6-6 一直線に、君に落ちた。


 気が付いたら、砂音は真っ暗な空間に居た。幼い頃に閉じ込められた、あの押し入れの中だと。何故か分かった。

 一寸先も見えないような闇の中なのに、不思議と怖くない。ここに、彼女が居てくれる事を、知っていたから。


 膝を抱えて蹲る姿勢から、ゆっくりと立ち上がる。途端に、空間が広がる。

 辺りも仄かに見えてきた。押し入れだと思っていた場所は、どうやら深い海の底だったようだ。光も射さないのに、何故だかぼんやりと周りのものが見えている。息だって、苦しくない。


 遠くに大きな魚が泳いでいる。茫洋と眺めていると、今度は近くを小さな魚群が通り過ぎた。それらを目で追うように振り返ると、そこには、彼女紫穂が居た。

 最初から、ずっと感じていた気配。――君だと、分かっていた。

 心配そうに見守る彼女の身体は、微かに白く光を放っている。何か言いたげで、しかし、何も語らない。


「紫穂」


 声を掛ける。彼女はいつもの哀しげな表情で、こちらをそっと見詰めている。その黒い瞳から、様々な想いが伝わってくる気がした。

 〝ごめんなさい〟――彼女はずっと、そう言っていた。


「最後まで君は、俺を責めないんだね」


 優しい紫穂。誰よりも優しくて、繊細だから。自分を責めて、壊してしまった。……けれど、決して。誰かを恨む事も憎む事も、しなかった。


 ――君らしいね。


「謝るのは、俺の方だよ。俺が……ずっと君を罪悪感で縛り付けていたんだ」


 〝違う。違う。貴方は何も悪くない〟――そう主張するように、彼女が慌てて首を左右に振る。砂音はしかし、穏やかな口調で続けた。


「俺がいつまでも哀しんでいるから……こうして君は、ずっと俺の事を心配してくれていたんだね」


 ――ごめんね。そして。


「ありがとう。……もう俺は、大丈夫だから」


 彼女の黒目勝ちな大きな瞳が、更に大きく見張られた。


 哀しくないと言ったら、嘘になる。胸を刺すような痛みは、今でも残っている。けれど――光の元に手を引いてくれた人が、居るから。

 だから、もう。心配要らない。


「ずっと見守っていてくれて、ありがとう」


 告げると、砂音は微笑んだ。柔らかな陽射しが、ゆっくりと氷を溶かすような――そんな温かな笑顔で。

 息を呑んで、紫穂は目をぱちくりさせた。それから、ふわりと。相好を崩す。いつか、雨上がりの虹を一緒に見た時のような――あの日と同じ、綺麗な笑顔だった。


 ――ようやく、笑ってくれたね。


 互いに笑み交わす。その時。深海に光が降り注いだ。

 眩い光の帯に、彼女の姿が包まれる。そのままゆっくりと、溶けて一体になる。泡になって消えたのではない。光となって、昇ったのだろう。

 これは、自分の心が見せる都合の良い夢かもしれない。それでも……そう信じたかった。


 気が付けば、辺りは真っ白に輝いていた。光は天上だけでなく、正面からも照らしている。砂音の目の前。押し入れの扉が見える。それは、うに開かれていた。


 ――もう行かなくては。

 きっと、あの子朱華が待っていてくれる。


 目も眩むような、新しい外の世界へと――砂音は、開け放たれた扉を潜った。



 ◆◇◆



 次に気が付いた時には、真っ白な天井がそこにあった。

 見慣れない白い天井に、蛍光灯の白い光。目に映る冴え冴えとした白に、一瞬、先程までの続きかと思ったが。しかし、ぼんやりと見上げている内に、ひょっこりと視界に朱華の顔が現れたものだから。どうやら、そうではないらしいと悟った。

 こちらを覗き込む彼女の表情は、最初心配そうで……目が合うと、ハッとしたように色を変えた。


「音にぃ! 起きたのか!」


 喜色を浮かばせて、弾んだ声で、呼び掛けてくる。――起きた? あれ? 今はどういう状況なのだ。

 応えようとしたら、喉が掠れて空気だけが漏れた。いやに乾いている。自分は本当に眠ってしまっていたらしい。

 こちらの疑問を察したようで、朱華は先回りして説明してくれた。


「ここは、病院だよ。音にぃ、あの後急に倒れてさ。本当、焦ったよ。長い事マトモに寝てなかっただろ。極度の睡眠不足だってさ」


 病院……倒れた? そんな事になっていたのか。

 朱華に申し訳なくて、酷く情けない気分になる。


「そうなんだ……。ごめん、迷惑掛けて」


 今度は、ちゃんと声が出た。でも、クシャクシャだ。すると、朱華の人差し指が、砂音の唇に押し当てられた。


「『迷惑だなんて、思ってない』……だろ?」


 それは、以前に砂音自身が朱華に向けて放った言葉だった。だから、謝るな、と。そっくりそのまま返されてしまい、砂音はキョトンと目を丸くした。

 それから、込み上げてきた温かい感情に、ふっと口元を綻ばせる。


 ――朱華ちゃんには、敵わないな。


 釣られたように、朱華も歯を見せて不敵に笑った。暫し二人でそのまま意味もなく微笑み合った後、朱華が思い出したように背を向けた。


「ちょっと待ってて、医師センセ呼んでくる」


 宣言すると、そのまま離れていこうとする。……その腕を。砂音は思わず、掴んで引き留めていた。

 朱華が驚いたように振り返る。半身を起こしながら、砂音が切り出した。


「待って、朱華ちゃん。俺、告白の返事……ちゃんとしてなかった」


 瞬間、虚を衝かれたような顔をして。次に言葉の意味を把握した途端、朱華は一気に耳まで紅潮させた。


「へっ⁉ いや、今⁉」


 まだ心の準備が! と訴え掛ける彼女を逃さないように。砂音は真正面から、じっと。動揺に泳ぐ茶褐色の瞳を見据えた。


「俺は、幸せになってもいいんだって……朱華ちゃん、言ってくれたよね」


 ――だけど。


「俺の幸せは、もう朱華ちゃん無しでは考えられないんだけど」


 見つめる瞳と、瞳が合った。朝焼けの黄色に映るのは、真っ赤な夕焼けのように染まった、彼女朱華の愛らしい頬。


「――責任、取ってくれる?」


 掴んだ腕を、引き寄せる。重なる影。枕元に置かれていた小さな目覚まし時計が、反動で床にコトリと音を立てて落ちた。



 (了)

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