メデュシアナの戯言(たわごと)①


【8月26日/祐輔】


 昼の12時台に、祐輔の携帯宛にメールが立て続けに届く。


「そうやって逃げるんだ。口先だけの最低な人だね。なにが産んでほしいよ」

「なにが費用払いますよ。姉宛のメールは全部読んだから」

「中絶費用だけはちゃんと払ってくださいね。残り14万。それすらからも逃げる人ですからね。死んであげられなくて申し訳ないね」

「診断書を渡すにも人としてあなたを信用できません。産まなくてよかったと心底思う。産ませて放置されただろうしね」

「死に切れなかった尻ぬぐいまでしてもらわなくていいので、中絶費用は耳を揃えて払ってくださいね」



【8月26日】


 午後7時23分、家の電話が鳴った。ディスプレイは「非通知」。あの女だ。

 私は反撃メモの入ったクリアファイルに手を伸ばした。


「藪川です。治療費の負担をして下さい」

「以前もお話ししましたが、診断書が無いと堕胎のお話は進められません。今一度、確認したいのですが、妹さんは6月5日から12日の間は東京にいらっしゃったんですよね?」

「いました。最初にお話ししましたよね? いろいろな人と会ったので、東京にいましたよ。信用できないというなら、会った人たちに証言してもらっても良いです」


 姉のはずなのに、まるで妹本人のような回答だ。


「主人からは、途中で止めているし、コンドーム着用で射精もしていないと聞いているのですが、それでも妊娠したんですね?」

「途中で止めはしましたけれど、お腹の中にはありましたよ!」


 エグイ表現だ。しかも、姉のはずなのに、これまた妹本人かと思うような回答だ。姉妹といえども、そんなことまで赤裸々に話すものだろうか?


「とにかく、ご主人は女性関係がひどいので、行いを正してあげたほうが良いと思いますけれど」

「ですから、それはこちらの家庭内の話であって、口を挟んでいただくようなことではありません。そもそも、何が目的で、いつまでもこの話をし続けるのか理解できないのですが。

 それに、主人から聞きましたけれど、東京に出て来られたのは、当初、別の方とお会いするのが目的で、主人はついでだと聞いています。妹さんが『行ったら食べられちゃうのかな』とか『買っておいてね』といったことを、主人と電話で話した際におっしゃったように聞いていますが、目的の方とお会いして期待を裏切られたので主人に連絡したのではありませんか?」


「そんなつもりで私は会いに行っていません!」


 突然、受話器の向こうで風船が弾けたように声が響く。相変わらず、かすかな生活音すら聞こえない。


「……妹さんの話をしているのに、いま、どうして『私は』とおっしゃったのですか?」


 笑いをこらえる。苦しい。


「……8月25日に退院してきて、いま、……いま目の前で筆談をしていて、……そう言えと書いているからです!」


 はぁ? 筆談ですか。そのわりには返答が早過ぎやしないだろうか、お姉さま。


「とにかくですね……」


プツッ。ツー、ツー、ツー。


 電話を切られた。6月20日から8月25日まで入院していたんですね。貴重な情報、ありがとうございます。『体力の回復を待って』7月22日に堕胎手術をしたのに、それから約1ヵ月も病院に入院していられるものだろうか。おもしろすぎる。最後の電話から日にちが経っていたので、こんなに畳みかけるように応対されるとは思っていなかったのだろう。ましてや祐輔との電話でのやり取りまで妻が把握しているだろうとは思っていなかった様子だ。ふふふ。あなた黒ですよ。真っ黒です、藪川さん。いや、今度は靖子さんとお呼びしたほうが良いでしょうか。残念ながら反撃ファイルの出番はなさそうだ。


 このやり取りの後、函館の自宅へは留守番電話へのメッセージのみで、私が電話に出られる時間帯に電話が鳴ることはなかった。内容は、治療にかかる費用を早く払えという催促と、祐輔の女関係がどうのとか信用しないほうが良いといった類の内容が何度も繰り返されているだけだった。


 戦慄を覚えたのは、最後に録音されていた留守番電話を再生したときだ。背中の下のほうから、黒いもやのようなものがぞわぞわと身体にまとわりつきながら這い上がってくるような感覚、……得も言われぬ”何か”に、私は全身を身震いさせずにはいられなかった。

 よく、心霊もののテレビ番組などで声がだんだんとゆっくりに、そして音程も下がっていき、最後には聞き取りもできないおどろおどろしい声になるという演出があるけれど、まさにそのものだったからだ。録音用のテープが伸びてしまっていたのかもしれないが、あまりの気持ち悪さゆえに何も考えず録音されていた複数回分の録音音声をすべて消してしまったのが悔やまれる。もし生霊いきりょうやら怨念というものが存在するのだとしたら、留守番電話に残されたあの声は、まさしくそれに違いない。



【8月28日/祐輔】


 祐輔の携帯にメール連絡あり。


「不誠実極まりないので、診断書持参の上、明日、代理人がそちらへ伺います」


 着信があった、と、祐輔が電話をかけてきた。二人で話し合い、次のような返事を送ることにした。


「診断書の件、ご対応ありがとうございます。こちらにお持ちにならなくても、函館へ郵送ないしFAXしてくださっても結構です。ショートメールにあったように、どうしても代理人の方に任せて直接渡したい、ということであれば、お預かりいたします。その際は、先日お約束したように私は見ずに妻に送りますので、ご安心ください。明日、いらっしゃるのであれば時間と場所をお教え願えますでしょうか?」


 祐輔が返信したにも関わらず、靖子からの連絡は無く、代理人が現れることも無かったそうだ。職場からの帰宅の最中、どこかから刺客でも表れやしないかとヒヤヒヤしながら帰ったらしい。



【8月29日/祐輔】


 祐輔の携帯にメール連絡あり。


「手術費用14万円、診断書発行手数料5,000円×2通の合計15万円の入金はいつですか」


 祐輔の携帯に2通目のメール連絡あり。


「明日、31日中に振込完了してください。診断書をお渡ししても、今まで完全無視をきめこんだあなたが費用を払うとは思えませんので先払いでお願いします」



【8月30日:午後3:15】


 家の留守番電話にメッセージが入っていた。


「藪川です。診断書を用意しましたので、発行手数料2枚分、1万円と治療費を負担してください。妹を逆恨みする前に、ご主人の素行を正してあげたほうが良いと思います」


 大きなお世話だ。



【8月31日】


 祐輔が診断書の発行手数料1万円を振込みする。

 代理人を通して持参すると先方から言ってきたときには、金銭の授受に関しては特に何も言ってこなかった。結局はお金と引き換えということなのだろうか? もしくは、いくら振込をしたところで診断書そのものが無いと理解したほうが真実味があるかもしれない。



【9月7日】


 祐輔よりメール送信。


「診断証明書が届かないと妻より催促されていますが、まだお送りいただいていないのでしょうか。すでにお手元に証明書があるとのことですので、早めにFAXにてお送り下さい。敢えて触れませんでしたが、先日、そちらから代理人を介して証明書を届けると連絡をいただいたのに、何事もなかったように今になって支払いと引き換えですと言われるのは合点がいきません。支払いの工面をしていた妻に、診断書が届かないのは、そちらの手元に診断書がなくて出せないのではないかと言われています。診断書の発行手数料は、すでに振込みを終えていますので、早急な対応をお願いします」

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