ファースト・コンタクト③/7月14日:PM8:30過ぎ
電話機本体の近くにあったノートを広げると、私はボールペンを走らせた。
受話器の向こうからは、ほんの微かな生活音すら聞こえない。
「どこで見つかったのですか?」
「市内の河川敷駐車場で、3日間ほどエンジンをかけたまま車の中にいたらしいのです。同じところに車が停まっているので、通行人が不審に思って車の中を確認したところ、ぐったりとしている妹を見つけて救急車で病院へ搬送されました」
「それは大変でしたね」
「ええ。入院してからICUで治療を受けていて、いまはやっと意識が戻った状態です」
「そうですか。でも、どうしてそんなことに?」
市内ってどこ? 運ばれた病院って何病院なの?
「もう10年以上前から、年に数回程度、電話のやりとりをしていたみたいです。妹もご主人と同様に教職に携わっておりましたので、妹のような教員がうちの学校にもいたら良いな、みたいな話をされて興味を持ったらしく、話を聞きたいと思って東京に行ったようです。ご主人に対して疑似恋愛的な感情を持って東京に出たのではないかと思います。お酒を飲んで話しているうちに、何だかそんな雰囲気になっちゃったんですかね。妹から誘ったわけではないと聞いていますけれど、独りですから、肌寂しいというか、馬鹿ですね、ご家庭のある方なのに……」
こちらが真摯に話を聞くという態度を見せたせいか、先ほどまでの単調な話し方とは対照的に抑揚がついてきた。お涙頂戴節的な、何ともノスタルジックな話し方だ。
確かに主人は専門学校の教職に携わっている。話好きだし、人の相談に乗ることも多いだろうから、そんなことがあったのかもしれない。妹から誘ったわけではないということは、主人が口説いたってこと? いやいや、それより妊娠のことについて聞かなければ。
「(コンドームを)付けなかったんでしょうか」
「したみたいですけど、(激しくて)破けちゃったんじゃないですか?」
電話の向こうの声は、やけに嬉しそうだ。実の妹が、不倫をしたあげくに妊娠したというのに。
『ムカツク オンナ!』
「妹も薬を服用しているので、お酒と一緒に飲んで二人とも訳が分からなくなっちゃったんでしょう。……しょうがないですねぇ」
また語尾を少し上げる。「お料理にお塩をいれなきゃいけなかったのに、お砂糖を入れちゃったのよ。しょうがないですねぇ」みたいな言い方されてもね、と、げんなりする。みぞおちがムカムカして気持ちが悪い。
『妹も』ということは、主人が心療内科の薬を服用しているのを知っているということだろうか。
確かに主人は心療内科で薬を処方してもらっている。抗うつ剤との付き合いは長く、単身赴任になる前から飲んでいる。単身赴任とはいっても、私が子どもたちを連れて実家に戻る形だったので、通っている病院も服用している薬についても、よく知っている。主人が服用している薬は、お酒と一緒に飲んだからといって意識が飛ぶような薬ではないはずだし、通院先が変わったり薬を変えたという話は聞いていないので確認の必要ありだ。そもそも服用すると、いつも睡魔に襲われるので、就寝間近にならないと服用しないはずなのだ。飲みに出かける際に服用していたというのは、合点がいかない。
仮に服用してから飲酒したとしても、睡魔に襲われて女性と何がしかいたすには無理があると思うのだが。勃たないだろうしね。ははぁ、これはいわゆる妊娠詐欺ってやつですか? 心の中で反逆精神がムクムクと湧き上がるのを、抑えきれない。
それにしても、この姉と名乗る藪川さんは、妹が不倫して妊娠していることを私に伝えるために電話をしてきているはずなのに、受話器を通して聞こえる言葉や声の抑揚が、まるでのろけ話のように聞こえて違和感が半端ない。
「でも、一回しか会っていないんですよね? それで(妊娠)って、すごい確率ですね」
ちょっと攻めてみる。
「本当に、すごい偶然なんですけど、ちょうど危険日だったみたいで」
「あの……、(主人と妹さんが)会った日って、いつの話ですか?」
「妹の日記帳が手元に無いので詳しくは分かりませんけれど、6月5日か12日だと思います」
10数年来の知り合いで、お酒を飲んでいたとはいえ初対面で家族持ちの男性と一晩をともにし、結果、妊娠して、行方不明になって、自殺未遂で病院に搬送されたってことですか。いやぁ、小説まがいの出来過ぎの展開ですね。それにしても、薮川と名乗る姉がいう『肌寂しくて』というのが、やけにひっかかる。もしかして年配者かも、という不安が頭をよぎる。
「あの、失礼ですけれど、妹さんはおいくつですか?」
「41です」
『ババアニ テヲダシタ!』
急に脱力感に襲われた。41ですって? 確かに私よりはちょっぴり若い。でも、浮気をするなら若くてピチピチの女の子でしょ。何で四十過ぎのオバチャンに手を出すかな。同性の私が見ても『よっ! 良い女』と見惚れるぐらいの容姿でもなければ納得がいかない。
『はぁ……』
一つ溜息をついて、ボールペンを改めて握りしめる。
「……妹さんのお名前をお伺いしても良いですか?」
事務的に話を進める。
「そんなこと、ご主人に聞いてくださいよ。肌を合わせた妹の本当の名前も覚えていなかったみたいですから。……まぁ、覚えているかどうか分かりませんけれど」
分からない?
「十数年来の知り合いなのに名前を知らないって、どういうことですか?」
「インターネットで知り合ったそうで、ハンドルネームを使っていたので、お互いの本当の名前は知らなかったようですよ。お会いしたときに本名を名乗り合ったのに、帰るときには覚えていなかったと妹は言っています。そういう人なんですよ、ご主人は」
藪川と名のる姉は、吐き捨てるように、そう言った。
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