第74話 幻肢痛
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ああ……、痛い痛い……。
失った四肢に疼痛を覚える症状を幻肢痛というらしいが、増えた肢体が痛む症状は、いったいなんと呼ぶのだろう。いやまぁ、こんな症状の前例などあるはずもないので、名前なんてあるわけもないが。
名も知らぬ筋肉質の小男が、焦ったように僕の攻撃を弾き続ける。だが、人間一人の処理能力には限界がある。手足は四本しかなく、どれだけ素早く動かせても、一秒間に可能なのは二、三動作程度。それで捌ける攻撃は、最大限に見積もっても五、六回だ。
それ以上の手数でもって攻撃を加えれば、いかに達人といえども、僕のような素人の攻撃に対処などできない。
彼がその領域に辿り着くまでに、どれだけの努力を重ねたのか、僕にはわからない。どれだけの才能があったのか、その結実がどれだけの領域にあるのかすら、ド素人の僕には想像もつかない。
そしてそんなド素人の僕に、眼前の達人は敗北を喫し、いままさにその命の灯を吹き消されようとしている。ただ一点――人間であるという理由だけで。
そう。勝負の分かれ目は、そこだった。彼は人間で、僕は化け物。それだけだったのだ。
痛い、痛い、痛い……。
煮えたぎる激情が、それでもなお憐れな獲物となり果てた男にぶつけられる。そうだ。これは単なる、八つ当たりのような行動だ。
いつまでも鬱々と、ウジウジと、未練がましく己の人間性に拘泥し、最後の一歩が踏み出せない。相手の強さや、自分の強さ、相手の意思や、善悪など、くだらない事にを気にし、殺していい理由を求め続ける無様さに対する、苛立ちの発露だ。
僕はもう化け物なのだから、こんな風に人間なんて虫けらを殺すように殺すべきなのだ。理由もなく人間を殺すべきなのだ。
僕とグラが作った、【影塵術】のそれではないのっぺりとした黒い蝙蝠の羽が、男の腹に深い裂傷を与える。
眼前にいるのは、僕らとは違う生物であり、害獣であり、障害である。取り除くべきだし、そこに一切の感慨は必要ない。
ああ、どうしてこんな簡単な事が、これまでできなかったのだろう?
男の腕が飛ぶ。絶望が、男の顔に満ちる。気にせず次の手を繰り出す。気にする必要など毫程もないのだから、淡々と作業のように、男の腹へと【
痛くない。痛くない。痛くない。
アリの四肢が、獣の前肢が、鋭い羽が、男をグズグズのミンチ肉へと変える。男の姿がこの世から消えてしまったその場で、僕はなお、己の中に燻ぶる激情を持て余していた。
なんでもいい。誰でもいい。これまで抑えつけてきたこのドス黒い破壊衝動をぶつけて、スッキリしたい。そういえば、あの双子はどこにいった?
ぐるりと首を巡らせるも、既に周囲に
だが、そうなると困った。標的となる相手がいない。
いや、いるか。この階層には、あのタチとかいう帝国の間諜連中が入り込んでいるはずだし、レヴンもまだ残っているはずだ。
「ハァァぁぁ……」
思わず吐息が漏れる程の歓喜に、口が笑む。まだまだ暴れられる、まだまだ戦える、まだまだ殺せると、頭蓋骨の内側から叩き付けられるような歓声が、ガンガンと鳴り響く。ドバドバと脳汁が溢れては、早く早くと急かしてくる。
結局のところ、当初懸念した通りに、僕は追い詰められれば殺人もするし、意識しなければ、そのハードルはどんどん下がっていくような俗物だったのだ。その内、このゴルディスケイル島に来る途中で出会った海賊連中のように、殺して奪う事になんの躊躇も覚えなくなるのだろう。
なにより、人に対して暴力を振るうのは楽しいのだ。相手が無抵抗であったり、とても僕に敵わないような矮小な存在であれば、その全能感たるや、ダンジョンコアに宿っていたときとは別の心地良さだ。
――痛くない。
痛くない、痛くない。
一度箍の外れてしまった、凡愚で卑俗で野蛮な僕の本性は、この程度で痛みはしない。
洞窟実験や感覚遮断実験で人類が得た結論は、結局のところ人という生き物は、外的な刺激がなければ内部から捏造してでも、刺激を求めてしまう。それが、生理的に生じる正しい幻覚の正体だ。
僕もまた、本来ダンジョンコアにあるべき刺激を封じ、人間としての刺激を外部に求め続けた結果が、この体たらくだ。ダンジョンコアとしての――あるいは、その偽物としての正しい幻覚が、この姿というわけだ。
あの日、初めて依代に宿った際に思い知った、己の醜悪さの具現。自己嫌悪の集大成――否、醜態成がこれだ。
グラにだけは隠しておきたかった己の愚劣さを、見ただけでわかる形にしてしまったのだけが悔やまれる。ただ、羞恥や哀惜がないとはいわないが、それよりもやはり、押し殺していたなにかを解き放つような、一種の爽快感の方が勝る。
それが、自暴自棄による一時的な解放感であるというのは、わかってはいるのだが……。
一歩、足を踏み出そうとしてふと気付く。べっとりと血糊の付着した己の姿に。それと同時に、ぐぅと腹が鳴った気がする。結局、省エネの【影塵術】を生みだしたというのに、魔力も生命力も大量に消費したのだから仕方がない。
僕はソレを見る。無数の腕が、バラバラになった男だったものを掴んでいた。適度に食べやすく、ミンチとなった血肉。ああ――……、そうだ……。僕にとってコレは食べ物だ。僕は人食いの化け物なのだから。
四つの手で作った手盃に盛り付けられた、赤と青と黄色の混じる、生々しい新鮮な臓物――人肉。
人間だった頃には、想像すらしなかった禁忌の所業に対し、もはや忌避感など湧きはしない。これは、必要な行為であり、化け物として転生した以上は、もっと早く割り切って受け入れるべきだった、当然の行為だ。
そうすべき行為であるのだから、そうするべきなのだ。須くと自然の摂理に定められているのだから、かくあるべきなのだ。グラにもこれまで、随分と心配をかけてしまった。これで僕も、人食いの化け物として生きていけるだろう。
口を開く。唾液が溢れる。この後は口に食み、咀嚼し、嚥下するだけ。ごくごく普通の、食事の作法だ。
自分でも熱い吐息が漏れるのを感じる。ある意味、これは僕のお食い初めだ。人間性を捨てて、化け物としての道を歩む為の、元服といったら少々大仰だが、袴着くらいのイベントだろう。そう思えば、この肉も実に美味そうではないか……っ。
待ちきれず、その手盃に食らい付こうとしたところで――四本の手首の内一つを掴まれ、止められた。
どういうわけか、僕を止めたのは――グラだった。
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