第70話 信仰と幻覚

 ●○●


 クソクソクソ。あれから何分経った? いや、何十分? 何時間? 腹は減っていないし、流石に何日も経ったとは思えないが、もしかしたらこの闇は空腹すら感じないのかも知れない。


「おい! メラ!? 魔力の残りなんざ気にしてねえで、こんな幻術さっさと破っちまえ!!」


 そうすればあんなザコ、オレ一人でもぶっ殺せるはずだ。

 たしかに発した声は、どこに響く事もなく闇に消え失せる。オレ自身にすら、その声は届かない。その事が、不安と恐怖を強く煽る。一切を見通せない闇の圧迫感は、まるで直接頭の中をやすりで削られているような不快さだ。


「メラ!! さっさと【神聖術】を使え!!」


 切羽詰まったように叫ぶも、やはりそれが相手に届く事はないだろう。自分の耳にすら聞こえないのに、メラに伝わるはずがない。

 腕を振り回す。これにも違和感が残る。なににも触れられないのは、まだいい。だが、風を切った感触すらないのだ。下手をすれば、壁を叩いてもそれと気付かないかも知れないし、あの弟がいまこの瞬間胸を貫いても、それと知らずに絶命するかも知れない。

 ジリジリと身を焦がすような焦燥感が、さらにストレスとなって精神を痛めつける。

 クソ……ッ、クソがよォ……。

 口が渇く。音も感触もないけれど、自分の呼吸が荒くなっているのがわかる。そして、耳朶を打つ音は聞こえずとも、胸を圧迫する感触はなくとも、心臓が嫌な早鐘を打っているのも、体感でわかる。

――この闇のせいで、考えたくない事ばかりが頭をよぎる。

 オレたちを捨てた親の事。顔も知らない。名前も知らない。いまも生きているのか、それとも死んでいるのかすら、定かではない。幼い時分には、なぜ自分たちを捨てたのかと悩んだ事もあったが、孤児院を出る頃にはどうでも良くなった存在だったはずだ。

 オレたちをイジメてきた、そんな孤児院のクソガキどもと、なんの役にも立たなかったシスターたち。結局、オレとメラの体が成長し、そんないじめっ子たちを返り打ちにするまで、状況は変わらずオレたち二人は、オレたち二人以外に寄る辺などないと覚っただけだった。

 環境が変わったのは、オレたちが聖騎士を志したからだ。つまり、オレたち自身の手で変えたのだ。そんなオレたちの役に立ったのが、教えであり、聖騎士になる為の訓練だった。

 クソったれな親が付け、孤児院のクソどもが呼んでいた名前も、そのタイミングで俺たちの好きなものに改名した。それが、オレたち甘い罰フルットプロイビートの始まりだった。

 オレたちを守ってくれたのは、唯一【神聖教】でありその教えだった。だからこそオレたちは、オレたちを庇護してくれる教会を守護し、その教えを墨守するのだ。

 聖騎士になってからは、他者に舐められる事もあまりなくなった。まぁ、同じ聖騎士の中には、オレたちが孤児院出身という事が気に入らないヤツもいるようだが、それはお互い様だろう。こっちだって、いいトコ出身の聖騎士連中に、思うところがないわけじゃない。

 なんにしろ、実力主義である聖騎士の世界は、それなりに居心地のいい環境だった。お互いに、教えを遵守するという共通認識があったればこそ、他の聖騎士連中ともそれなりに上手くやれていたのだと思う。

 我ながら、オレたちは他者に馴染みやすい性格はしていないからな。それで問題になる事もあるが、オレたちのすべては教えであり、教えで禁じられていないものは正義なのだ。


「ああ……――」


 いつの間にか、オレは床に蹲り、まるで胎の中にいる子供のように丸まって、ベソをかいていた。まるで、あの頃のように……――


 ●○●


「ああ……ッ」


 ボクは突然に囚われた暗闇の中で、ただひたすらに狼狽える事しかできない。なにも見えない、なにも聞こえない、なににも触れられない闇の中を藻掻く。

 この闇がなんらかの幻術であるのは間違いないだろうし、そうでなくとも【正道標】であれば、人を惑わす術を一息に打ち払う事はできるだろう。だが、いま【神聖術】を使う事はできない。

 間違いなく、失敗する。こんな心理状態で、まともに【神聖術】が使えるはずがない。


「ティナ……、ティナぁ……!」


 ボクはジェラティーナを求めて彷徨うが、この闇からはなにも掬い上げる事ができない。次第に動きが大きく、荒くなっていく。すると、鋭い痛みに眉をしかめる。どうやら触れた感触はなくとも、痛みまでは消えないらしい。


「へ……、へへ……」


 その痛みにボクは、どういうわけか酷く安堵する。打ち所が悪かったせいか、腕の動きがおかしい。捻挫か、下手をすれば折れているのだが、そんな事よりも痛みであろうともこの闇から反応が返ってきたという点に、胸に安心が広がる。


「ぁ……」


 その安堵のおかげか、闇の中に一筋の光明を見付ける。正面、やや見上げるような場所に、まるで木漏れ日のような優しい光がポツンと瞬いていた。この暗闇の中に浮かぶ、唯一の光に吸い寄せられるようにボクはそれに手を伸ばし、歩み寄ろうとする。

 だが、どういうわけかそれ以上前に進めない。いや、さっきの手の痛みといい、きっとそこに壁があるのだろう。だったら、その先にあるあの光はなんだというのだ?


「……まさか……、……神……?」


 そうだ。間違いない。この完全な闇はあの悪魔が、ボクらの心を苛む為に用意したものであるはずだ。だとすれば、あのような光を用意しているはずがない。罠でもない限り……。

 だが、罠だとすると壁のせいでそちらに行けないというのは、考えづらい。故にアレは、あの悪魔にとってもイレギュラーである可能性が高い。

 神の存在を身近に感じ、不安と焦燥に苛まれていたボクの心は次第に凪いでいった。あの悪辣な悪魔の幻術が、どれだけボクらを苛もうとも、神は我らと共にあり。そのご加護がある限り、悪魔の幻が真にボクらを惑わすには能わない。

 いまならいける……ッ!


「【天道てんとう、蒼穹、無辺の野ををく者よ。しるべを持つ者は幸いである】【正伝三章一節・正道標せいどうひょう】!!」


 高らかに聖句を唱え、間違いなくボクの祈りは、信仰からその奇跡を引き出した。ほとんど底を突いた魔力のせいで襲いくる強烈な眠気に抗いつつ、ボクらを捕えていた暗闇が散らされていくのを見て、僕の口元には笑みが浮かんだ。



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