夏に降る
@rokunanaroku
第1話
「暑いな……」
下校路を一人歩きつつ、俺はそう愚痴をこぼした。制服のシャツがべったりと背中に引っ付いていて、気持ち悪い。
どこにいるかもわからないセミ達の大合唱に、舌打ちの一つでもしてやりたくなる。
それら以外にも、もうどうしようもない問題を二つほど抱えている俺は、これから夏休みを迎える高校生だとは到底思えない顰め面を貼り付けながら、灼熱のアスファルトの上を歩いていた。
「ねえ」
突然、空から声が降ってきて、俺は反射的に顔を上向けた。
俺の右手にある、緑色のフェンスの上。ワンピース姿の女性が、フェンスにお尻を乗せて座っていた。
「そう、君だよ。死にそうな顔をしている学生」
どうやら、俺に話しかけているらしい。
今、この通りにいるのは俺と女性だけ。加えて、この時期に死にそうな顔をしている学生は俺くらいだろうから、そう判断して問題ないはずだ。
だからと言って何を返すでもなく、ただ女性の方を見つめていると、「よっ」と言って、女性がフェンスを飛び降りた。
純白のワンピースの裾と、絹みたいな黒髪が、涼しくたなびく。空の青をバックにしたその姿は絵画を切り取ったみたいに幻想的で、少し時間が引き延ばされた気さえした。
見つめている間にも、女性の真っ白なスニーカーは灰色のアスファルトへと距離を詰めていき、音もたてずに着地した。
体操競技なら満点を貰えそうなほど、綺麗な着地だった。体操のルールとか全く知らないけど。
「君が、
女性が着地位置から一歩前に乗り出しつつ問うてきた。
近くで見ると、かなりの美人だ。艶やかな黒い長髪はもちろんのこと、日焼け知らずの真っ白い肌、切れ長の双眸、形の整った鼻梁。どれを取っても、美人にあたると思う。
俺はそんな女性から一歩退きつつ、「はあ、そうですけど」と答えた。
「はは、面白い洒落だね」
「……別に、そんなつもりで言ったんじゃ」
「うんうん。そうだよね。……そういえばさ、今って暇?」
かなりフランクに接してくる女性から、一瞬目を逸らして、考える。
女性は今、俺のことを誘っているような言い方をした。それも、そこそこ親しい友人に対するもののような。
しかし、俺の通ってる高校にこんな目を引く美人がいた記憶はない。
すると、キャッチセールスか何かか。あまりにも胡散臭い「そういえばさ」が引っかかる。
俺はちらりと周囲を見回してみる。
カラフルな色合いかつ、シンプルな作りの都会と田舎の中間くらいの家々が立ち並んでいる。
ここから目に入る限りでは、特に変わったことはない、いつもの下校路。怖そうな男の人達がいるようには見えない。
「わかりにくかったかな? 具体的には、これから私と散歩して欲しいんだけど」
俺が答えあぐねていることにしびれを切らしたのか、女性はそう付け足した。
「散歩……ですか」
「そう、散歩。この街をぐるぐる歩きまわるんだ。これからって言うのはこの夏休みの間毎日っていうことね。どう、楽しそうじゃない?」
女性は自信ありげに口角を上げてみせた。
今の話で、俺がついてくると思っているのだろうか。
「別に、楽しそうではないですね。暑いだけでしょう。しかも、毎日なんて嫌ですよ」
「うーん、そうかなぁ。楽しそうだと思ったんだけど」
「それでは」と横を素通りしようと思った俺の腕は、しかし女性に掴まれた。
部活でそれなりに鍛えたはずの筋力でどれだけ引っ張っても、ピクリとも動かない。俺より明らかに細い腕のどこに、そんな力があるのか不思議だった。
「ダメだよ、行っちゃ。……それじゃ、意味がないんだ」
意味がないとはどういうことか、聞こうと思って女性の顔を見る。そして、俺は開きかけた口を閉ざした。
眉を寄せた女性の表情は、真剣を通り越して、どこか必死なように見えた。
何故だろう。理性じゃない心の奥の方が、この女性の言う通りにするべきだと言っていた。
「……わかりました。散歩しますよ、あなたと」
そして、気づけば俺の口からはそんな言葉が漏れていた。
「え、ほんと?」
女性は意外そうに目を丸くする。俺が頷くと、今度は俺を捕まえていた手を離して、ぐっとガッツポーズを作った。
「やった!」
ぱっと花が咲いたような笑顔が、夏の空に浮かぶ太陽みたいに眩しい。
