第2話
世界にはね、幸と不幸が同じ割合ずつ存在してるんだよ。
いつだったか、女性が言っていたことがある。誰かにとっての不幸は、他の誰かにとっての幸なんだ、と。
例えば、友人が死んだとして。その死に苦しむ人が五十人いれば、その死で内心ほくそ笑んでる人も五十人いるのだ。残りの七十億人以上は、無関心な人。だから、幸と不幸、プラスとマイナスの均衡は保たれる。
女性がたくさん話してくれた興味深い話の中でも、その考え方は特に面白いと思っていた。
だけど、俺は夢心地な雰囲気の中、その考えを全力で否定したい衝動に駆られることになる。
ボーリング場に行った十日目からも、俺と女性の散歩は続いた。
商店街で片っ端から食べ回ったり、ショッピングモールに行ったり、ゲームセンターに行ったりもした。
この街で出来ることは、全部やり尽くしたと言えるほど遊んだ。
時間は、あっという間に過ぎていった。
退屈だとか、暑いとか、ぼやいてる暇なんて全くなかった。
毎日毎日、女性と散歩する日々。今までの人生で一番濃くて、一番早い夏休みは、しかし、もう終わりを迎えようとしていた。
「夏祭りに行きましょう」最終日二日前に、初めて俺から彼女を誘った。
からんころんと、下駄が石畳を叩く音がする。
ざわざわと、大勢の人々のいつもより大きな声がする。
どおん、どおん、とどこかで太鼓がなっている。
そんな音たちを耳から吸い込みつつ、俺は辺りの喧騒を見渡した。
ここは、神社の入り口。ここから、本殿までに一本の長い坂があり、その両脇に屋台が軒を連ねている。
今日は、この鳥居の前で待ち合わせをしているのだが……。見つけた。浴衣姿の男女が行き交う中、一人純白を身にまといこちらに向かってくる女性。
彼女は俺を見つけると、小走りになった。首に巻いたペンダントの若葉色が、ゆらりゆらりと揺れた。
「やあ、待たせたかな」
「いや、今来たばかりですよ」
言いながら、使い古された言い回しに、むず痒くなった。
「……いや、嘘です。結構待ちました」
「君も言うようになったね」
女性は、白い歯を見せて笑った。
「何で浴衣を着なかったんですか?」
「多分、君と同じ理由だよ」
女性が俺の着ている服を指差して言った。家には一応袴があったのだが、今日も俺は私服で来た。
いつもと同じがよかったからだ。今までと同じような私服で、今までと同じワンピース姿に並びたかったのだ。
その気持ちを共有していたのは、素直に嬉しい。
「じゃあ、早速行こうか」
「そうしましょう。どれから食べます?」
「私、イカ焼きがいいなー」
右向け右をして屋台の方に向う女性の横に、俺も並ぶ。俺たちは、夏祭りの賑やかだけどどこか落ち着いた空気に溶け込んでいった。
俺たちはそれから、夏祭りを満喫した。
イカ焼きや焼きそばを食べて回った。ただ高いだけだと思ってたけど、不思議と美味しく感じられた。
射的で遊んだ。俺は下手くそだったけど、女性が謎の才能を発揮して、狐のお面を手に入れていた。あのドヤ顔は忘れられない。
金魚すくいをした。どちらが多くとれるか競争をして、俺が二匹差をつけて勝った。もちろん、ドヤ顔はおつりが出るほど返しておいた。ちなみに、取った金魚は女性の要望で、店主に返しておいた。
俺と女性、肩をほとんど触れあわせながら、屋台を冷やかして回る。
女性に手を引かれて付いて行ったり、はたまた俺が女性を連れていったり。
気付けば手は握ったままだった。たまにすれ違うカップルを見て、俺たちもそんな風に見えてるのかな、なんてことを考えてみたりもした。
要するに、俺は祭りの雰囲気に酔っていたのだ。
これは、地元の祭りなのだ。そんな簡単なことにも頭が回らないほどに。
「ねぇ、別れよう?」
終業式の放課後、女性と出会う数時間前、俺は当時付き合っていた彼女にホームルーム教室に呼び出されていた。
