ファースト・コンタクト①/7月14日:PM8:30過ぎ


「ですから、妹が妊娠したと申し上げているのです」


 6年前のある晩、受話器から抑揚の無い女性の声が、大きすぎず小さすぎない音量で私の耳に飛び込んできた。


 いつものように、慌ただしい夕食時。子どもたち二人がミニバス少年団に入ったのを機に、いままで18時台だった我が家の夕食時間は20時を軽く過ぎるようになった。日中は仕事に出ているので、それほど手の込んだ料理を作るほどの余裕は無い。料理は子どもが生まれてから必要に迫られて覚えた程度の腕前だが、それなりの手抜き料理でも子どもたちの腹を満たせるぐらいの自信はある。

 今夜は、簡単ハンバーグ。玉ねぎのみじん切りに、挽肉、卵、にんにく、クレイジーソルト、ミルで轢いたブラックペッパーを少々振りかける。肉の脂は洗い流すのに時間がかかるので、小さいビニール袋に右手を突っ込み、即席の手袋にしてボールの中に投げ込まれた具材をこね回す。

 オリーブオイルを振りかけたフライパンを温めつつ、ハンバーグの形を整える。ジュウジュウと音がし始めたフライパンの中に、楕円にまとめた大き目のハンバーグを四つ、ぎゅうぎゅうと並べて綴じ蓋をし、表面を焦がさないように中火にして、しばし静観する。頭の上では、換気扇がゴーゴーと音を鳴らし、肉汁から立ち上る湯気を外へと送り出している。

 炊飯器が、米が炊けたぞと音楽を誇らしげに流す。ハンバーグの焼け具合を確認しながら手早くレタスを水洗いし、手でちぎってサラダボールに盛りつける。トッピングにミニトマトを添える。茶碗と箸、取り皿をテーブルに並べ、ケチャップとソース、マヨネーズに、あとはドレッシングを冷蔵庫から引っ張りだせば、夕食のおかずは完成だ。

 食器棚からカチャカチャと皿を出す音を聞きつけて、腹ペコの子どもたちがキッチンに面した四角いテーブルに駆け寄ってきた。


「いっただっきまーす!」


 満面の笑みを浮かべつつ、次男が先にテーブル席に着く。続いて、長男が鼻をクンクンさせながら、次男の向い側の席に座った。

 炊き上がったご飯を茶碗に盛り付け、2人の前に差し出すと、ハンバーグにかけるオーロラソースを次男が身体を丸くしながら取り皿いっぱいに作り出した。


「どう? 美味しい?」

「まだ食べてなーい」


 小学二年生になった次男が、口をフーフーと口をとがらせて焼き立てハンバーグに風を送る。こんなに自分の子どもをかわいいと思うようになるなど、若かりしころの自分からは想像がつかなかった。自分自身の変わり身がおかしくて、ついほくそ笑む。さてさて、子どもの顔ばかり見ていても、お腹は膨れない。今日のでき具合はいかがなものかと、自分の皿にハンバーグを取り分けようと箸を伸ばした瞬間だった。


トルルルー


 電子音を響かせて、ダイニングテーブルの向こうで電話が鳴った。


『ありゃあ……。焼きたてアツアツが美味しいのになぁ』


 ほかほかと湯気の立つハンバーグを見つめながら、テーブルの上の子機を取り上げる。


「はい、佐久間です」

「あの、……佐久間祐輔さんの奥様ですか?」

「はい、そうですが?」



 夫は単身赴任で、ここ3年ほどは東京暮らしだ。私と子どもたちが暮らす函館の地には、年末年始と夏休みに1週間程度の休暇を取り戻ってくる。


「これ、洗濯しておいて」


と、臭すぎる靴下やら、いつ洗ったのかと思うほど色の変わったシャツなどを、土産代わりにバッグいっぱいに詰め込んで家に帰ってくる。あとは子どもたちと遊んで、食べて、寝て、たまにお風呂に入って、東京に帰る直前に子どもたちをぎゅーっと抱きしめて、笑って東京に帰って行く。

 たまにお風呂、というのが何年連れ添っても納得のいかないところだが、私の実家は幼少期から高校を卒業するまで銭湯を営んでいた。なので、よほどの高熱でも出してダウンしない限りは毎晩お風呂に入るのが当たり前だった。当たり前というよりも、ヒトという生き物は、毎日お風呂に入らないと死んでしまうものだと、中学に入るまで本気で信じていた。そんな自分が、お風呂嫌いの夫と結婚することになろうとは、夢にも思っていなかった。


 夫曰く、『人間は風呂に入らなくても死なない』そうで、私には理解不能な領域で生きている。



「……が妊娠しました」

「はい?」


 想像だにしなかった文言だったので、私はかなり素っ頓狂な声で即答したに違いない。

 子どもたちが、ポカンとした顔でこちらを見ている。


『食べてて』


 私は慌ててゼスチャーで口をモグモグさせると、子どもたちに背を向けた。子機の話し口を片手で押さえ、背中を丸めながら小さく低めの声で聴き返してみた。

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