大人びた印象の女性が見せたその無邪気さに、意識を吸われそうになって俺はさりげなく目をそらす。
移した視線の先には、電柱にくっついてせわしなく鳴くセミがいて、何となく今年はせわしない夏になりそうだな、と思った。
まあ、いいだろう。今年の夏、俺に予定が入ることは恐らくないのだから。
「……意味わかんないんですけど」
「あ、もう一度言うよ。き、み、は」
「いや、聞こえなかった訳じゃないです」
先程のセリフを復唱しようとする女性を、俺は手で制した。
女性がさっき言った内容を理解するため、頭を落ち着けつつ、レトロモダンな雰囲気の店内に目をやる。
ここは、駅前の喫茶店だ。
五十代半ばの男性と、その娘が経営している小さな喫茶店。
俺はここの落ち着いた雰囲気と料理の上手さを気に入って、結構な頻度で足を運んでいる。
今日は終業式で学校の拘束時間が午前中だけだったので、ひとまず腹ごしらえにきたのだ。
さて、そろそろいいだろう。
俺は一呼吸おいてから、正面に座る女性に問いかけた。
「本当なんですか。……俺が、夏休みの最後に死ぬというのは」
「本当だよ」
俺の真剣さとは裏腹に、女性からは軽い返事が返ってくる。続けて質問しようとしたところで、娘の従業員が料理を運んできた。
俺と女性は同じナポリタンを注文した。
小さく刻まれたソーセージや輪切りのピーマン、玉ねぎなどが入った、どこか懐かしさを感じるナポリタン。
こういうのは、多分喫茶店という雰囲気の中で食べるからこそ、美味しさが何倍にも膨れ上がるのだと思う。
二人揃って手を合わせてナポリタンを食べ始めてから、女性の方が話し始めた。
「君が死ぬのが、確実に夏休みの最後だと決まった訳ではないんだ。ただ、その可能性が高いっていうだけ」
女性はフォークでパスタを小さな口に運び、咀嚼して飲み込んだ。
「でも、夏休みのどこかで君が死ぬというのは確実だよ。だけど、一つだけ死を逃れる方法がある。それが、私と毎日散歩することなんだ」
女性はまたパスタを口に運び、幸せそうに口元を緩ませた。
「って、このナポリタンおいしいね」
「人の死の話をしながらナポリタンを味わうのはやめてください」
人の命をなんだと思っているのか。
俺のツッコミを女性は「まあまあ」と受け流した。
「で、こんなおいしいナポリタンの作り方の話だっけ? ……って、ごめんごめん冗談だって」
俺が無言で腰を上げ、リュックを手に取ったところで、女性は慌てたようにテーブルから身を乗り出した。
俺はわざとらしくため息をつきつつ、どしんと腰を下ろした。
冷たい水を一口飲んでから、一つ気になっていたことを女性に問う。
「俺が夏休みのどこかで死ぬことはわかりました。そして、死なないためには、あなたと散歩する必要があることも。それで、一つ質問なんですけど、なんであなたがそれを知ってるんですか?」
当然の疑問だろう。
これから先に起こるはずの俺の死を、なぜこの女性は知っているのか。それは、この情報の信憑性にも関わる話だ。
その質問を聞いた女性は、フォークを置き、考えるように顎に手を当てた。
何となく、俺もパスタを絡める手を止める。
沈黙が続き、皿が擦れる音や、店員の足音が耳に入ってくる。
待つこと数十秒。女性は重たそうに口を開いた。
「悪いけど、今はその質問に答えることは出来ないな」
「なぜですか」
「……君はさ、君にとって全く関係のない人や、動物が死んだらどう思う?」
女性は突然、意図の掴めない問いを投げかけてきた。
とりあえず適当に答えることも出来るけれど、女性の目を見ると、何となくそれはためらわれた。
女性の真剣な眼差しは、少なくとも話を逸らしたいだけには見えなかったからだ。
「俺は……特になんとも思わないでしょうね。全く無関係な人なら、俺に影響はないですし」
「違うよ」
今の正直な気持ちをのせた答えを、女性はきっぱりと否定した。
「君は、死んだということを知って心を痛めるんだ。私にはわかる」
女性のはっきりとした物言いは、俺よりも俺の気持ちに確信を持っているようだった。
「だから、さっきの質問には答えられないんだ。ごめんね」
それだけ言うと、女性はまたナポリタンを頬張り始めた。仕方なく、俺も食事を再開した。
食べ終えた後、俺が彼女の分まで奢らされ、今日のところは解散となった。
