第23話 大公領の一大事
●○●
「美しい……」
余は手にしたグラスを眺めて、そう溢す。即座に、脇に侍っていたオタカル・ネーメトが肯ずる。
「左様でございますね。特に、グラスの表面に削り描かれた、ハイ・クラータ山脈は見事の一言に尽きます」
「うむ……」
ステムを摘まんで光に翳すそのグラスの表面には、曇りガラスで描かれた、冠雪のハイ・クラータ山脈が雄々しく描かれていた。反対側には、切子細工で我がヴェルヴェルデ王家の家紋が記されている。流石に細かな部分はデフォルメされているものの、それでもかなり忠実に再現されている。
無名の魔術師が請求するには、なかなか法外な値段を要求されたが、この出来栄えを見れば、値段相応の品であるというのは間違いない。
「ただ、一つ惜しい……」
「惜しい、でございますか? 私のような審美眼を持たぬ者からすれば、非の打ちどころのない一品に思えますが……」
「そうだな。実に美しい品だ……。もしもこれに、我が王家の紋ではなく、ルーナード王国の紋が入っていれば、真実瑕疵のない一品であったろうな」
「ルーナードでございますか?」
オタカル・ネーメトは不思議そうに首を傾げる。流石に、これだけではわからぬか……。
「このハイ・クラータ山脈は、恐らくラベル・ボルゾーの絵画から模したものであろう。彼の名匠の絵画は、余も好きだからの」
「ラベル・ボルゾーでございますか。ふむ、そうお聞きして見れば、たしかに彼の巨匠の絵画に似ております」
ラベル・ボルゾーは第二王国出身の画家で、晩年をルーナード公国で過ごした男だ。彼はハイ・クラータ山脈の美しさに魅せられ、その生涯でいくつものハイ・クラータ山脈の絵画を残している。
そして、故にこそ彼が遺した絵画のほとんどは、ルーナード側から描かれたハイ・クラータ山脈なのだ。
恐らく姉弟は、ハイ・クラータ山脈を見た事がなかったのだろう。このグラスを作るに際し、彼らが参考にできたものが、たまたまボルゾーのものだったという事情だと察する事ができる。
絵画など気軽に手に入れられるものでもない。故にそれは責められぬが、だからこそ惜しいと思ってしまう……。
「デクス・ロパ・サデュスの描いたハイ・クラータならば、申し分なかったであろうな……」
「なるほど。我らが王領から見れば、そのハイ・クラータは裏側。サデュスの作であれば、たしかに完璧な仕上がりであったといえましょう」
「うむ」
我が意図を汲んで、オタカル・ネーメトもグラスを眺めて眉根を寄せる。グラスのできが見事であるからこそ、一点の瑕が気になってしまうのだろう。
「早急に、姉弟にもう一組のグラスを注文いたしましょう。その際、サデュスの絵画を一点、姉弟に下賜されるのはいかがでしょうか?」
「……ふむ。良案であるな。彼の姉弟と我々との間には、蹉跌が残っておる。だが幸い、完全に敵対したわけでも、関係が断絶したわけでもない」
「は。継続的な注文や、陛下からお下げ渡しがあれば、彼の者の性格上、義理としての付き合いを反故にはしますまい。当初の目的でありました、自陣営への引き込みは難しいかと存じますが、彼らは恐らくドゥーラやラクラの下にもつかぬかと」
まぁ、そうであろうな。ボゥルタン王が健在であれば、下手をすればあの姉弟は、王命すら鼻で笑って退けかねん。まったく、向こう見ずにも程や限度はあるだろうに……。
「ならば左様に――」
「失礼します!」
非常に珍しい事に、余の言葉を遮って、従僕の一人が部屋に駆け込んできた。その顔には脂汗が浮き、強い緊張が窺える。良くない事が起こったらしい。
膝をつこうとする下僕を、手で押しとどめる。
「良い。危急の報であろう?」
「は。お言葉に甘えて失礼をいたします」
深々と頭を下げる部下に頷きつつ、オタカル・ネーメトにグラスを手渡す。緩衝材付きの木箱に慎重にグラスを戻すオタカル・ネーメトを後目に、余はその者の報告を聞く。
「して、いかがした?」
