた。


「何故、義元が鎌倉街道を通ると断言されているのでしょうか?」

「義元が信長様を誘っているからです」

「誘っている?」

「義元は毎月のように大高に食糧を入れているのはご存知でしょう」

「はい」

「毎月、満月の夜に食糧を運ばせている。まるで誰かに示し合わせているように思いませんか?」


誰かと言われもピンと来ない。

すると、長秀は「援軍に行けば、手薄になる場所があるでしょう」と勝里にヒントを与えた。


「上尾張と西尾張ですか?」

「その通りです。美濃と停戦をしていますが、美濃の武将がそれに納得している訳ではありません。小競り合いは続いております。つまり、援軍を多く出せば、手薄になる。帰ってきたら城を奪われていたとなり兼ねん訳です」

「それは拙いですね!」

「つまり、手勢が割けない。手勢を割かなければ、大高・鳴海へ送れる援軍が減る。義元に巧くしてやられています」

「今川は大高・鳴海を囲んでいる砦で苦しんでいるのではないのですか?」

「苦しめているのは間違いありませんが、砦は潰そうと思えば、今川はいつでも潰せたでしょう。敢えて織田の兵力を使わせていると信長様は考えておられます」


砦が潰れされば、また造り直せばいい。

派兵するには駿河・遠江に領地を持つ今川の方が負担も大きい。

それも信長の狙いの1つであった。

それを承知している義元はそれを放置して織田に負担を強いていると言う。

そして、今回は一網打尽にする機会としている。

義元は延縄漁はえなわりょうでもやっているつもりなのだろうか?


信長は尾張上四郡の岩倉城の織田信安を討伐して尾張を統一した。

しかし、上四郡を掌握して間もなく、信長の兵力を増強できてないと言う。

義元は信長が戦えるようになるまで待ってくれるほど優しくない。

美濃の同盟を失い。

尾張の内戦を終わらせたが尾張は疲弊している。

対する今川が背後を三国同盟で固め、三河も掌握した。

すべて義元の手平の上で信長が弄ばれているように思えた。


「義元は大高に信長様を誘い出すことで清州以外から兵を集められなくしております」

「美濃の斉藤家が動くからですね!」

「その通りです。信安が美濃の斉藤家に身を寄せております。停戦を破って、いつ襲ってくるかは判りません」

「動かせる兵の数は?」

「清州のみで2,000ほどです」

「少ないな!」

「地の利はこちらにあると言いたい所ですが、義元も十分に調べているのは必定であり、地の利も互角と信長様は見ておられます」


勝里の顔色が悪くなった。

義元の軍勢は2万5,000人を超える。

対する信長の兵力も1万5,000人をかき集められるハズだが、各地の守り残すと援軍が2,000人に減ってしまう。

数が違い過ぎた。


「信長様は勝てるのですか?」

「信長様は勝たれるつもりです。しかし、最悪は負けなければいいと思われております」

「何故ですか?」

「東美濃の遠山氏が武田に付きました。武田が東美濃を掌握すれば、信長様は武田と同盟を結ばれるつもりなのです。そうなれば、今川は手を出すことができません」

「武田と同盟ですか?」

「そう思わせることで義元も慌てて出てきたのです。この戦で義元に一泡吹かせることができれば、今川と本格的な停戦か、同盟を結ぶことができるでしょう」


勝里は目を白黒させた。

信長は武田と同盟すると思わせ、今川との同盟を考えていると言う。

武田は海を欲している。

東美濃を掌握すれば、従属的な同盟を織田側から結ぶこともできるようになる。

その為に信長は遠山氏を通じて武田に手紙を送っていた。

武田も長尾景虎と戦い、上洛して上杉謙信と名を改めた越後勢に手を焼いていた。

安々と尾張の海が手に入るなら織田を良い身分で家臣に入れてくれるだろう。

今川にとってそれは悪夢だ。

三方を武田に囲まれることになる。

つまり、この戦いで織田が手強いと思わせることで今川と対等な同盟を結ぶことを模索できると信長が考えていた。


「そんなことが可能なのですか?」

「今川はすでに伊勢に手を出しています。織田との戦いが終われば、本格的に伊勢進出をするに違いないと信長様は見ておられる」

「今川はさらに西を目指すのですか?」

「北条と武田があるから伊勢しか目指せませぬ。最初は同盟で始め、いずれ従属し、最終的に今川の家老職に納めさせる。義元がそう考えるくらいは頑張らねば、織田が滅びますな! ははは、これは儂の推測でした。忘れて下され、今は今川に勝たねばならぬのでした」


義元の狙いは最終的に上洛であり、足腰の弱い将軍義輝に変わって天下に号令するのだろう。

それを承知でどれだけ高く売りつけられるのか?