自室に入る。二十六度のちょうどいい涼しさが、俺を迎えてくれる。
その幸福感のままに、俺は即座に勉強机に向き合った。しかし、何とか学習をスタートさせるべくシャーペンと夏の課題を出したところで、突然睡魔が襲ってくる。
女性と別れた直後なので、まだ五時を過ぎたばかりのはずなのに。ここ最近、こんなことばかりだ。
よし、課題は明日からやろう。うん、絶対やる。明日の俺が。
何度目かわからない言い訳を脳内で呟きつつ、俺は机を離れ、ベッドに飛び込んだ。
今日は、九回目の散歩の日だった。
電車で二駅ほどいったところにある、山に登った。標高はそんなに高くないが主に暑さに疲れた後に、山頂で胃を満たしてくれたカレーとサイダーは格別だった。今日判明したのだが、女性はいちごが好きらしい。
マットレスに身体を埋めたまま、俺はポケットに入れたスマホを手に取った。
最近撮った写真をスクロールしていく。
川に入って、女性がこちらにピースサインを向けている写真。女性と魚を素手で掴む勝負をして、俺が惨敗したときのものだ。
猫カフェで、女性が猫に埋もれている写真。女性はなぜか猫に好かれやすくて、俺のところには一匹も来てくれなかったのだ。
一枚の写真を見ただけで、静止画が映像になって動き出すように、そのときの光景を思い出せる。
それくらい、不思議と心に残る体験ばかりだった。
「……明日は何をするのかな」
図らずも漏れたその言葉に、少し遅れて気づいた俺は、一人苦笑を漏らした。
「今日はボーリング場にいこうよ」
緑のフェンス前で集合してすぐ、女性はそう声を弾ませた。
今日は天候が不安定らしいから、屋内で楽しめるという点ではいいだろう。
「確か駅前にあったはずなので、それは賛成なんですけどね。……あなた、お金どうするつもりですか」
問うと、女性は大袈裟にびくりと身体を震わせた。
「……それは、また君に奢って貰えばいいかなー、なんて。ははは」
「ははは、じゃないですよ……」
俺がつっこむと、女性はわざとらしい笑みを浮かべた。
「なーんてね。私にはこれがあるんだよ!」
女性は芝居掛かった動作で、ワンピースのポケットから大きい革財布を取り出した。金持ちの大人が使っていそうな財布だ。
「……そんなもの、どこで盗んだんですか」
「盗んだんじゃなくて拾ったんだよ!」
女性に強烈なデコピンを食らって、思わず「いたっ」と声が漏れた。
結局、女性は拾った財布を使うことになった。
そして、今は駅前のボーリング場にいる。ここは他のスポーツも楽しめ、ゲームセンターまでも併設されており、一日中遊べるのが魅力だ。
ポップな音楽が流れた賑やかな雰囲気の中、俺は十本の白を前に、文字通り手に汗を握っていた。
俺たちは今、ボウリングのスコア対決をしている。
ここでストライクを取れば勝ち、取れなければ負けが決まる。
ちらりと後ろを振り返ると、優雅に足を組みながらいちごミルクを飲んでいる女性が目に入った。
こちらに気付くと、嫌味ったらしく笑みながら手を振ってきた。
見てろよ、と内心燃えつつ手を振り返す。
一旦、呼吸を整える。
そして、いつかテレビで見たプロのカーブボールのフォームを思い出しつつ、ボールを投げた。
俺の手を離れたボールは、想像通りの軌道をなぞり始める。
そして、そして……。
回転不足のボールは、ガターに沿って奥の暗闇へと一直線に向かっていった。
女性が漏らす笑い声が、敗者である俺の背中に突き刺さった。
「まあまあ、元気出しなって」
ボーリングスペースから抜けたところにあるベンチで項垂れている俺の頭上で、声がする。
上を向くと、コーラといちごミルクを持って、やけに嫌味に口角を上げた女性が立っていた。
どこに行ったかと思えば、飲み物を買いに行っていたらしい。
差し出されたコーラを礼を言って受け取り、女性が座れるよう少し横にずれた。
それから、財布を取り出そうとしたところ、隣に腰を下ろした女性に手で制された。
「いいよ。一度私も、奢ってあげてドヤ顔するやつをやってみたかったんだ」
私「も」と言ったか、この人。
「俺はドヤ顔なんてしてませんよ」
「してたよ」
「してません」
「してたんだなー、それが。……そうだ、そんなことより、罰ゲームの約束、覚えてないとは言わせないよ?」
女性は至極楽しそうに笑みながら、詰め寄ってきた。
