2-3 慚悔


 ――ずっと、音にぃに謝りたかった事がある。


「……あたし、あんな酷い事言ったのに。音にぃは、そうやって変わらず声掛けてくれるんだな」


 昔みたいに、また一緒になんて。

 何事も無かったかのように普通に誘いの言葉を口にする砂音に、朱華は自嘲気味に笑みを口元に刷いて零した。


 朱華が時任家の夕飯に通うのは、小五の秋まで続いた。

 小三から、約二年間。それも、多い時は一週間ほぼ毎日という時もあった。あまり砂羽や音也の好意に甘え過ぎては迷惑だろうと朱華は遠慮するのだが、当の彼らの方から積極的に誘ってくれるのだ。


 朱華の家族の方はというと、父は無関心で母は食費が浮いて助かると言っていた。そんな感じで特に反対される事も無かったので、朱華も誘われるまま時任家の夕飯への同席を繰り返した。

 けれど、その回数が増えていくと、次第に母はいい顔をしなくなっていったのだ。


 母は言った。――恥ずかしい、と。


「そうやって、他人様の家に世話になってばかりで、周りになんて思われるか」


 ――まるで乞食のような娘だ。貧乏人の娘が、他人様の家の食事にたかっているのだ。

 そんな風に、近所に噂されているのではないかと言うのだ。挙句の果てには、自分への当て付けだと、彼女は言った。


「あたしが料理を作らないから、共働きで帰りが遅いから、そうやって責めてるんでしょ。皆あんたの事、可哀想だって。母親なら仕事を辞めて家に居てあげるべきだとか、育児放棄だとか、勝手な事ばっか言って。もううんざりなのよ! なのに、あんたまでそうやって、あたしを責めてくる!」


 この頃の母は、いつも精神的に不安定な状態だったように思う。何か気に入らない事があると、突如スイッチが入ったように、ヒステリックに喚き立てた。

 原因は幼い朱華にはよく分からなかったが、もしかしたら、父との結婚生活そのものにあったのかもしれない。

 母は美しい人で、仕事も優秀で、引く手数多だったのに結婚相手を間違えたと、よく当人が愚痴っていたものだ。


 だからだろう、決まって最後は、彼女の怒りは父に向いた。


「あんたも何か言いなさいよ! 大体、あんたの稼ぎが少ない所為で!」


 そうやって話を振られても、父はいつも黙ったままだった。元々無口で人付き合いの苦手な人だ。怒りを露わにする母に、どう接していいのか分からなかったのかもしれない。あるいは、マトモに取り合うのも面倒だとでも思っていたのか。


 ともかく父は何を言われても無言を貫き、反論の一つもせずにいつもただ母の癇癪を受けていた。

 母からしてみれば、父のその態度は一層癇に障るものであるらしく、怒りは収まるどころかどんどんエスカレートしていく一方だった。

 朱華が割って入ると、更に酷くなる。


「あんたまで父親の味方する! 黙ってる方は得よね! まるで、あたしだけが悪者じゃない!」


 最終的に母が泣き出すのが通例で、一度などは刃物を持ち出して暴れるまでに至った事もある。

 結局その時は誰も怪我などせずに済んだが、父と母のそうしたいざこざは、幼い朱華の心に少しずつ見えない傷を刻んでいった。


 初めの内は母に反抗するように時任家に通い続けた朱華だったが、その内に段々と彼女にも変化が訪れた。

 温かい、愛に溢れた理想的な家族像である時任家。その中に混ざっていると、どうしても自分の家族と比べずにはいられなくなり――居心地の悪さを覚え始めたのだ。


 それは、時任家で過ごす時間が楽しく幸せなものであればある程、帰宅後の自分の家の冷たく張り詰めた様子に打ちのめされるのだ。

 理想と現実の差異をまざまざと見せつけられているような気分になり、心が軋む。

 それでいて、時任家の人々には何の非もないのだから、そんな風に思う自分こそが悪なのだと自責の念に駆られ、朱華は苦しんだ。


 誰にも……砂音にも打ち明けられず、心にしこりを抱えたまま、それでも朱華は優柔不断にその生活を続けていた。

 それがより悪い結果を招いたのかもしれない。小五の秋――朱華の母は蒸発した。


 予兆は無かった。前日に酷い夫婦喧嘩をしたという事も無く、ある日忽然と姿を消したのだ。

 母としては、おそらくもうずっと前から考えていて、ようやくそれを実行に移したというだけだったのだろう。


 近所の人々の間では、不倫していただの、男と出ていっただのと口さがない噂が広がった。

 ――「派手な見た目の奥さんだったものね」

 ――「旦那さんと娘さんは、捨てられたのよ。可哀想にね」


 それでも、父は何も言わなかった。

 母を責めるような言葉も、朱華を慰めるような言葉も、何にも。

 ひたすらに黙ったままの父に、今度は朱華が苛立ちを募らせるようになっていった。


「なんで何にも言わないの? 母さんが出ていったの、あんたの所為じゃん!」


 そう責めてしまう日もあり、その時になって朱華は気が付いた。これでは、まるで母のようではないか、と。

 あんなに理不尽だと嫌っていた筈の母の癇癪と、全く何も変わらないではないか――。


 父の傍に居ると、自分まで母と同じになってしまう。そう思った朱華は、家に居ても父を避けるようになった。

 父は朱華の態度の変化に気が付いただろうが、やはり何も言及しては来なかった。それがより一層朱華の心を乱した。


 生活は荒んだ。家での会話は一切無くなり、外では外で、朱華は捨てられた可哀想な子供という目で見られる。子供同士の間では、更に残酷な事に直截ちょくせつ的にその話題を出されて揶揄われたりもした。

 砂音がそうした場面に出くわすと、決まって相手を叱り朱華を元気付けようともしてくれたが、彼の優しさがこの時の朱華にはかえって辛かった。


 時任家の夕飯にはこの頃もまだ誘われていたが、とてもそんな気になれずに、断り続けていた。

 それでも、そんな朱華を放っておけなかったのだろう、彼は諦めずに朱華に声を掛け続けた。

 気を遣わせてしまっている……そんな罪悪感と情けなさから、朱華はあの日、遂に最低な言動を取ってしまった。


 九月十九日。朱華の誕生日を翌日に控えたその日、砂音がこんな提案をしてきた。

 時任家で、朱華のお誕生日会をしないか、と。

 それを聞いた時、朱華の顔に一気に熱が上った。嬉しい……筈なのに、荒れていたこの時の彼女には、それが同情から来る慰めのように感じられてしまった。

 

 馬鹿にされた――そんな風にさえ思ってしまった直後、己のその思考にショックを受けた。

 そんな訳が無いのに、あの優しい人達の心根まで疑ってしまうなんて、自分はなんて醜くて最低なのだ。

 こんな自分が、彼らと一緒になんて居られる訳が無い。――気が付いたら、拒絶を口にしていた。


「しつけーよ! もう行かないっつってんだろ⁉ てめぇん家、みんなニコニコ仲良しこよしで、気持ち悪りぃんだよ‼」


 言ってしまってから、ハッとした。驚きに固まる砂音の顔から……その表情が怒りや哀しみといった変化を見せる前に、逃げるように目を逸らした。そのままその場から駆け去り――以降、朱華は砂音の事も避けるようになった。

 そうして、春になる前には父の都合で朱華はまたも引越す事となり、砂音とちゃんと話す事もなく別れを遂げたのだった。

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