そこが勝負の分かれ道と長秀は言う。

織田が弱兵と思われれば、雑草のように踏み潰される。

信長は武田と結ぶことで義元を焦らせ、義元に誘い出し野戦を決意させた。

26歳の若さで尾張を統一した信長も名将なら、その信長にそこまで覚悟させた義元も『東海一の弓取り』の名に恥じない名将であった。


 ◇◇◇


勝里が早朝の南の空に煙が上がっているのを見つけた。

18日の夜半から松平元康の三河勢が大高に食糧を入れ、鷲津・丸根砦が襲われていると報告が来た。

おそらく落ちたのだろう。


信長が援軍に向かったという報告が聞かない?


見捨てたのか。

信長が急いで救援に向えば、北側の慈眼寺じげんじを迂回して熱田が襲われると(丹羽)長秀から聞かされていた。

援軍に行ったはいいが、島田、中根、熱田を今川に抑えられると退路を失う。

そうなると兵は戦う所ではなくなる。

勝里は長秀に尋ねたことを思い出していた。


「では、少数の兵を援軍に送ればいいのでは?」

「ならば、相手も兵の数を増やすでしょう。それに対して援軍を増援する。戦力の逐次投入は愚の骨頂ですな」

「いけませんか?」

「少ない兵を各個撃破されて為す術すら失います。それならば、尾張上四郡を失うつもりで全軍を上げて短期決戦に挑んだ方がよろしいですな」


信長は鳴海方面に1,500の兵を展開している。

援軍の2,000を合わせて3,500で今川軍と戦うつもりらしい。

今川も4万から5万という大軍であるが、鳴海に向かうのは2万5,000のみである。

しかし、間道が多く大軍は動かせない。

各武将は5,000程度に別れる。

つまり、【 織田3,500 対 今川5,000 】でしかない。

敵は慣れぬ遠征で疲れている。

これなら互角で戦えると信長は考えていた。

横に広がるであろう義元の壁は多くとも2枚しかなく、2回勝てば、義元と対決できると言ったらしい。


そんなに巧くゆくのだろうか?


勝里は首を横に振った。

巧くゆくのでなく、巧くいかせねばならない。

そう覚悟されているのだ。


信長は今川との不利を少しでも無くす為に、首不要と旗不要の策を用意していた。


首不要とは、敵の首を持ち帰って手柄にしないという決まりことだ。

数が不利なのだ。

首を取っている暇を惜しむことで、数の不利を補えると考えた。


旗不要とは、織田の旗印を捨てて、敵に紛れて義元の軍まで近づく策である。

敵か味方か判らない内に義元の本陣まで近づこうという策であった。

可能なら落ちた敵の旗を拾って、謀反が起こっているように思わせれば、尚良いとも考えていた。


戦略的に負けている織田だが、戦術的にその不利を逆手に取ろうと苦肉の策を用意していた。


果たして巧くゆくのだろうか?


佐渡守(林 秀貞はやし ひでさだ)が聞けば、顔を赤めて怒り出すだろうと(丹羽)長秀が酒を飲みながら笑っていた。

父の勝家も渋い顔をされていた。

ただ、信長は負けて咲く花はないと考えている。


たとえどんな手を尽くしても勝てとおっしゃるのか!


