失恋王女、その名を返上する(1)
「――落ち着きましたか」
暖かい飲み物を飲んで、ふう、と息をついたシャルロッテにランベルトはそっと声をかけた。
用意されたのは、恐らく貴賓室なのだろう。品の良い調度品と、厚みのある絨毯。寝室は、続きの間にあるらしい。ドロテーアが采配したのだろう。趣味の良い、温かみのある部屋に仕上がっている。
今宵は、うちに泊まって欲しいとヘルベルトに懇願されて、シャルロッテとランベルトは、ハウスクネヒト家の一室にいた。もちろん、ランベルトのための部屋は隣に用意されている。
幸いなのかどうなのか、部屋に踏み込んできたのがランベルト一人だったこと、また会場から離れた部屋だったこともあって、今回の件は大ごとにはならずに済んだ。
知らせを受けて駆け付けたヘルベルトは、顔の形が変わるほど殴られた息子を見て息を飲んだが、エーミールのしでかしたことを聞くと涙ながらに謝罪をしたものだ。
また、間接的に息子に手を貸したような形になったドロテーアは、ヘルベルト以上に青くなりふらふらと倒れてしまった。
「……叔父さまたちには、悪いことをしたわ」
「申し訳ございません……」
さすがにやりすぎたという自覚があるのだろう。ランベルトが消え入りそうな声を出す。
シャルロッテは、それには首を振った。どちらかといえば、自分の軽率な行いが招いたことだ。謝罪をするべきは自分だろう、と彼女はもう一度ため息をついた。
それとなく視線を移動して、ランベルトの表情を伺う。すると、眉間にしわを寄せた彼が、じっとこちらを見ていたせいで目が合ってしまった。
「まあ……これであなたも解放されるわね。これまでありがとう。今後の事は――」
「解放、とはどういうことでしょう」
強い視線が、まっすぐにシャルロッテに向けられている。シャルロッテは、それを避けるように手元のカップに目を落とした。
「あなたが叔母さまと踊ったこともあって、完全に世間では私たち立派な恋人同士よ。もはやエーミールの妄言を信じている人は――ううん、もう覚えている人がいるかどうかも怪しいわね」
噂とは移ろいやすいものである。より面白い話が出て来れば、自然と人々は過去の噂など忘れ、新しい噂に夢中になるもの。
カップに注がれた琥珀色をじっと眺めながら、シャルロッテはなるべく淡々と聞こえるよう言葉を紡いだ。
「これで、社交シーズンに私が出なければならない夜会は終わり。最後に王宮でも開催されるけど、それはいつもどおりでいいでしょう。あとは、そうね……二ヶ月くらい我慢してもらえたら、あとは兄様にでも頼んで、別れたって噂を流してもらって……あなたには兄様付きの、護衛騎士に異動して……っ」
ぽちゃん、と琥珀の水面に一滴、水滴が落ちた。あれ、と思うまもなく、もう一滴。
「シャルロッテ様⁉︎……し、失礼します」
そろりと筋張った指が伸びて、ぎこちなくシャルロッテの目元を拭う。それを、不思議なものを見るような目で、シャルロッテは追いかけた。
これだから、これだから困る。じわ、と目から熱いものが溢れだすのが止められない。
「シャ、シャルロッテ様……⁉」
「……って、あなた、っ、こっ……恋人どころか、こ、子どもも……」
「こっ……子ども……っ⁉」
もはや嗚咽を堪えることもできず、しゃくりあげながらもシャルロッテは必死に話を続ける。しかし、それを聞いたランベルトは目を丸くした後「ああ……」と目を閉じた。
「ほ、ほら……だから、わた、し、申し訳、なくって」
ひく、としゃくりあげながらそう続けたシャルロッテを、ふわりと暖かな体温が包み込んだ。目の前いっぱいに広がった黒が、ランベルトの纏う騎士礼装の色だと気づいて、驚きの余り涙も引っ込む。
こういうことをするから、諦めきれなくなるのに。同じくらいに付き合いの長いスヴェンと比べて、ランベルトは言葉が少ない方だ。だけど、いつもこうして、シャルロッテのことを気遣っていることを態度で示してくれる。
そういうところが、好き――シャルロッテは、目を伏せた。そっと、彼の身体を押し返そうとする。が、それに逆らって、ランベルトは腕の力を強くした。
「こんな風にシャルロッテ様を悲しませるのなら、体面など気にせず、お話ししておくべきでした」
