失恋王女、大ピンチを迎える(3)
やがて、時間が来たのだろう。楽団が、最初の曲を奏でる準備に入る。それに気が付いて、ランベルトは主催者であるハウスクネヒト公爵夫妻の元へと向かった。
「いいですか、シャルロッテ様。ここから動かないでくださいね」
「もう、心配症ね……わかったから、早く行って。伯母さまが待ってるわ」
何度も後ろを振り返るランベルトに手を振ると、シャルロッテは傍の給仕から飲み物を受け取ってグラスを傾ける。
ランベルトの相手は、娘であるローザリンデがつとめるようだ。エーミールの妹で、今年十七になる。確か、婚約が決まっていたはずだ。
シャルロッテも親しくしている相手だったが、婚約が決まった彼女は忙しくしているらしく、最近はとんとご無沙汰であった。後で、婚約の祝いを述べに行かなければならないだろう。ダンスの終わった後にでも顔を出そう、とシャルロッテは心の中で算段をつける。
なお、ハウスクネヒト公爵家には、娘が二人いて、もう一人は十四歳。まだ夜会には出られない年である。
来年は、あそこで踊らなければいけないかもしれないわね、とシャルロッテは胸中で呟いた。
開幕のダンスで主催者の相手をつとめるのは、未婚であれば婚約者のありなしに関わらず身内が、そうでなければ婚約者のいない未婚の男女がつとめるのが習わしだ。シャルロッテはため息をついた。
本当に婚約目前ならば、来年はあそこで踊ることもないのに。
楽団が演奏をはじめ、滑るように二組の男女が中央へと進み出る。ランベルトがダンスを踊るところを見るのは、そういえば初めてだ、とシャルロッテは不思議な気持ちでそれを見つめた。
「――シャルロッテ殿下」
ぼうっとダンスを眺めていたシャルロッテは、不意に背後から声をかけられて驚いた。振り返ると、黒のお仕着せを着た女が立っている。見知らぬ顔だ。
不審に思う気持ちが顔に出ていたのだろう。女は首を振って両手を上げ、害意のないことを示した。
「私の主から、こちらを言付かってまいりました」
女が取り出したのは、何の変哲もない一枚の白いカードである。
「……これを?」
とりあえず、危険なものではないようだ。そう判断して、シャルロッテはカードを受け取ると、裏返してそこに描かれた文面に目を通す。
「――!」
大声を上げそうになって、シャルロッテは慌てて口元を手で覆った。
一瞬ためらって、視線をダンス中のランベルトへと走らせる。それから、会場内にいるはずのスヴェンの姿を探すが、そちらは見当たらなかった。肝心な時に、と臍を噛むがそれを今まで許してきたのは自分である。スヴェンだけを責めることはできなかった。
「おいでいただけますか」
落ち着き払った女の声に、シャルロッテは頷いた。迷っている暇はなかった。
そのカードには、こう書かれていたのだ。
『王女の護衛騎士の秘密について、申し上げたきことあり。おいでくださらねば、すべて白日の下に』
――筆跡が、同じだ。何度も読み返した手紙を思い出して、シャルロッテはそのカードを握り締めた。くしゃり、と丸められたそれが、手から滑り落ちる。
ランベルトの『秘密』とやらが暴露されれば、彼が断罪されかねない。自分のせいで、ランベルトも『彼女』も不幸にするわけにはいかない。
先導する女に従って、シャルロッテはその場から姿を消した。
会場の中は、煌びやかな光で満たされていたが、進む廊下は薄暗い。極限まで灯りを落とされたそこは、熱気のこもった会場の中とは違い、どこかうっすらと寒さを感じさせる。
「どこまで行くの」
「もうじきでございます」
女の表情は、能面でも被ったかのように動かない。そのことも、気味の悪さを助長している。
使用人かと思ったが、どこかの貴族の子女かもしれない。動作の端々が、使用人のそれではない、とシャルロッテは感じ取った。しかし、記憶にはない顔だ。そんなことを考えながら歩いていると、不意に女が立ち止まった。
「こちらでございます」