二人で、机に座りながら向き合った状態。開口一番、投げかけられた言葉がこれだった。
「それがきっと、あなたのためだと思うの」
気遣わしげに眉を寄せながら、彼女はこちらを覗き込んできた。
彼女が言っている意味を、俺も本心ではわかっていた。
彼女と付き合い始めてから、俺の成績は下がる一方だったのだ。その日、担任に第一志望の推薦は無理かもしれないと言われたばかりだった。
でも、その時の俺は、それら全てに耐えられるほど強くはなかったのだ。
気がついたら、手近にあった机と椅子を、乱暴に蹴っていた。
ガシャンと、鈍い音が二人だけの教室に響き渡った。
その音に怯えるように、彼女の華奢な身体がびくりと震えた。
「……何だよ、二人のためって。鬱陶しいんだよそういうの。何? 善人ぶってんの?」
その時の俺は完全に、箍が外れていた。
目に映る全てのものが、鬱陶しく感じられた。
ジージーとなく蝉の声が、クーラーの切れた教室の暑さが、彼女が身体を動かすたびに小さく揺れるポニーテールさえも、俺の吐き気を助長した。
「本当は、もともと別れたかったんじゃないのかよ。何だ? 他に好きな男でも出来たのか?」
バシン
右頬に、衝撃が走った。彼女が、俺の頰に平手打ちを食らわせたのだ。俺はその反動で、机ごと後ろ向きに倒れた。
背中を襲う鈍い痛みを感じながら、俺は去りゆく足音を聞いていた。
「ふざけんなよ。 あいつがどんだけ悩んでたか知ってんのか!?」
校門を出てすぐのところで、俺は友人に胸ぐらを掴まれていた。
理由は簡単。俺が、彼女に言ったことをそのまま友人に言ったからだった。
今思えば、友人は振られた俺のことを待ってくれていた訳だが、その時は、そんな気遣いに気付く余裕はなかった。
「知らねえよ、そんなの。もうどうでもいいよ。お前も、あいつも。何が俺の為なんだよ。そんなのただの自己満じゃねえかよ!」
吐き捨てるようにそう言った俺をみて、友人は失望したような目をした。
その隙に友人の手から逃れた。
「もう部活もやめたから」
そう言い残して、俺は帰路に就いた。
もちろん、返ってくる言葉はなかった。
これが、女性と出逢う前の出来事だ。
どう考えたって、全部、俺が悪いのだ。それくらいは自覚している。
女性に相談した後からずっと二人に謝ろうと思って、それでもずるずると後回しにしていた。
かけようとした電話が、紙飛行機のボタンを押そうとしたラインの文面が、気づけば数えきれないほど積もっていた。
だから、これから起こる出来事は、逃げ続けた俺が悪いのだ。
もう一度言う。これは地元の祭りなのだ。当然、近隣の高校生が来ていても不思議ではないわけで。
例えば、夏休み前に自分を振った彼女と、喧嘩別れした友人が手を繋いで夏祭りに来ているなんてこともなくはないのだ。……最悪だ。
俺は正面に、その例えのままの二人を見て、脚が動かなくなった。
隣から女性の訝しげな視線が向けられる。前の二人も立ち止まる。
こんな展開誰にとっても不幸だろ! そう叫び出したくなったが、息を吸うことさえままならなかった。
何とか視線を上げようとして、二人の繋がった手を見て、また下を向いた。背中を、嫌な汗が伝った。
「……ねぇ、奏じゃない?」「……そうだな」二人が目の前で発した気まずそうな声が、とても遠くに聞こえた。
無理に顔を上げようとして、さっき食べたものが逆流しそうになる。
嫉妬とは、多分また違って。それでも、身体中を嫌な感覚が蠢いた。
不意に、右腕を引かれた。顔を上げると、女性が俺の腕に抱きついてきた。ワンピースのサラサラした質感と、それとは別の柔らかい感触が、右腕を包んだ。
「ねぇ、りんご飴食べようよ、りんご飴!」
女性は、甘えるように目を細めた笑顔を向けつつ、俺の腕を引っ張った。
俺は少し女性の顔を見つめてしまった後、「うん」とだけ言って女性についていく。