耳の傍で、ランベルトの声がする。いつもの、大人びた落ち着いた声とは少し違って、それはどこか拗ねたような感情を思わせた。
え、と短く声を上げたシャルロッテは、抵抗することも忘れてその声に聞き入る。
「――私の母が、既に亡くなっていることは、シャルロッテ様もご存知でしたよね」
シャルロッテは、こくりと頷いた。抱きしめられているから見えてはいないのだろうが、恐らくは首が動いたことを感じ取ったのだろう。ランベルトはくすぐったげに体をゆすった。
「もちろん……あれは確か、あなたが近衛隊に入った頃だったわね」
「そうですね、もう六年になりますか……」
彼が近衛隊に入ったのは、ちょうど十九歳の時。シャルロッテは当時、まだ十歳の子どもだった。
「母を亡くした父は、荒れました。毎晩のように酒を飲み、酔わないと眠れないと話していたほどです」
「お辛かったんでしょうね……」
ヘルトリング辺境伯夫妻の仲睦まじさについては、知らぬものが無いほど有名な話であった。幼心に、そんな関係を誰かと築けたら、とそんなことを考えた日もあったほどだ。
「まあ、気持ちは判らなくもありません。そこからが問題でした」
ランベルトは、そこで一旦言葉を切った。彼の纏う空気が、一瞬だけ剣呑なものになる。
「当時、ヘルトリングの邸には、母の従妹が滞在していました。母が亡くなり、父も省みない我が家を、切り盛りしてくれていたのがその従妹――イリーネ様です。母の母、つまり私にとっての祖母は既に他界しておりましたし、母には姉妹はおりませんでしたので」
「そう……素晴らしい方がいらしたのね……?」
ランベルトの語る声に、時折相槌を挟みながらも、シャルロッテは内心で首を傾げた。そもそも、どうしてこんな話になったのだろう。
はっ、と気付いて顔を上げようとしたシャルロッテの背を、ランベルトの手が宥めるように軽く叩いた。
「……違いますからね?」
「まだ何も言っていないわ」
「まあ、聞いてください。ここからは、少しお恥ずかしい話で……できれば解決するまでお話ししたくなかったのですが……」
ランベルトは苦笑して、話を続けた。
「そのイリーネ様に、こともあろうに父が手を付けまして……」
「……えっ? お、お父様って……ヘルトリング辺境伯が?」
今度こそ、勢いよくシャルロッテは顔を上げた。間近に、ランベルトの蒼い瞳を認めて、そういえば抱きしめられていたのだった、と思い出す。衝撃的な話を聞かされて、一瞬頭から飛んでいた。
「まあ、お察しいただけたかと思いますが――王都で私が足繁く通っているのが、そのイリーネ様の邸です。父は、何度も彼女に婚姻を申し込んでいるのですが、受けていただけず……子どももいるというのに……」
ため息をついて、ランベルトはシャルロッテの肩に額を寄せた。その仕草が、少しだけ可愛らしく見える。まるで甘えているみたい、とシャルロッテはその頭を撫でてやった。はあ、ともう一度ため息をついて、ランベルトはされるがままにその手を受け入れた。
「――父は、別に責任感だけで婚姻を申し込んだのではないと言います。最初こそ、まあ、その……間違い、に近かったと言いますか……」
年若い王女に聞かせるような話でもない、と気が付いたのだろう。すこしくぐもったランベルトの声が、言いよどむ。
「その、まあ……なんといいましょうか、献身的に尽くしてくれる彼女に、好意を持ったと言いますか……。ああ、親のこんな話、俺だって聞きたくなかった……」
「なるほど……それでランベルトが間を取り持っていたわけね」
「まあ、そういうことです。父は役職上、向こうを離れるのは難しいですしね。……この件が片付かないと、俺は……」
最後は、尻すぼみにごにょごにょと呟いている。しかし、シャルロッテの耳には既にそれは届いていなかった。
「と、いうことは――えっ? つまり、彼女はランベルトの恋人じゃない、ということなの?」
肩口に顔を埋めたままのランベルトが、かすかに頷く。シャルロッテは、目を瞬かせた。
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