第14話 ブラックバックのゲーム
最も警戒すべき瞬間は勝利の瞬間にこそ現れる。99の優位を重ねても、100手目で取りこぼせばすべてその価値を失う。限りなく心を平静に保ち、自分と獲物が完全に一体になるその瞬間を待つ。ひょう、と風を切る音とともに遠く獣の影がどさりと倒れ込む。
「うわっ、何だこのニオイは!? 鼻がひん曲がりそうだぞ!?」
ひらひらのメイド服に身を包み、カフェの厨房に手伝いに入ったツチノコは思わず声をあげた。匂いの元は明らかである。厨房中央のコンロにかかった大鍋。恐ろしい匂いを放つそれを、ブラックバックがグルグルとかき回していた。
「よくぞ参った、ツチノコ。済まぬがそこにある野菜の類を食べやすい大きさに切っておいてはくれぬか。」
グツグツと煮立った鍋からはモクモクと蒸気があふれ、黒いマントに身を包みマスクで顔を覆ったブラックバックはさながら絵本の世界の魔女である。ツチノコが顔をしかめながら鍋を覗きこむ。
「うえっ、ひでえニオイだ。何だこりゃ? おい。俺たちに何を食わせようってんだ?」
「…ライスカレーだ。肉入りの。博士と助手たっての希望でな。」
ツチノコがもう一度鍋の中を覗き込む。なるほど、セロリや玉ねぎ、人参などの切れ端に混ざってごろりとした肉の塊がいくつも浮かんでいる。
「こうして一度茹でて臭みを取るのだ。本当はもう少し上手に加工したかったのだが、手間取って少し肉に血を残してしまった。失敗だ。」
ワシミミズクに、アフリカオオコノハズク。いずれも元々は肉食の猛禽類である。フレンズの身体であっても、その習慣が完全に無くなることはない。時おり、猛烈に肉食の記憶を思い出してしまうことがあるのだという。
「それでお前がその肉を捌いてカレーにしてふるまってやろうってのか。自分でやらせりゃいいだろ、そんなもん。」
悪態をつきながらもツチノコは包丁を手に取りジャガイモの皮を剥きはじめた。
「対価はある。図書館にどうしても閲覧したい資料があるのだ。」
「ほう? なんだ? 本か?」
ジャパリ図書館の資料であればツチノコも興味がないとは言えない。貴重な情報が手に入るとあらば仕事を手伝うのもやぶさかではないツチノコである。しかし、ブラックバックの返答はツチノコの思いがけないものであった。
「一人目の我の資料だ。我は、おそらく二人目のブラックバックなのだ。」
一瞬虚を突かれたツチノコの頭に、時間をおいて意味がすべり込んで来る。
「…代替わり、したってことか…!?」
「然り。パーク創設ごく初期の段階において、ブラックバックという我とは別のフレンズが存在した。その情報を、可能な限り収集したい。」
フレンズにも死の概念は存在する。何らかの事情でフレンズとしての力を失えば、記憶も人格も失い元の動物の姿に、あるいは、さらに分解され概念の世界に還元されてしまう。運営の不安定なパーク創設ごく初期にはしばしば見られる現象であった。代替わりし、新たな肉体と人格を得て復活してフレンズは現在でも数多く存在する。
狩猟のための弓矢を注文されたとき、アメリカビーバーは多くを尋ねなかった。罠を用いることも考えたが、万が一にもフレンズを巻き込むわけないはいかない。よくしなる蔓と、砕かれ鋭い切っ先を見せる黒曜石の矢じり。セルリアンを退治するためでない、獣を狩る武器。それを携え、ブラックバックは森の中をゆっくりと気配を殺して歩いてゆく。
鹿か、あるいは兎でも見つけることが出来れば獲物として申し分ない。やがて木々が途切れ、下草に光が差し込む水場に水を飲む動物の気配があるのを発見した。細い体。白と黒のつややかな体毛。特徴的な長くねじれた2本の角。哺乳類偶蹄目ウシ科ブラックバック属、ブラックバックである。
まだ体も成長し切っていない若いオスだ。幼い子供やメスであれば群れで生活するのが常であるが、ハーレムを持たない若いオスであれば単独行動の公算は高い。そう判断した狩人が弓を引き絞ると、獲物はその一瞬の殺意を敏感に察知した。ギュイ! と鳴き声を一つ上げ獲物が鋭く踵を返す。追う狩人。
若いオスのブラックバックは森を駆け抜け、一目散に草原を目指す。遮蔽物がなくとも、肉食の獣が相手であれば自慢の脚で必ず逃げ切れる。獲物はそう判断した。だが狩人は肉食の獣ではない。同じだけの速力で距離を保ちつつ、ぴったりと追従する狩人のブラックバック。
すぐに追い詰めることはしない。同じブラックバック同士、速力、持続力ともに同等であっても、4本足よりも2本足のほうが運動効率は格段である。少しずつ、獲物の脚に焦りと困惑の色が浮かぶようになってきた。最後の力をふり搾り、獲物が狩人を引き離しにかかる。ひときわ高く跳躍し、生い茂る草むらの中に獲物は逃げ込んだ。
狩人は再びゆっくりと気配を殺してその茂みに忍び寄る。獲物にもはや長い距離を走る体力は残っていない。呼吸を整え、静かに弓を構える。狙うは横たわる胴体の中心、バイタルゾーン。真っすぐに弦を引き絞り、意識が一本の長い糸になって自身の腕と弓、そして獲物の身体とぴったりと繋がる瞬間を待つ。
「南無八幡大菩薩。」
ひゅうん。風を切る音に一瞬遅れて、獲物の身体がびくんと跳ねる。駆け寄る狩人。矢は、若いオスのブラックバックの背中から深々と突き刺さり内部まで到達していた。ビクビクと跳ねる獲物のからだと脚を押さえつけ、その首にナイフを突き立てる。獲物は2、3度激しく血を吹き出し痙攣すると、ぐったりと抵抗する力を失った。
まだ仕事は終わりではない。傷口から汚れや菌が付着しないよう、ブラックバックは獲物の身体を速やかに近くの灌木に縛り付けた。腐敗防止のためにも、肉の臭みを取るためにも、直ちに放血しなくてはならない。切られた頸動脈、そして内出血を抜くために切開した胸部からどくどくと血が溢れ出す。
「ふう…。マントや衣服に血の汚れは…ないな。」
ようやくひと段落着いた狩人が――フレンズのブラックバックが岩に腰掛け一息つく。この後は解体し内臓を取り出し、清流で肉の温度を下げつつ体内に残った血を洗えば食肉のための処理は完了する。
「許せよ。汝は、アルファではなかったのだ。」
何かに祈るべきかと思ったが、フレンズに神はいない。だから、狩人は獲物の魂の冥福を祈ることにした。むかし覚えた、日々の糧を得る際に唱える祈りの言葉。
「天にまします我らの父よ。願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ――。」
「…それで、そのブラックバックのお肉がいまこのライスカレーの中に入ってるわけね。うん。おいしいよ。血の匂いもほとんどしないんじゃないかな。臭みの特に強い若いオスの肉にしては、相当上手に処理できてると思うよ。」
ライオンはうんうんとうなずきながらカレーの中の肉の塊を咀嚼した。持ち帰った肉の量から逆算して博士と助手だけで食べ切れるはずがない。結局、大鍋いっぱいに出来た何十人前のライスカレーを処理するために肉食のフレンズをカフェいっぱいに呼び集めることになった。
「みんなー、今日のことは、一応、いちおう秘密にしとこうね。びっくりしちゃう仲間もいるかもしれないしさ。あと、ブラックバックにもお礼を忘れないように。」
ライオンの呼びかけにカレーを頬張る肉食のフレンズたちは一様に深く首を振った。久しぶりの獣の肉の味に、皆思うところはあるようだ。
「ありがとね。おいしいよ、これ。」
「我は我の求めるもののために働いただけだ。」
「まあまあ、感謝の言葉ぐらい素直に受け取っといてよ。」
「それでさ、私もキミに何かお礼をしようと思ったんだけど、ブラックバック、キミ何か私に聞きたいことってある? 今なら言いづらいことも何でも話せちゃうかも。」
ライオンがわざとらしくウインクする。謝礼というより、どうやらライオンには何か話したいことがあるようだ。
「…では一つ質問を。」
「うんうん。」
「…何故、ドールだったのだ。彼女はまだ成長の途上であるし、すぐに群れを率いるリーダーとしてじゅうぶん働けるとは思えぬ。後任に群れを任せるにしろ、ほかに適役はいくらでもいたように思うが。」
ブラックバックの質問に、ライオンはニンマリと目を細める、どうやら質問は正解のようだ。
「わたしはさ、これからのパークにどんなフレンズが必要か考えたんだ。」
「ほう。」
ライオンが、食べかけのおおきなカレースプーンをくるくると回す。
「群れってのは、何だかんだリーダーの性質に全体の性格が寄って行っちゃうんだよ。今はさ、とにかくセルリアンをやっつけて追っ払わなきゃいけないから、私みたいな腕っぷしの強いリーダーが必要になるわけ。」
「でも、セルリアンがいなくなって、パークが正式にオープンしたら、私みたいな腕っぷしだけのリーダーは必要なくなる。その時にはドールみたいな、人間を心から信じて、人間と正しい意味で仲良くできるリーダーが必要なんだ。」
「なるほどな。汝はお世辞にも人間を信用しているとは言えぬからな。」
「うはは、バレてたか。」
「候補はいろいろ居たよ。ハクトウワシ、っても一瞬考えた。でもちょっと駄目だね。あの子はさ、正しさって何だろうって考えて、それに真っすぐ向かって行くのが似合ってると思うんだ。もしあの子リーダーに…あの子自身が正しさになっちゃうと、パークは今よりちょっと窮屈になるかも知れないね。」
「…首肯する。ハクトウワシの…その峻厳さに危うい面がないとは言えぬ。」
「そゆこと。ああ、ごちそうさん。おなかいっぱい。それと、言わなくても分かると思うけど。」
食べ終えたライスカレーの皿とコップを片付けながら、ライオンが席を立ち上がる。
「キミは絶対駄目。君みたいな人間がリーダーになるのが、群れにとって一番不幸なパターンかな。」
ブラックバックは答えない。
「自分の身を切って他人に与えるような真似は止めようね。それで幸せにできるひとの数は、ほんとうにほんの片手の指ぐらいの数にしかならないから。」
「群れのリーダーには幸福になる義務がある。わたしは、そう思うよ。カレー、美味しかったよ。ありがとう。」
ライオンが去ったあと、ブラックバックは目をつぶったまま残ったカレーの最後の肉の塊をゆっくりと咀嚼した。口に広がるたんぱく質と脂身の旨味。
「…ただの肉だ。」
ブラックバックは、ごくん、とそれをひと息に飲み込んだ。
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