一瞬だけ視線を向けてみると、前にいた二人も、女性の笑顔に見惚れたように固まっていた。
俺たちはその後、無言のままりんご飴屋さんに向かった。女性はまだ俺の腕を抱いたままだった。
俺は食欲がないと言ったのだが、女性が「じゃあ私が二つ食べる」と言い、二つ買った。
一本道から脇道へ逸れるとそこにはちょっとした広場があり、そこでは街の風景を一望できる。
俺たちはその広場の中のベンチに腰を下ろした。
「……あの、そろそろ腕を」
女性はりんご飴を両手に持ったまま、器用にも俺の腕に、両腕を絡ませていたのだ。
「ああ、そうだね」と言って、女性は俺の右腕から離れた。それでもまだ女性に触れられている感じがして、妙に名残惜しく感じられた。
静かになった。向こうでは夏祭りがやっていて、少し離れただけでは騒がしいはずなのだが、それでも俺と女性の間には静けさが広がっていた。
「その仮面、似合わないですね」
何から言えばいいか分からなくて、そもそも言うべきことなんてあるのかさえ分からなくて、とりあえず女性を見て思ったことを口にした。女性が斜めに掛けている狐の仮面だ。
「まあ、そうだろうね。私は狐じゃなくて猫だから」
こちらを真っ直ぐに見つめつつ、女性は意味不明なことを口にした。
「あなたって結構、意味わからないこと言いますよね」
「私は結構、意味わからないことが好きなんだよ」
「変わってますよね、あなた」
「落ち着いた?」
「はい。多少は」
女性と軽口を叩き合っているうちに、少し心に余裕が持ててきた。
視界が開け、街の風景が目に映る。
太鼓の音がまた、ほんのりと聞こえてくる。
女性が持ってるりんご飴の甘い匂いを感じ取ったのか、何故かお腹が鳴った。
女性はくすりと笑って、りんご飴の片方を差し出してくる。
俺はそれを受け取って、噛り付いた。ものすごく、甘かった。
「甘いですね」
「そりゃ、りんご飴だからね」女性は苦笑した。
「……さっきは、ありがとうございました」
俺は身体を女性の方に向けて、言った。りんご飴の飴が潤滑油になったかのように、すらすらと言葉が出てきた。
「さっきの二人が振られた彼女と、喧嘩した同じ部活の友達だよね。少し前に言ってた」
彼女には、わかってしまうだろうと思っていた。
「そうです。……ダサいところ、見せてしまいましたね」
女性は俺の弱音に関しては特に何も言わず、気遣うようにこちらを覗き込んできた。
「君は、あの二人をみてどう思ったの?」
あの二人を見て。一つ分かるのは、嫉妬ではないという事だ。この夏の出来事で、前の彼女への未練なんて吹き飛ばされてしまったから。
じゃあ、あの気持ちは何だったのか。頭の中がぐちゃぐちゃだったけど、息を吸って吐くと、自然と言葉が出てきた。
「怖かったです。自分が失った大事な人同士が、仲良くなってて。自分だけ取り残されたみたいに感じて。もう、あいつらなんか他人だと思いたかったんですけどね」
徐々に、声が弱くなって、最後の方はほとんど掠れてしまった。
ふと、ベンチの上に置いた手が少しだけ暖かくなった。見ると、女性の手が重ねられていた。
「君は、どうしたいの?」
女性が、優しく微笑みかけてくる。さっきの甘えるような笑顔では無くて、今回は包み込んでくれるような笑顔だった。
「俺は……。もう一度、あいつらと友達になりたいです」
「じゃあ。……行ってこいっ!」
背中にものすごい痛みが走って、「いたっ」という声が漏れるとともに、曲がっていた背筋が伸びた。女性が、薄着な俺の背中を叩いたのだ。俺が痛みに悶えている一方、女性はにひひと口角を上げていた。
「痛がってる場合じゃないよ。今行ったら、多分間に合う」
女性は腕を引っ張り上げて、俺を立ち上がらせた。
「でも、今日はあなたと」
「私のことはいいの。ほら、りんご飴は持っといてあげるから」
女性は俺からりんご飴を奪い、俺の背中を押す。
