祐輔/7月16日:午後11時過ぎ
祐輔は、本当に連絡がつきにくい。携帯電話に着信履歴を残しても、かけ直してくることはほとんどなく、必要なときに限って電話に出ない。ある意味、彼の才能の一つではないかとさえ思うことがある。
ブルルルー プルルルー
何度目の発信だろう。
『やっぱりでないか』
耳にタコができるほど繰り返された留守番電話サービスの音声を聞きながら、発信の『切』ボタンに指を伸ばしたときだった。
「はい……」
祐輔の声だ。
「藪川という女性から電話があったんだけど」
「えっ!」
「分かるよね?」
なるべく冷静にとは思っていたが、かなりぶっきらぼうな物言いになってしまった。携帯電話の向こうで祐輔が
「はい……」
重々しい沈黙がしばし続いた後、覚悟を決めたように祐輔が話し出す。
「えぇー、そっちに電話したの?」
『えぇー、じゃない。馬鹿者め』
「うん。来た。で? 事実? いくら用意すれば良いの?」
「ちょっと待って。どういうふうに聞いたか知らないけど、こっちの話も聞いて」
「その前に言うことは?」
「……ごめんなさい」
「私は祐輔の言うことを信じて良いの?」
「はい、……信じてください」
正直なところ、すんなりと謝罪を受け入れるのは厳しい。がしかし、見ず知らずの他人の言葉と、離れて暮らしているとはいえ夫の言葉のどちらを信じるかと問われれば、それはもちろん夫である祐輔の言葉だろう。怒りの気持ちは一先ず棚上げとして、努めて冷静に話を聞くことにした。
祐輔からの話を一通り聞いて、電話を受けた際に気になっていた点もいくつかが明らかとなった。
(祐輔の話)
6月27日の朝、携帯に連絡があり、妊娠したと知らされた。診断書をもらった上で、妻と相談しますと返答し、診断書の提示をお願いした。堕胎に関しては自分にも責任があるので、堕胎の同意書も書くし、堕胎の手術当日は立ち会いますと伝えたが、病院から緊急のケースのため同意書は不要と言われ、病院名も教えてもらえず、顔も見たくないので来ないで欲しいと言われた。
診断書をもらってから相談するつもりだったので、函館の自宅に電話するとは思っていなかった。自分でできる範囲での費用負担は考えていたが、家族に電話したことで状況が変わったので薮川には改めて連絡することにする。
薮川の妹の名前は、
インターネットで知り合って、10年以上前から年に数回程度ではあるが電話のやりとりをしていた。過去において面識は無い。5月に、「オンラインゲームで知り合った男性を好きになってしまった。どうしたら良いだろう」と相談を受けた。
6月4日、事後の報告として、その男性に会いに神奈川へ行ったものの、多少の言葉を交わしただけで帰ってきたのだそうだ。靖子の口振りから推察するに、神奈川に会いに行った男性と一夜を過ごしたかったものと思われる。彼女が思い描いていたような応対ではなかったせいか、精神的にどうにかなりそうなので会ってもらえないかと連絡がきた。相談に乗っていた相手でもあるし、何よりも彼女が精神的に不安定であるということが心配だった。
遅い時間ということもあり、家の近くまで来てくれるなら時間も取れるし、ありがたいと伝えたところ、靖子から自宅に伺いますと言われた。その際、「行ったら食べられちゃうのかな」「買っておいてね」など、コンドームという言葉では無かったが、避妊具の用意を促すような言葉を明示的に言われたため、そのつもりなのかな、と慌ててコンドームを買いに行った。
夜の10時を回ってから、靖子がアパートにやって来た。自分は、パソコンに向かって仕事をしながら靖子の話を聞いていた。靖子は万年床の蒲団の上でゴロゴロとしていた。アルコールも飲んだが、翌日も仕事が早いので泥酔するような飲み方は誓ってしていない。夜も更け、何となく雰囲気に流されるまま部屋でセックスに及んだ。しかし、乗り気にならず途中で止めた。コンドームは着用していたが、射精はしていない。
翌朝、自分は仕事場に向かわなければならないので、靖子とは自宅の前で別れた。
事実確認とは言え、配偶者が他の女とどんな状況でどんな行為に及んだのかを事細かに聞くのは、かなりの忍耐力が必要だった。精神的にきついし、吐き気すら覚える。
ただ、興味深いことも言っていた。恐らく、函館に電話した姉の藪川と名のる女性は靖子本人ではないかと思う、と。
2人の言い分を比較すると、いくつか食い違うところがある。薮川は、靖子が祐輔に会ったのは5日か12日と話していたが、実際には4日だった。東京に出てきた理由についても、祐輔からの話では神奈川滞在の予定を変更して東京に来たように思える。反して薮川は、靖子は祐輔の話を聞きに行ったついでに、ほかの知り合いとも会ったようだと話している。
祐輔に会うのが目的で東京に出て来たのならば、予め会える日を約束しているのが普通だろう。連絡が来て急遽会うことになったという祐輔の言葉を信じるならば、主な目的は別にあったに違いない。ましてや祐輔とは4日の夜から5日の朝までしか一緒に過ごしていない。祐輔と別れてから12日までは、何か別の予定があったと思うのが自然なように思われる。
最も違和感を感じていたのは、祐輔と靖子が会っていたと思われる場所だ。藪川は、彼らがどこで飲んでいたのか、どこでセックスに至ったのかは明言していなかった。うっかりしていて、外で飲んで、近くのホテルにでも流れ込んだのだろうと勝手に想像していた。
そもそも十数年来の知人とはいえ、年に数回程度しか話したことがなく、ましてや面識もない独り住まいの男の家に、良識のある女性が夜の10時過ぎに行くのはいかがなものだろうか。話をするだけなら、祐輔の家の近くにも飲食やお酒を楽しめる店はたくさんあるはずだ。「行ったら食べられちゃうのかな」などと挑発的な発言をしてから訪れたことを考えると、靖子自身が祐輔を食うつもりだったに違いない。
四十過ぎとはいえ、独り身の女性だ。容姿はそれほどではないにせよ(祐輔談)、身ぎれいにしているだろうし、単身赴任の男の家に行って、それなりに楽しい思いをしようとしていたはずだ。それがどうだ。いざ、事に及んでみたものの、気乗りしないと途中で投げ出されたら、満足できないばかりか女としてのプライドが痛く傷けられたことだろう。
なるほど。だからコンドームが破れて妊娠したのではないかなどと狂言を言い出したのか。不倫だ、妊娠だ、女性関係がだらしないと騒ぎ立てれば、祐輔のみならず家庭をも崩壊させられるとでも思ったのだろうか。いずれにせよ、お金だけが目的ではなさそうだ。だいたいの話の流れは理解できた。
祐輔を苦しめるばかりか、私の家族にまで被害を及ぼすことは絶対に許さない。私は私の方法で、いつか必ず靖子に仕返しをしてやろう。固く心に誓った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます