第8話 a garden on the palm

「よい。実に良い寝心地だ。ハクトウワシ。我は腹が減った。何ぞ果物を持て。」

「まったく…。この体勢になってから、すっかりわがままになったわね。何が食べたいの? リンゴ? サクランボ?」

「ふむ。サクランボを所望しよう。」


しとしとと雨の降る、午後の草原。スタッフカーの停留所であろう、簡素なトタン屋根のガレージでブラックバックとハクトウワシは雨が止むのを待っていた。

「ジャパリ団のふたりはどうしたの?」

「今日は遊びに行っておる…キタキツネとげーむ、とやらをやる約束をしていたからな。」


「しかしこの…。汝のふとももに頭を預けるこの体勢…。」

ブラックバックは、ハクトウワシの膝の上にあおむけに頭を乗せる、いわゆるひざ枕の姿勢で横たわっていた。鋭い角が邪魔になりそうだが、けものプラズムで形成された角は形や硬さの自由が比較的利く。体を横に倒さない限り支障はないだろう。


「ほら、サクランボよ。」

ハクトウワシが頭上にサクランボの茎を垂らすと、

「うむ。食べさせよ。我はいま頭が動かせぬ故な。」

と、ブラックバックはにゅんと唇を突き出した。

「はいはい。ほら、食べなさい。」

数回茎を上げたり下げたりもてあそんでから、窄まった唇にサクランボを落とす。


「ん~、美味である!」

足をばたばたさせ無邪気に喜ぶブラックバック。これが彼女の本来の性格なのだろう。

「ふとももがひんやりもちもちして気持ちがいい…。永久にここにいたい…。」

そんなブラックバックの子供っぽい姿に、ハクトウワシは目を細めた。


「しかしなんとまあ、」

下からハクトウワシの頭を見上げてつぶやく。

「こんな位置から、こんな角度で汝の顔を間近に拝んだことはなかったな。鼻の穴まで丸見えであるぞ。」

「ちょっと。変なところのぞき込まないでちょうだい。」

「鼻毛の長いのが一本はみ出している。」

「うそっ!」

「嘘だ。」


「もうっ!」

「くっくっく、戯言だ。戯言。」

怒りにブラックバックの顔をにらみつけると、ハクトウワシはがっしりと顔を掴まれた。

「美しい…。」

「……。」

「汝の顔は…、何故そんなに美しいのだ…。」

ブラックバックの親指が、目元からハクトウワシの眉毛をなぞる。


「細くまっすぐな…何物にも折れぬ力強い意志を感じる眉…。」

「涼しく切れるまぶた…光り輝く金色の瞳…。」

「鼻筋が真っすぐに通って…。ああ…なんて凛々しい横顔だ…。」

「我には、ひとつもない…。我の顔に、汝のような部分は、一つも無いのだ…。」


確かにそうであった。ブラックバックとハクトウワシでは、顔立ちがあまりに違っていた。凛とした吊り目のハクトウワシと、まるく杏仁型のまぶたのブラックバック。鼻筋の高く通ったハクトウワシと、丸く平らなブラックバック。眉毛の生え方、あごの輪郭、どれをとってもふたりが同じ形を描くことはない。


ブラックバックの問いに、ハクトウワシは沈黙をもって答えていた。ハクトウワシの親指が、見上げるブラックバックの頬を、陶磁器のように白い、なだらかに細く尖るあごの稜線をなぞる。

「…貴方の顔は、どこも優しい形をしているのね。」

前髪を上げ、隠れている右目をのぞき込む。


「丸くてくりくりした目。横長で、穏やかな瞳。太くなだらかな眉毛。小高い丘のような、可愛らしく盛り上がった鼻。すべすべした頬。細い首。小さな丸い耳。」

そのひとつひとつに印をつけてゆくように、ハクトウワシはブラックバックの顔にくちづける。

「…なのに、その全てを貴方は隠そうとする。」


「大きな真っ黒いマントで。長く垂らした前髪で。大仰で尊大な態度で。自分を覆い隠そうとする。…たぶん私も、もちろん、ほかのフレンズたちも。タスマニアデビルや、オーストラリアデビルたちでさえ、あなたの全部を知らない。あなたはいつも、あなたのせいぜい半分ぐらいしか見せようとしない。」


ブラックバックもまた、ハクトウワシの問いに沈黙で答える。ハクトウワシは両手でブラックバックのあごを掴んだまま、ゆっくりと丁寧に体を折り畳み、唇を重ねる。長い、長い接吻。あごを開かせ、舌をねじ込み、唾を飲ませ、口の中隅々までを舐めまわす。くぐもった声を上げ身をよじるブラックバック。


「はあ… はあ…!」

ようやく解放され、息を荒げたブラックバックはうるんだ瞳でハクトウワシを見上げる。ハクトウワシはそのすがるような目を見ようとはしない。視線を下へ。もじもじと秘密を隠そうとする、弓なりにしなる腰へと目を向ける。