確かに、今行けば何とか見つけられるかもしれない。そう思って、俺は女性に押された勢いのままに、砂の地面を蹴った。
広場を出る手前で、俺は一度振り返る。女性は、こちらに向かって手を振ってくれていた。
「すぐに戻ってきますから! 待っててください!」
全力でそう叫び、また全開で走り出した。
女性が何か言った気がしたが、祭りの喧騒に溶け込んで、よく聞こえなかった。
走った。
祭りで賑わう大勢の人の隙間を縫って、俺は走った。誰かと肩がぶつかっても、誰かのこぼした文句が聞こえても、脚を止めなかった。
確かに、あの二人に会うのは怖いし、話すのはもっと怖い。でも、さっきの女性の言葉が、笑顔が、俺を前へと進ませてくれる。
あの人さまさまだな、と内心苦笑しつつ、俺は夏休みの終わりを全力で駆けた。
ただ、必死に脚を回しながらも、俺の頭からは彼女が最後に発した声が離れてくれなかった。
「行っちゃったな……」
広場を駆け出してゆく彼の背中を見送りつつ、
私は呟いた。その声は、夏祭りの喧騒ですぐに掻き消された。
それで、いいのだ。彼に聞こえてしまっては困る。
彼は今、「すべき」でもなく「できる」でもなく、「したい」と言えたのだ。
この間彼がペンダントを買ってくれた店で話したときから、彼は一歩前進した。そんな彼の邪魔はしたくない。
私は、何となく口が寂しくなって、手に持っていたりんご飴を舐めた。彼の言っていた通り、ものすごく甘かった。
私はりんご飴を舐めつつ、広場の端へと向かった。そこからは、赤茶けた柵を挟んで街の姿を一望できる。
暗くても目につくのは、この夏に彼と出かけたところばかりだ。私たちはこの街のほとんどを制覇してしまったのかもしれない。
私は、柵に脚をかけた。そのまま、身体を持ち上げてその上に乗る。柵は縦幅が狭くて、足がはみ出た。
空を見る。いくつもの星が、ダンスでも踊るかのように瞬いている。
綺麗だな。プラネタリウムとか行きたかったな。
そう思っていたら何故だか知らないけど、涙が出て来た。
最初からこうするって決めていたはずなのに。
りんご飴を二つとも食べ切って、残った串を試しに下に落としてみる。それは、数十メートル落ちた後、夜の森へと姿を消した。
私は涙を手で拭ってから、腕を広げ、飛び降りるべく前に重心を傾けた。
彼が、もう一度大事な人を取り戻せますように。
そう、願いながら。
「何してんだよ!」
俺は叫びながら、細い柵から身を投げようとするワンピースめがけて地面を蹴った。
彼女は、こちらに気づいたようでばさりと振り向き、そのまま脚を滑らせた。
振り向いた彼女と、一瞬目が合う。「どうして君が」と、その目が言っていた。
彼女は、こちらに向かって手を伸ばす。俺はスニーカーの底が擦り切れるくらい踏み切って、彼女の手を掴むべく跳んだ。
限界まで伸ばした手は彼女の白い手を、掴んだ。
瞬間、背中を反らせて思い切り彼女を引っ張り上げた。
ただのスニーカーでは上手く砂に引っかからず、後ろ向きに転んでしまう。
後頭部を地面に打ち付ける。直後、視界が純白で覆われた。
結果的に、俺は飛び降りようとしていた彼女を引き上げることに成功した。
後頭部を強打した上、女性の下敷きになったが、そんなことはどうでもいい。
俺たちは何も言わず、もう一度ベンチに腰掛けていた。
女性はたまにこちらに視線を向けて、言い淀むように口をパクパクとさせるが、俺と目が合うと視線を逸らしてしまう。
そんな女性の目元には涙が流れた跡があって、見るたびに心がざわついた。
「どうしてあなたは」
「どうして君は」
そろそろ話そうかと、沈黙を破ってみたタイミングがちょうど重なってしまった。お互い顔を見合わせて、少し、笑みがこぼれた。
先に話すよう手で促すと、女性は口を開いた。
「じゃあ、まず私から。どうして君は、戻ってきたんだい?」