立ち止まったのは、一つの扉の前である。そこを指し示すと「どうぞ、中へ」と告げて、女はその場を立ち去った。
ごくり、と息を飲むと、シャルロッテは目の前の扉を睨みつける。この中で、誰が待っているのか。とりあえず、行かねばなるまい。
きょろきょろと辺りを伺うが、周辺に人が潜んでいるような気配は感じられない。大きく息を吸うと、シャルロッテは目の前の扉を叩いた。
「……どうぞ」
中から聞こえたのは、女性の声であった。どこかで聞いたことがあるような気がして、シャルロッテは首を傾げつつ扉を開ける。
中へと入り、ゆっくりと扉を閉め――相手の姿を確認する。薄暗闇に、ぼんやりとドレス姿の女性が見えた。
「あなた……」
「お呼びたてした不敬をどうかお許しください……シャルロッテ殿下」
チョコレート色の髪が、ふわりと揺れる。シャルロッテは、呆然とその顔を見つめていた。
悲し気に目を伏せ、青ざめた顔で一礼した女性。それは、エーミールが運命の女性だ、と紹介したコルネリア・フォン・バールケであった。
「どうぞ、おかけになってくださいませ」
コルネリアに促されて、シャルロッテは傍にあった長椅子に腰かけた。おそらくは、客室なのだろう。簡易的な応接セットの向こうに、寝台が一つ置かれている。素早く視線を走らせるが、彼女以外の姿は見えなかった。
「……あの手紙も、あなたね」
「ええ、申し訳ございません」
向かいの椅子に腰かけたコルネリアが、うつむいたまま肯定する。しかし、そのあとはじっと黙り込んだままだ。何かに耐えるようにぎゅっとこぶしを握り締め、じっと身動き一つしない。
よく見れば、その手は少し震えている。まるで、何かを恐れているようだ、とシャルロッテは思った。それは、初対面の時からなんとなく感じていた違和感に通じるものだ。
「コルネリアさま、あなた――」
「シャルロッテ殿下、まことに……誠に申し訳ございません! こんなこと、やはりするべきではないのです……!」
シャルロッテが声を上げるとの、コルネリアががばりと床に伏せるのは同時だった。
「こっ……コルネリアさま……⁉」
慌てて傍に寄り、立たせようとするが、コルネリアは床に顔を擦りつけ「申し訳ありません」と繰り替えずばかりだ。困惑するシャルロッテの耳に、扉の開くかすかな音が飛び込んできた。
「……全く、お前はいつもそうだ……この、使えない、役立たずめ……!」
仄暗く、苛立ちを隠そうともしない声がコルネリアを罵倒する。シャルロッテは、その声の主を信じられないという面持ちで見上げた。
「……エーミールにいさま……⁉」
「やあ……シャルロッテ、ごきげんよう」
薄暗い部屋の中にあって、エーミールの顔はぞっとするような微笑みを浮かべていた。
「にいさま、どういうおつもりなの……⁉︎」
崩れ落ちたコルネリアを背に庇うようにして、シャルロッテは気丈にエーミールを睨みつけた。
そんなシャルロッテを尻目に、エーミールは先ほどまで彼女が座っていた長椅子にどっかりと腰を下ろす。長い足を優雅に組み、膝の上で手を組むと、彼は笑みを浮かべたまま傲然とシャルロッテを見下ろした。
「そんなに怖い顔をしないでおくれよ、シャル。何か飲まないか? いいのを揃えてあるんだ」
「にいさま!」
シャルロッテの声に構わず、エーミールは手近な場所に用意されていたワゴンにあるグラスに手を伸ばし、二つ取り出す。
「シャルは十六になったんだったよね。じゃあもうお酒も大丈夫」
静かな室内には、コルネリアの漏らす嗚咽の声が小さく響いている。しかし、シャルロッテの抗議はおろか、運命の女性とまで言った少女の声すらも、エーミールの耳には届いていないように彼は振る舞った。
かちゃり、と瓶同士のこすれ合う不快な音を立て、エーミールが一本を選び出す。若草色の瞳に昏い光を浮かべて、エーミールはその中身をグラスに注いだ。
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