「…貴方のなかで、ここだけが嘘をつかないのね。」


「共に戦うときも、私に愛を囁くときも、助けてくれとすがる時さえ。貴方は、私に自分の全てを預けることはしなかった。」

指が、ゆっくりとブラックバックのからだを這う。

「…ここだけが、遠慮もなしにわたしに全てを注ぎ込んでくれる。」

山なりに膨らんだ股間の、先端の突起に触れる。


「ちゃんと言いなさいよ。どうして欲しいのか、ここがして欲しいことと、同じことを、貴方の口で。」

「……!」

閨(ねや)の睦言ではなかった。ハクトウワシは明確に怒っていた。

「口で言えないから、体で答えるなんて、そんなの、卑怯だわ。フェアじゃない。」


「…愛している。」

「ええ、私もよ。でもそれは願望じゃない。」

「…抱きたい。交尾したい。射精したい。」

「それも違う。それは手段であって目的じゃない。」

…長い沈黙。ハクトウワシはいつまでも待つつもりだった。

「…なりたくない…。」

「…足手まといに、なりたくない。」


堰を切ったように、ブラックバックの口から言葉が溢れ出す。

「我はいやだ。誰かをかけがえのない存在だと思うことも、誰かからかけがえのない大切な存在だと思われることもまっぴらだ。それが増えるほど、我のからだは重くなって、どこにも行けなくなる。何もできなくなる!」


「でもそれが無ければ生きていけない。ふらふらになって倒れそうなのを、大切な人たちに何とか支えて貰わなければ息ができない。立っている事も出来ない。そんな呪いを、我はもう両の手に二つも持っているのだ。怖くてたまらない。彼の者たちに何かあったらと、そう思うだけで夜も眠れない!」


「我の両手はもう満杯だ。これ以上何も持つことが出来ない。それなのに! それなのに汝は我を愛するという! この我の体にさらなる呪いのくびきを刻み込もうとする!!」


「真っすぐに空を飛ぶ汝は美しい…。でも、たぶん、わたしは、一緒に飛ぶことはできない…。ハクトウワシの、きみの、足に絡みつく錘(おもり)にしかならない…。」

消え入るような、声。


違う。私がただ前だけを見て真っすぐ飛んできたその下で、貴方は曲がりくねった険しい道を自分の足で歩いてきた。大切なものの手を取って、支えて、気の遠くなるような道のりを、全部自分の足で歩いてきた。ハクトウワシは叫び出したかった。だが、言葉はすべてのどの奥で小石のようにつかえて出てこない。


「…これが、汝の聞きたかった答えだろうか。出来る限りの言の葉を放ったつもりだったが、まだ不足であれば応じよう。そんな顔をするな。いずれ、汝には知る必要のあったことだ。ずっと誤魔化していた。この期に及んでなお、拒絶されることを恐れたのだ。」

ブラックバックは弱々しく笑った。


「汝は我に何を求める? 汝は与えるばかりだ。温もりも、安らぎも、我は汝に差し出した記憶がない。我に求めるものが無いのであれば、それこそ、看過できぬ不平等ではあるまいか?」

「…ええ、そうね。安らぎも、温もりも、別にいらない。私は、貴方から欲しいものなんて何もない。」


ハクトウワシのその答えに、ブラックバックは頬を引きつらせる。

「私の求めるものは。」

「…求めるものは?」

「あなたが、貴方であること。私の視界に、私の認識する世界のどこかに、私が知っているブラックバックというフレンズが存在すること。それが、私があなたへ求めるすべて。」


「…死ぬな、ということか?」

ブラックバックは怪訝に眉をひそめる。

「いいわよ。別に死んでも。わたしは馬鹿みたいに泣いて、わめいて、狂ってしまうかもだけど、貴方はそんなこと気にしないでいい。何もかもが間違いで、すべてが無駄になって、取り返しのつかない結末になっても、貴方が納得がいくならそれでいい。」

「……。」

「私のために、生きないで。あなたが私の足に絡みつく錘だと言うのなら、わたしはその足を切り落とす。貴方は、私の事なんて考えないで、貴方自身のために、生きて、死んで。」


自身の上に覆いかぶさるハクトウワシを、ブラックバックはそっと抱き寄せる。

「…できない。できないよ。わたしはもう、きみのことを考えないで生きることはできないんだ。もう、その点は越えてしまった。ハクトウワシを知らなかった頃の、元のブラックバックに戻ることはできないんだ。」


それはハクトウワシも同じことであった。ブラックバックと出会って、自身の何かが、決定的に変わってしまった。もう、元に戻ることはない。ハクトウワシは、ブラックバックの胸元にぐりぐりと頭をこすりつけた。子猫が、親猫になじみをつけるように。

「好き…。だいすき…。ブラックバック…。わたしの…、たいせつなひと…。」


ブラックバックは何も答えなかった。ただハクトウワシの望むままに、甘えた声を出してすり寄るハクトウワシの体を優しく抱きとめていた。雨の音は、いつの間にか聞こえなくなっていた。やがて、窓を覆う雲の隙間から抜けるような青色が飛び込んでくるようになった。


「ぬぅ~う? ブラックバックとハクトウワシ、どうしたの? 二人とも、目のところ涙のあとがあるよ? けんかした?」

オグロヌーが、二人の目元をかわるがわる心配そうにのぞき込む。十分目の腫れも引いてからガレージを出たはずであるが、抜けているように見えてオグロヌーの観察眼は鋭い。


「心配しないで。喧嘩じゃないわ。ねえ?」

「う? うん、その、なんだ。貴重な意見の交換というやつだ。」

「ふんふん、まあ、怒ったり悲しんだりしてるニオイじゃないよね。」

「分かるのか、そんなことまで…。」

ブラックバックが首をすくめる。

「分かるよぉ。何となく、気持ちの色ぐらいはね。」


気持ちに色があるものか。いや、オグロヌーであれば、あるいはそんな微細な感覚もあるのかもしれない。

「二人とも、とっても複雑だけど、綺麗な色。いろんな色が混ざり合って、よく似た渦になってる。しろとくろ、白と黒、だねえ。」

面食らったようなブラックバックとハクトウワシは顔を見合わせ、互いに指を突き出して言った。


「まさか。」

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