「……あなたのおかげで、もう俺はあの二人と向き合う決心が出来ました。それなら、あなたとの夏祭りを大切にしたいと思いました。それに」
俺はそこで一旦言葉を切った。深く晩夏の夜の空気を吸い込んで、吐き出す。女性は、その間も目を合わせ続けてくれていた。
怖い。
自分の気持ちを伝えるのは、怖い。
でも、俺に寄り添ってくれるような女性の視線をみて、決心がついた。
「それに、一つあなたにどうしても伝えたいことがありました。いつからかなんて分からないし、何でと聞かれても困ります。……でも、俺はあなたのことが好きです」
今まで堰き止めていた気持ちが、豪雨の日の河川みたいに氾濫した。
ずっと合わせてくれていた女性の目が、柔らかく細められた。
雫が一粒だけ溢れて、もともとあった涙の跡をなぞった。
「ありがとう……。うん、嬉しいよ。とっても」
女性は胸に手を当て、噛みしめるようにそう言った。そして、「でもね」と続けた。
「私、今日で消えるんだ。この世界から」
女性は、悲痛そうに顔を歪めて、でも涙は流さずに言った。
多分、俺の顔はそれ以上に酷いことになっている。心の奥の奥が、ずきずきと痛む。
何となく、予感はしていた。ふらりと現れた彼女は、ふらりと消えてしまうんじゃないかと。
それでも、辛いものは辛かった。
「ちょっとだけ、目を瞑ってて」
女性はそう言って、ベンチから腰を上げて俺の正面に立った。
俺が呆然としていると、「ほら、はやく」と女性が言うので、両手で目を覆った。
数十秒間、そのままの状態が続いたが女性は何も言わない。
「もう、いいですか」と言うと、右脚に何かが触れて、俺は手を下ろし目を見開いた。
周囲には、誰もいなくなっていた。
代わりに、真っ白い猫が俺の足元に座っているだけだ。
俺は慌てて立ち上がろうとたが、その猫の首にある物を見つけて、動きを止めた。
真っ白い毛に覆われながらも、微細な光を反射して光る若葉色。
明らかに俺が女性にプレゼントしたペンダントだ。俺は少し考えて、ある仮説に至った。……でも、そんなことがあり得るのだろうか。
俺が混乱していると、その猫はべしべしとすねに猫パンチを喰らわせてきた。
何となく、目を瞑るように言われている気がして、俺は手で目を覆った。
「もう、開けていいよ」
今度は女性の声がした。目を開けると、ちょうど猫がいたところに、ワンピース姿の彼女が立っていた。
「あなたは……」
「私、実は猫なんだ」
女性はどこか恥ずかしそうに笑いながら、そう言った。
「……そう、みたいですね」
数秒間のフリーズのあと、何とか声を絞り出した。
「あとね、私、実は未来からきたんだよ」
そこから、女性の秘密告白ショーが始まった。
女性は、今まで隠してきたことを教えてくれた。
未来の今日、俺が車に轢かれそうになっていた彼女(猫)を助けたこと。
そのときに、俺が車にはねられて命を落としたこと。
彼女(猫)が罪の意識を感じ、どうにか俺を助けられないかと考えていたところ、気づけばタイムスリップして、人の姿になって緑のフェンスの前に立ち尽くしていたこと。
散歩という名目で、夏休みの間俺を見守ってくれていたこと。
「……だからね、私は今日の昼頃には消えるはずだったんだよ」
未来ではちょうど昼頃に、俺が彼女を助けたということか。
女性は少し声をうわずらせながらも、へらりと笑みながら続けた。
「でもさ、消えなかったんだ。本当は君に気づかれないよう、忘れてもらえるよう、静かにいなくなろうと思ってたのに。……それ、それじゃあさ、急にさ」
女性の声が、揺れた。女性は感情を押し殺すように目を伏せて、桃色の唇に歯を立てる。
今度は俺の番だ、そう思った。
彼女の感情の蓋を開けてあげなければいけない。だから、俺は彼女の震える手を包み込んだ。
すると、彼女は伏せていた顔を上げてくれた。その瞳からは、数滴の雫が流れ落ちてきていた。