俺たちは、勝負で負けたら「どんなに恥ずかしいものでも、今の悩みを一つ打ち明けないといけない」という罰ゲームを用意していたのだ。
「ちゃんと覚えてますよ。でも、止まったまま聞かれ続けるのも恥ずかしいですし。帰るときでもいいですか」
「じゃあ、そろそろ帰ろうか」
よいしょ、と言って女性は腰を上げた。
この施設の受付の時計に目をやる。まだ、短針は十一と十二の間を指していた。
「え、でもまだ昼前ですよ」
「ごめんね、今日はちょっと眠いんだよ。雨も降ってるし」
女性は一つ欠伸を漏らした。
雨と眠さに関係があるのかは疑問だが、女性の細められた目は確かに眠たそうに見える。
「帰りましょうか」
俺たちはごみを捨て、受付で支払いを済ませてから、やかましい音楽の流れた店内を抜け、屋外に出た。
外では、女性の言う通り静かな雨が降っていた。
こうやって急に音の少ない場所に出ると、さっきまでの喧騒が夢の中の話のように感じられる。
突然仕事を失った耳が空回りしているようで、変な感覚だ。
俺が折り畳み傘を開くと、女性が右に並んできた。彼女は、舌を出していたずらっぽく微笑んだ。
「傘、忘れちゃったんだ」
「そんなに大きくないから、多分濡れますよ」
「これくらいの雨なら、大丈夫だよ」
「夏の雨を舐めていたら痛い目をみますよ」
ゲリラ豪雨というやつだ。
「確かに。私、今すごい眠いし」
「どんだけ眠いんですか、あなた」
冗談を笑い飛ばしてから、雨の中を女性と並んで歩き出した。
一応、最大限傘を女性の方に傾けておく。
こちらは身体半分濡れてしまうが、女性に風邪を引かせるよりかはいい。
ずっと変わらない雨音に耳を澄ましていると、突然女性がこちらを覗き込んできた。
「雨音って不思議じゃない?」
あまりピンと来なくて、とりあえず「なぜですか」と返しておく。
「だってさ、ただ水滴を地面に垂らしただけじゃ、こんな風な音はしないんだよ。だから、どれだけ高い雲から落としたら、水滴とアスファルトが音を鳴らすのかなって」
言われてみれば、確かにそうだ。
「気になりますね」
「ちなみに、積乱雲は地上付近から一万三千メートルくらいの分厚さがあるし、私の好きな積雲は、地上付近から二千メートルくらいに現れるよ。あ、積雲っていうのは、綿菓子みたいな雲のことね」
至近距離で、すさまじく得意げなドヤ顔を見せられた。
「……言いたかっただけですか」
「その通り、この間本で読んだんだよ」
女性はまだ嬉しそうに緩んだ顔を向けてくる。
その時だった。
突然、手に持った傘が重みを増した。傘からはみ出た部分に、大量の雨粒が降り注ぐ。
さっきまでの静けさが嘘のような、重い雨音が響く。
ゲリラ豪雨だ。
俺たちはちょうど近くにあった店に駆け込んだ。
「すごい雨だったね」
女性の言葉に「そうですね」と返しつつ、俺は慌てて避難した、店内を見回した。
何というか、不思議な空間だ。
暗闇にろうそくを灯したみたいな弱い照明に、店内を流れる何語かもわからない音楽。少し埃っぽいのに、どこか甘い匂い。
部屋におく小物や衣服、ブラウン管のテレビ、航海図のようなものが、古い棚に陳列されている。どこを見ても何のお店か全くわからない。
「何というか、すごいお店だね。……ほらあそこの人形なんか、本物の人間みたいじゃない?」
女性が指差す店の奥に目を向けると、確かにレジらしきところに、全く動かない白髪の人形があった。
いや、本当に人形か? 居眠りしているおばさんの可能性もあるけど……。まあ、どっちでもいいか。
俺は天井近くの壁についた窓に視線を移した。まだ、このゲリラ豪雨は止む気配がない。
「ねえ、ここで罰ゲームやってよ。当分ここにいなきゃいけなさそうだし」
もともと止まったままが嫌だと言っていた訳だけど、こんな雨では動きたくとも動けない。
そう判断した俺は、女性と並んで壁際の変な形をした椅子に腰かけた。
そして、罰ゲームを始めた。
「……俺は、夏休みが始まる日、あなたと出会った日に大事な人を二人も失ったんですよ」
雨音は不思議だ。
ずっと変わらない雨音を聴きながらだと、もっと打ち明けるのに抵抗があると思ってた悩みがするりと喉を通った。
隣に目をやると、女性は黙ったまま頷いた。何も言わず、聞いてくれるのが嬉しい。