(丹羽)長秀の話から泥水を啜っても勝ちを掬うつもりなのが伝わってきた。

そんなことを考えながら顔を洗っていると、表門が騒がしくなった。


「どうかしたか?」

「信長様よりお使いでございます」

「して!」

「信長様は早朝にて熱田神社で必勝祈願をし、すでに慈眼寺じげんじに入られました」

「うむ、それで我が柴田家にどうせよ申された」

「信長様は慈眼寺じげんじにて必勝祈願をされた後、丹下砦より善照寺砦ぜんしょうじとりでへ向かわれます。後詰として、慈眼寺じげんじに入るようにとのお下知でございます」

「承知した」


勝里はそう応えると、使いが門より出て信長の元に戻って行った。

勝里は屋敷の中に戻る。


「鎧兜を持て! 父上に伝えよ。信長様よりお下知を頂いたと!」


昨晩からいつでも出陣できるように直垂ひたたれ脛巾はばきを身に付けていた。

後は、籠手こて脇楯わいだてを添えて、鎧・兜・太刀を付けると出陣できた。


「若、えびらでございます」

「大義じゃ」


えびらとは、矢入れのことだ。

刀や槍以上に弓で戦うことが多い。

槍は下人に持たせることが多いが、弓はいつでも使えるようにするのが習わしであった。

鎧を着て屋敷を出ると、皆が揃っていた。


「皆、旗を背負うのを忘れるな! 歩く間隔は広く取れ!」


非常にセコい策であった。

下社城より後詰200人を300人から400人に見せるように旗を多く立てて、慈眼寺じげんじに入場したように見せる。

下社城をはじめ、上社城、高針城、大森城、末森城、平針城から各200人が集められ、慈眼寺じげんじには1,200人の後詰が入ることになっている。

しかし、その数では心もとない。

そこで旗だけ立てて、2,000人は入ったように見せるように申し付けられていた。


物見の報告で沓掛城に入った兵はすべて鎌倉街道の方へ進んでいると報告を聞くと胸を撫で降ろした。

(丹羽)長秀が守山から連れてくる後詰の後詰に1,200人が加わり、合わせて2,400人に増える。

しかし、岩崎勢と福谷周辺の三河勢を合わせて5,000人は集まっていると言う。


信長ほど酷い戦力差はないが、倍する敵をここで食い止めないとならない。


慈眼寺じげんじに入った勝里はすぐに物見を放った。


 ◇◇◇


午前中に岩崎勢、三河勢にまったく動きは見えなかった。

これも信長が予想した通りだった。

鷲津・丸根砦の救援にいかないというのは信長が織田の家臣から不審を受ける。

助けてくれない領主に義理を立てる必要もなくなり、今川や美濃斉藤に離反する武将が多く出現する。

それは避けたい。

つまり、信長が救援を送らないという選択はない。

今川義元は信長を確実に鳴海に誘い出したい。

途中で岩崎勢が邪魔をして行けなかったなどという言い分けを作らせる訳に行かない。

そこで岩崎勢や三河勢の行動を制限すると予想していた。


信長様の予想通り、午前中はお互いに物見を出し合うだけで静かに終わった。


午後から西風の風に乗って黒い雲が流れ、突然の豪雨が襲う。

皆が軒下や木々の下に避難して雨をやり過ごした。

雨は半刻(1時間)ほどで止み、兵たちは配置に戻ってゆく。

そこに伝令が走ってきた。


「申し上げます。岩崎勢の800ほどが梅森から植田を抜けて、島田城に向かっております」

「何だと!」


寝耳に水だった!

梅林は高針と平針の中間にあり、その東に岩崎城がある。

梅森北城と梅森東城はかって三河碧海郡の松平三蔵高照が築城した城であったが、城主であった松平三蔵高照の家臣である松平助右衛門信次がいなくなり、今は廃城となっていた。


「松平の手の者が手引きしたのか? 我らの知らぬ抜け道があったのかも知れん」

「だが、どうする?」

「島田の救援に向かえば、背後から襲ってくるのは必定であろう」

「おそらく、敵はそれを狙っておる」

「福谷城方面に物見を放て!」

「島田はどうする? 城には200ほどしか残っておらんぞ」


しかし、島田城のある場所は鳴海から天白川を遡った鎌倉街道の上道であった。

海が満潮時では唯一の道になり、信長の退路に当たる。


「ここを抜かれては面目が立たんぞ」

「信長様の退路を確保せねば」

「だが、ここを手薄にすることもできん」

「某が行って参りましょう」

「柴田殿!?」

「我が手勢200のみならば、問題もございますまい」

「然れど、敵は800ですぞ!」

「信長様は10倍の敵と戦っております。タカが4倍の敵に怯んでどうします」

「そう言ってくれた」

「勘三郎(加藤 信祥かとう のぶよし)殿もこちらをよろしく頼みます。おそらく、こちらも倍近い敵が押し寄せてきます」

「任されよ」

「任されました。では、ごめん」


勝家が下社の兵を集めると、慈眼寺じげんじを出た。

島田城は西に3kmほど!