「……君と夏祭り、行きたくなっちゃったんだよ」
崩壊。
彼女は感情のダムが壊れたように、涙を流し、嗚咽を漏らし始めた。
俺はそんな彼女の身体を、そっと抱き寄せた。
如何なるものからも守れるように強く、壊れてしまわぬように優しく、抱きしめる。
胸の中で泣き続ける女性の頭を不器用なりに撫でつつ、俺は語りかけた。自分まで泣いてしまわぬように声を張りながら。
「もし、あなたが本当に消えてしまうのなら、俺から隠れて勝手に消えようなんて思わないで下さい。俺は、絶対にあなたのことを忘れたくないし、まず忘れません。それは、安心してください」
下の方から、「うん」と掠れた声が聞こえてきた。その声が可愛らしくて、もう一度頭を撫でると、女性はくすぐったそうに身をよじった。
女性が落ち着いた時にはすでに、浴衣姿の人達の数はかなり少なくなっていた。
「帰ろうか」どちらからともなくそう言って、広くなった屋台のある道を下っている。
女性はかなり調子を取り戻したようだったが、ひどい顔を見られたくないと言って、俺の半歩後ろを歩いた。
それでも、触れ合った手と手が、俺たち二人を繋いでいた。
不意に、腕を後ろに引っ張られた。彼女が立ち止まったのだ。
「これ、食べようよ」女性の視線の先には、綿あめ屋があった。穏やかな顔の、腰の曲がったおばさんが店主のようで、もう片付けを始めようとしている。
しかし、まだ今なら間に合いそうだ。
「いいですね、綿あめ。あ、イチゴ味もあるみたいですよ」
「お、ほんとだ。やった!」
無邪気に目を輝かせる女性を尻目に、名案を思いついた俺は、一人でおばさんの元へ向かい、イチゴ味の綿あめを一つ買った。
そのまま訝しげな表情の女性の元に戻り、綿あめを差し出した。
「これ、どうぞ。俺の奢りですよ」もちろん、嫌味に口角を上げたドヤ顔も添えて。
そんな俺を見て、女性は吹き出した。
「ははは、酷い顔だね。ぐちゃぐちゃだ」
それだけ言って女性も同じように綿あめを買い、戻ってきた。
「これ、あげるよ。私の奢りだよ」女性は得意げに口角を上げたドヤ顔を返してきた。
そんな女性の顔を見て、俺も吹き出してしまった。
大きな目は腫れて、張りのある頰も泣くのを我慢するせいで震えている。
こんなにもひどくて、こんなにも美しい顔を見たのは、生まれて初めてだった。
それから二人、顔を見合わせて馬鹿みたいに笑った。
笑って笑って笑い疲れて、本当にもう、涙が止まらなかった。
「行こうか」
思う存分笑い転げた後、そう言って坂を下りだした女性の隣に並ぶ。
左手には女性の奢りの綿あめ。右手には大好きな女性の手。
この夏の終わりは、きっと一生、忘れられない。
その夜、女性は俺の部屋に泊まった。
女性の要望で、同じベッドで夜を明かすことになった。
二人で布団を共有しながら、くだらない話も真剣な話も全部、噛みしめるように話した。
だんだんと話し疲れてきた俺は、瞼を押さえて何とか起きようと奮闘したが、気づけば視界は蓋をされていた。
沈みゆく意識の中、ほんのりと感じた唇の温かみが、頭から離れなかった。
「私も好きだよ」そんな言葉が、聞こえた気がした。
朝起きると、ベッドの上には俺一人だけだった。
空を見る。
一人じゃどうしようもないくらい辛くなって、泣きそうになるとき、俺は空を見る。
別に、空から人が降ってくるのを待ち望んでいる訳じゃない。
空を見て、ワンピースみたいな純白の雲を探すのだ。猫の形をした雲を。
その雲は、あの人が好きなわたがしみたいな雲で、上空二千メートルくらいに浮かんでいるだろう。
見つけたなら、もう大丈夫。
自然と、口角が釣り上がるから。
夏に降る @rokunanaroku
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