2度目の着信①/7月16日:午後8:00頃
あの電話が来てから、私の頭の中は藪川という女の言葉でいっぱいだ。14日に電話を切ってメモをまとめたものの、子どもの前で動揺する姿を見せたくなくて、祐輔には電話をしなかった。もしかしたら藪川という女の一時の嫌がらせではないかと思いたかった。とにかく事実が確認できないことには話のしようがないし、こんな一大事なのだから、祐輔から連絡が来て然るべきであって、自分から事実確認をするのは気が重かったし、許せなかった。
今日は仕事が捗らなかった。事務所のパソコン画面に向かっていると、急に涙がこみあげてきて、悔しくて、情けなくて、嗚咽した。
自宅に戻った8時過ぎ。子どもたちと夕食の最中に、また、トルルルーと電子音を響かせて、電話が鳴った。電話機のディスプレイには、『非通知』の表示。また、あの女に違いない。子どもたちのいる時間を狙って、しかも話しにくい状況であることを分かった上で電話してくるのだから相当に質が悪い。夫婦の問題は、夫婦二人で乗り越えて行く覚悟はある。でも、子どもたちには不安な思いや両親のみっともない姿は見せたくなかった。
次に電話が来たとき用にと用意してあったメモ用紙とボールペンを握りしめ、子機を握りしめた。今日は子どもの目の届かないところで話をしようと、食べていなさいね、と子どもたちに目くばせをして、食卓のある部屋を急ぎ足で出た。妙な作り笑いをしてみせたので、顔がひきつっていたかもしれない。
「……佐久間です」
「藪川です」
「妹さんのお加減はいかがですか?」
「あまり変わりありません」
「先日はいきなりのことで、失礼しました」
「いいえ」
「ところで、いくつか教えていただきたいことがあるのですが」
「何でしょう」
「6月5日か12日に会ったとおっしゃっていましたが、東京には長く滞在されていたのですか?」
「詳しくは分かりませんが、他にもお友だちと会っていたようなので、その期間はいたようです」
「診断書の件ですが、いかがですか? 本来であれば、主人に提出していただいたほうが良いのですが……」
「ご主人にもお話ししていますが、堕胎費用についてお支払いくださいとお話ししているのに、いまだお支払いの対応が無いのは不誠実極まりないと思うんです。ご主人の対応が、あまりにも不誠実なので、診断書もお渡ししたくないんです」
「おっしゃりたいことは分かりますが、こちらとしても事実確認をしないことには対応のしようがありません。そういうことでしたら、主人には誓って見せませんので、こちらにお送りいただくことは可能でしょうか? 私が自分の目で確認したら、必ず破棄しますから」
「診断書については、自分の一存では出せないので、妹の承諾を得られたらお出しします。奥様に診断書を出すのが筋ですよね。妹に話してみます」
いやいや、その筋は違うでしょ。
「お願いします。それと、大事なことなので、お聞きしたいのですが、いまの妊娠週数は何週目ですか?」
「えーと……」
恐ろしいほど雑音の聞こえない受話器の向こうで、ペラペラと紙をめくる音がする。続いて、キーボードをカツカツと控えめに叩く音が聞こえた。
「……だいたい……3週目です」
そもそも妹の妊娠を伝えるために電話をしてきたのなら、妊娠週数も含めて、こちらがぐうの音も出ないような証拠を持っているはずだ。それなのに、おかしな沈黙を交えながら話を続ける藪川という姉。胡散くさい臭いがプンプンとする。それに3週目って……??
「私も調べてみたのですが、妊娠週数によって堕胎の金額も異なるようなので、やはり診断書を提示していただかないと妥当な金額も算出できないと思うんです。20日の搬送時の検査では妊娠はしていなかったけれど、27日に改めて検査を受けたところ妊娠していたということですが……」
「そうです。生理の周期を計算して、27日に再検査したんです。早く堕胎手術を行いたいのですが、体力の回復を待たないと手術は無理と医師に止められているんです」
『トイウコトハ フジンカノ アル ビョウイン?』
「病院で何度も自殺未遂をされたので、目が離せないということでしたけれど、心療内科などに入院されているのですか?」
「いえ、外科の一般病棟です」
「でも、何度も病院で自殺未遂をしているんだったら、精神科や心療内科に病棟を移されたりしないんですか?」
「入院先の総合病院に心療内科があって、妹はそこの心療内科を以前より受診していたのです。外科の先生と連携を取って診てくださっているので、外科の一般病棟に入院したままです。また自殺未遂をするかもしれないので、個室に入っているから費用がかかって大変なんです」
「心療内科もあるんだったら、総合病院ですか?」
「はい、市内の総合病院です」
『ニュウインサキハ ソウゴウビョウイン。シンリョウナイカ アリ。コシツニ ニュウインチュウ』
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