「彼女に振られて、その後友達と喧嘩しちゃって。二人とも、俺のためを思ってくれてたんだって今になったらわかるんですけど。あの時はそれに気づけなくて酷いこと言っちゃったんです」
悩みは吐き出すと楽になる、というのは本当らしい。
別に何も解決した訳ではないのに、話しただけで胸がすっと軽くなるのを感じていた。
冗談のつもりだった罰ゲームが、こんな風に役立つとは思わなかった。
隣を見ると女性はどこか一点を見つめているようだった。その凛とした横顔に視線を奪われていると、彼女は唐突にこちらを向き、首を傾げた。
「君はさ、どうしたいの? その二人と」
俺の、二人に対する気持ちは。
「……わからないですね。自分が何をすべきなのか。何ができるのか」
素直に答えると、女性は少し間を置いてから優しく笑った。
「……そっか。まあ、君ならいつか見つけられるよ」
女性にそう言われると、自信しか湧いてこないから不思議だ。俺は案外単純なのかもしれない。
それからしばらくの沈黙の後、突然肩に重みがかかった。
眠った女性が肩に寄りかかってきたのだ。
耳元で聞こえる穏やかな吐息と、肌に擦れる長髪がくすぐったい。
そういえば、眠いとか言ってたな。
女性の寝顔を拝んでおこうかとも思ったが、何故か悪いことをしている気がして見れなかった。
俺も寝ようと思ったが、こんな状況で安眠出来るはずもなく、結局女性が目を覚ますのを待つことになった。
ちょうど、ようやく顔を出した太陽の光が窓から差し込んだころ、女性は目を覚ました。
まだ半分寝ぼけていた女性に先に店を出るよう言った俺は、ある商品を手に取り、レジへと向かった。
不思議な店を出てから遅めの昼食をとり、緑のフェンス前に着いたときには、もう太陽はかなり傾いていた。
俺たちは、初めて出会った場所であるここをいつも集合と解散の場所にしている。
「ちょっといいですか?」
普段通り手を振って帰ろうとした女性を、俺は呼び止めた。
訝しげな表情を浮かべて振り向いた女性に、俺は鞄から取り出した茶色い包みを差し出した。一応、ドヤ顔も添えておく。
「これ、どうぞ」
「私にくれるの?」
頷くと、女性は大事そうに受け取ってくれた。
「開けてもいい?」
「どうぞ」
女性が丁寧に袋から取り出す。ペンダントについた若葉色の宝石が顔を出した。
「わあ、綺麗……」
女性が嬉しそうにペンダントを見つめているのを目にしただけで、腹の奥底からくすぐったさが溢れ出してくる。
このペンダントはあの雨宿りをした店にあったもので、薄暗い店内でも爽やかな光を放っていた。
それで、何となく女性に似合いそうだな、と思ったのだ。
「って、これ買ったのってあの変なお店だよね。誰かいたの?」
「ああ、あなたが人形だと思ってたのが実は店主のおばさんだったんですよ」
「へえ、そんなこともあるんだね」
そう返しつつも、女性の目はペンダントに釘付けだ。
こんなにも喜んでもらえると思わなかったから嬉しい。
「どうせなら、俺がつけてあげましょうか?」
気付けばそんなことを口走っていた。
「ああ、頼んでもいい?」
そして、女性は髪をかきあげ、後ろを向く。
真っ白いうなじが露わになる。その曲線美は妙に色っぽくて、俺はすっと視線を逸らした。
無理だ、直視すらできない。
手を回すなんてこと出来るはずもない。
「やっぱり、やめておきます。自分で付けてください」
「ええ、なんで?」
「……ちょっと見れないので」
「まだ明るいのに?」
「眠いんですよ。雨も止みましたし」
「私と逆だ。……それじゃあ君はほぼずっと眠いんだね?」
この人、絶対にわざと追求してきている。
にやにやとした笑みが全てを物語っていた。
「……もう勘弁してください」
「はは、まあ今回は君がプレゼントをくれた訳だしね。本当にありがとう。大事にするよ」
今度は、嫌味ではない優しい笑みを浮かべてそう言った。
最悪な気分から始まった夏休み。
まさか、誰かの笑顔を見てこんなにも嬉しくなれるとは思ってもみなかったな。
「それでは、また明日」
女性に手を振ってから、帰路に就く。
曲がり角のところで、ふと振り返ると、女性はまだ手を振ってくれていた。
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