「は、はい。我が領のクリッゾァの中規模ダンジョンにて、宝箱の出現が確認されました!」
「ふむ……?」
宝箱だと? どういう事だ? それが、この者が血相を変えてまで報告に来た理由だとすると、余はその意味を斟酌できておらぬ。オタカル・ネーメトを見れば、こやつもまた理解が及んでいない様子だ。
オタカル・ネーメトが、余に代わりその者に問う。
「宝箱とはどういうものだ? また、それがどう緊急の事態なのだ? 一から説明してくれ」
「はっ。それでは畏れながら――」
その者の説明を聞いて、余とオタカル・ネーメトも流石に顔色を失くした。聞いておらぬと席を立ちかけたが、このような話を軽々に流布できるわけもない為、強く拳を握ってなんとか耐えた。
最近ニスティス大迷宮で確認された宝箱という要素が、他のダンジョンにも広まれば、現在人類側がとっているダンジョン対策が無意味になりかねぬ。その兆候が、よりにもよって我が領で確認されたともなれば、一大事も一大事である。
「すぐにクリッゾァを封鎖し、討伐にかかれ。攻略の為に、第二王国中から上級冒険者を集めよ!」
「へ、陛下。もしもニスティスから情報を得て、クリッゾァのダンジョンの主が宝箱を設置したのであれば、それでは対症療法にしかなりませんぞ?」
こちらも緊張を浮かべているオタカル・ネーメトの忠言に、しかし余は首を振る。
「いまは、そうであった場合よりも、そうでなかった場合を考慮せねばならぬ。なにより、ダンジョンどもにその手法が有効であると、覚られては困るのだ。事態の鎮静化の仕方を誤れば、王領奪還どころではなくなるわ」
「は……。では、クリッゾァだけでなく、同じく中規模ダンジョンのヒューズ、小規模ダンジョンのレクタル、ボモス、ドゥーベルダンへの警戒も発しておきましょう。もし万が一、そちらでも宝箱が現れても、即座に封鎖できるように」
「であるな……。それは誠に、最悪の未来ではあるが、然らばこそ対策を怠るべきではなかろう……」
もしもそうなれば、封じ込めはほとんど失敗したと見るべきであり、もはや事態は余の手に負えるものではない。どころか、第二王国だけでもどうにもなるまい。
希望的観測としては、ニスティスに宝箱が出現するようになってから、ほとんどときをおかずしてクリッゾァに宝箱が出現したという点は、この二つのダンジョンが協力している蓋然性の低さを示しているだろう。いまだ、ニスティスにおいても成果らしい成果などないはずなのだから、ダンジョン側がその有用性を共有しているとは考えづらい。
もしもダンジョン側が、既にその有用性を確信し、情報を広めているのであれば、我々地上に生ける者すべてにとって焦眉の急であり、その脅威は計り知れないものとなる。
「急げよ、オタカル・ネーメト。我が領が、人類のダンジョン戦略を根本から台無しにする端緒となったなど、風聞が悪いにも程がある。ドゥーラやラクラの連中は、大喜びでその非を論うであろう」
「は。必ずや、クリッゾァのダンジョンを完全に封鎖し、できるだけ早期の討伐計画を立てまする。他のダンジョンへの手当ても怠りませぬ」
「うむ」
深刻な表情のオタカル・ネーメトに、余も重々しく頷いてみせた。
なによりも、時間が肝だ。でき得る事ならば、彼の姉弟や【
その後、余の最悪の危惧は的中してしまい、ヒューズ、ドゥーベルダン、ボモスのダンジョンから宝箱が出現してしまう。不幸中の幸いだったのは、それが新年を過ぎてからの事件であり、間をおかずして他のダンジョンからも、宝箱が現れ始めたという点だろうか。その為、我らが特筆して非を鳴らされるという事はなかった。
いや、それはすなわち、人類の対ダンジョン基本戦略の瓦解を意味していたのだから、やはり最悪の事態そのものでしかなかったといえるのだが……。
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