失恋王女、その名を返上する(2)
「ねえ、シャルロッテ様……」
顔を上げたランベルトがシャルロッテの若草色の瞳を覗き込んだ。彼の澄んだ蒼い瞳に見つめられて、心が震える。頭が動いた拍子にふと匂ったのが、あの時の香り――ランベルトの上着に包まれたときのあの香りと同じだと気が付いて、シャルロッテの心臓がどきんと大きな音を立てた。
「あの日、おっしゃってくださったこと――あれを、忘れたことなどありません」
ランベルトが言うのは、グレッツナー公爵家でのあの告白の事だろう。気恥ずかしさに、思わず俯いたシャルロッテの顔を、ランベルトの手が優しく撫でる。そっと顎にかかったその手が、さほど強くもない力で彼女の顔を上げさせた。
「あれは、芝居ではなく本心からそう言ってくれた――そうでしょう? それがどれだけ嬉しかったか、きっとシャルロッテ様でもお分かりにならない」
口角を上げた彼の顔が、ゆっくりとシャルロッテに近づいてくる。愛おしむように、二、三度鼻と鼻を触れ合わせると、ランベルトはくすりと笑った。
そうして、肩をすくめると、彼は秘密を告白するように少し声を潜めて囁いた。
「本当は、父とイリーネ様の件が片付くまでは、恋人役のままでいよう、と思っていたんです。俺がそうしてお傍に居る間は、誰もあなたに近づけないから」
一旦言葉を切って、ランベルトはシャルロッテの髪に触れた。大切なものを扱うように、そっと触れられて、その心地よさにうっとりと身を任せる。
「だから、それまで以上にイリーネ様に父とのことを考えてくれるよう、熱心にお願いしに行っていました。もちろん、スヴェンも、リヒャルト殿下もこのことはご存知です」
「でも、イリーネ様はそれをお望みじゃないのでしょう……?」
シャルロッテの言葉に、ランベルトは首を振った。確信がある、と言いたげなその表情に、彼女は再び疑問を口にする。
「え? だって、ずっとお断りになってらしたって……」
「イリーネ様の断り文句はいつも『母に申し訳ない』です。当時、イリーネ様は二十歳をむかえたばかり。その年齢の女性が、結婚もせず独身でいたのは――」
ランベルトはそこで再び言葉を切ると、少し迷ったように目を伏せた。
「……イリーネ様は、以前から父の事を好きだったんです。だから、結婚もせず、母が亡くなって父が荒れると、黙って見ていることができなかった。これは、ご本人から聞かされましたので、間違いないことだと思います」
ただ、とランベルトは苦い表情で後を続けた。
「母は、年の離れた従妹であるイリーネ様を、大変可愛がっていました。そんな母が亡くなって、その後につけ込むようにして結婚をするのは申し訳ないと……」
そこで、ランベルトは黙り込んでしまった。シャルロッテは、そんな彼の頭に手を伸ばすと、その髪を優しく撫でる。
父と、母と、それからイリーネ……そして、子どもの事。あれから五年、ずっと心を砕いてきたのだろう。その心情を思うと、シャルロッテの胸は切なさであふれた。
ランベルトが、少し甘えるように髪を撫でる手に頭を擦り付けてくる。いたわるように、シャルロッテは彼の気の済むまでそうしていた。
ふと視線を向けると、窓の外には丸い月が浮かんでいる。満月だ。道理で、夜にもかかわらず外が明るいような気がしていた。
そんなことをぼんやりと考えていると、しばしの沈黙の後、ランベルトが再び口を開く。
「……まあ、それでも、あれからもう五年経ちました。変わらずに父が求婚を続けていること、それに、子どものこともあります。そう遠くないうちに、頷いてもらえる――そう思って」
「ええ……」
すこししんみりとした気分になって、シャルロッテは目を潤ませた。しかし、ランベルトはそうではなかったらしい。がば、と顔を上げた彼の顔は、どこか吹っ切れたような笑みを浮かべていた。
「これで、私の隠し事はほとんどシャルロッテ様の知るところとなりました」
「ほ、ほとんど……」
シャルロッテは目を瞬かせた。これで「ほとんど」とは、随分隠し事の少ない男である。
戸惑うシャルロッテに構わず、ランベルトは再びシャルロッテを抱く手に力を込める。より密着するような形になって、シャルロッテは思わず身体を固くした。
「ちょっ……ちょっと待って、ランベルト……誰か、来るかも」
「来はしませんよ」
そもそも、今更である。
ランベルトの蒼い瞳が、悪戯っぽくきらめいた。じり、と柔らかな煉瓦色のソファの上で、シャルロッテは思わず後退りした――しようと、した。
しかし、シャルロッテを抱き込んだランベルトの腕が、それを許さない。
「もう一つ、重大な秘密を、あなたに打ち明けたいんです」
仄かに熱のこもったランベルトの声が、シャルロッテを絡め取る。息を飲んで、シャルロッテはただその言葉の続きを待つことしかできなかった。
「シャルロッテ様。――お慕い申し上げております」
シャルロッテの頭の中で、その言葉が駆け巡る。もちろん、ここまでの会話の中でランベルトの気持ちを推し測れないほどシャルロッテは馬鹿ではないつもりだった。しかし、こうして直接言葉にされると、まるで理解できない言葉を聞かされたかのように頭の中がぐちゃぐちゃになってしまう。
あ、とかすかな声が、シャルロッテの喉から滑り落ちた。その吐息が届くくらいの場所に、ランベルトの顔がある。それを認識するかしないかのうちに、二人の間に隙間がなくなった。
ちゅ、と軽い音を立てて、暖かな感触がシャルロッテの唇に触れて、すぐに去っていく。それが、妙に名残惜しい。
キスをされたのだ、と遅ればせながら気が付いて、シャルロッテの頬が赤く染まる。そこを、ランベルトの大きな手がゆっくりと撫でた。
「ずっと――ずっと前から、お慕いしておりました。愛している、と言って良い。父のこともあって、傍でお守りできれば良いと思っていましたが……」
そこで、ランベルトは意味ありげな視線をシャルロッテに送った。どきどきと忙しなく跳ねる心臓を押さえて、シャルロッテがその視線を受け止める。
「あなたは幼少の頃、エーミール様を好いていらっしゃった。いや、今でもそうなのだと思っていました。が、あの日、そうではないとおっしゃった。それを聞いた時、私は思いました」
月が陰ったのだろう。先ほどよりも、少しだけ薄暗くなった部屋で、ランベルトの蒼い瞳だけが妙に爛々と輝いて見える。こくり、と唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえた。
「他に、王女であるあなたのお傍に近寄れる男はいない。ならば、いつもお傍にいる私にチャンスがあるのでは、と」
いつもよりも低い、艶のある声がシャルロッテの耳朶をうつ。真剣な瞳がまっすぐにシャルロッテを捉えて離さない。
「あ、わ、わたし……」
まとまらない言葉を必死に紡ごうとして、シャルロッテは口をパクパクさせた。そんな彼女の姿に、ランベルトが目を細める。
「いいんです、あなたのお気持ちはあの日、聞かせていただきました。ただ、一つ――はい、とお答えいただきたいのです」
そう言うと、ランベルトはスッとシャルロッテを開放して立ち上がった。どうしたのか、と訝しげに彼女が見上げると、彼は真面目な顔つきで、その場にひざまづく。
そして、シャルロッテの手を取り、額に押し当てた。
「シャルロッテ様……私と、結婚してください」
正式な作法に則っての求婚である。ランベルトの真剣な表情も、態度も、全てが完璧。まさに、夢に出てきそうなほど理想的な申し込みであった。
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