街道沿いに走れば、すぐに着いた。

岩崎勢はすでの島田城を取り囲んでいた。

勝家は隊列を組み直すこともなく吠えた。


『掛かれ!』


勝家と農兵の足軽達は足を止めずに後から襲い掛かった。

勝里と数人は足を止めて弓を引くと矢を放つ。

ピシューと飛んでゆくと兜に当たった。

乱戦の中でも矢を射ることができる者が少ない。

勝里は勝家の援護に徹する。


「庄左衛門、次の矢立てを」


手持ちを討ち尽くすと予備の矢を貰う。

勢いよく後から襲いかかったので敵が混乱してくれた。

島田城も門を開けて討って出た。

これで挟撃した形になって、敵が混乱する。

敵は直違いの旗の岩崎勢だ。

兜から赤池城の丹羽秀信、浅田城の丹羽伝左衛門、折戸城の丹羽氏従、藤枝城の丹羽堂隠だと庄左衛門が言う。

皆、岩崎城を守る支城を任された武将達であった。


勝家は降ってくる矢を槍で叩き、何事もなかったように敵を襲って槍を突いた。

首は御家人が回収し、勝家は次の獲物を狙って押し進めた。

敵の大将首が逃げると、他の場所から勝家を狙って武将が寄ってくる。

勝家は強かった。

無双する勝家に敵が怯え、遂に潰走を始める。


『追え!』


指示は単純で間違いようがない。

短い時間であったが、数個の武将首を奪った。

混成軍の脆い。

1つが崩れると兵が逃げ出す。

一箇所の兵が逃げ出すと他の兵も吊られて逃げ、軍を維持できなくなった。


「庄左衛門、我らも父上と合流するぞ!」


勝里は弓を投げ出し、槍と取らせて勝家と合流する。

島田城近くの島田地蔵寺は焼失し、多くの兵を失ったが大勝利だ。

城の周りの残党は牧一族に任せて、勝家は敵を追った。


慈眼寺じげんじも小競り合いがあったのみで敵が引いていった。

下社城も無事だった。

そして、しばらくして敵があっさりと引いていった訳を知る。


『今川義元、討死』


まさか、大将首を持ち帰ってくるとは思ってもいなかった。

長槍に吊られた義元の首を先頭に信長が戻ってきた。

勝家と勝里は街道脇に膝を付いて信長を待った。


「髭(柴田権六郎勝家)、勝ってきたぞ!」

「誠に目出度いことで」

「まさか本当に取れるとは思わなんだ」

「神・仏のお導きかと」

「まったくだ。話は聞いておる。髭もご苦労であった。以後、登城を許す」

「ありがたき幸せ」


柴田勝家は後詰めとしての役目を果たした。

世間では『桶狭間の戦い』が有名だが、今川の尾張侵攻を防いだのは柴田勝家を始めとする東尾張の将兵であった。


もし、中島砦で島田城陥落とか、聞かされていたなら桶狭間を目指す所ではない。


桶狭間の勝利は那古野城や清州城に続く道を守った名も無き将兵がいたからだ。

しかし、登城を許された勝家が美濃攻略に出陣することはなかった。

家老の一人として内政に関わったが、主な仕事は坊丸(後の津田 信澄つだ のぶずみ)の教育であり、坊丸が元服を果たした後の上洛戦〔永禄11年(1568年)7月〕まで、勝家の勇姿が戦場に立つことはやはりなかった。


美濃攻略戦で『鬼柴田』がいないことを誰も知らない。


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柴田勝家の哀愁 ~もう1つの桶狭間、鬼柴田はどこにいたの?~ 牛一/冬星明 @matta373

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