第4話 死に至る自己嫌悪
〈4〉
胸の奥からドブ水が噴き出したのかと思った。
薄汚いヘドロが僕という皮袋から溢れ、飛び散り、周囲を汚していく。それこそが僕の本質であり、取り繕っていた
そう思えて、そうとしか思えなくて、僕はえずきそうになった。幸い、いまの僕にえずくような肉体はない。
胃もなければ口もない。目も鼻もないし、そもそも顔もない。手足も胴体も、何一つ存在していない。あるのはただ一つ――アコヤ貝のように虹色に光る、一つの球体だ。
「ショーンッ!?」
グラの叫びが聞こえたが、それに頓着していられる程、いまの僕に余裕はない。
頭もないのに頭痛が酷く、胸もないのに鉛でも飲み込んだのではないかという程の胸やけに襲われている。まともな手足があれば、じたばたと藻掻いていただろうし、口があれば叫んでいただろう。目や鼻があれば、涙や鼻水を垂れ流していたかも知れない。それらがすべてなかった事は、ある意味で幸いではあった。
わけがわからない状況ではあるが、思考を巡らせているような余裕もない。ただひたすらに、己の胸から沸き起こる悪感情が、幻肢痛となって頭や胸を駆け巡っている。
痛い? 苦しい? どちらも違う気がする。これはもっと、根本的に、僕を台無しにしようとしている。
「ショーン!? ショーン! そこにいるのですか!? どうしてあなたが、疑似ダンジョンコアに宿っているのです!? いますぐ、こちらに戻りなさい!!」
グラの声に、ここまで感情が乗っているのは初めてだ。そんな事を言われても、どうやって宿ったのかも、どうやれば戻れるのかもわからない。
戻れるものなら、とっくに戻っている。この耐え難い苦痛から逃れられるのなら、たとえこちらが本体であちらが依代だろうと、すぐさま戻りたい。
チカチカと明滅する視界に、駆け寄ってくるグラの姿が映った。
ああ……。
こんなときに場違いではあるが、あの耽美な容姿は、僕にとっては違和感であり苦痛だったが、グラの姿として見るなら、むしろ最適解かも知れない。
自分の姿としては拒絶感まであったというのに、グラの容姿としては親近感すら覚える。なにせ、自らのコンプレックスを全て解消した姿なのだ。
素直に、美しいと思った。
そんな美しい
そうして彼女が心配してくれるというだけで、僕を苛んでいた嫌悪感が多少薄らいでいく。
「ショーン! 聞こえますか!? 返事をしてください! お願い、ショーン!!」
「――グ……、……ラ……」
あまりに悲痛な声音に、僕は突き動かされるように、彼女の名を呼んだ。
彼女の名前を二文字にした、あのときの自分をほめたい気分だ。アニュラスなんて名前にしていたら、絶対に口にする前に心が折れていただろう。
いまの僕には、五十音で二文字の彼女の名を呼ぶだけの事が、ひどく難事に思える程なのだから。
そのとき、自分の生命力が、勝手に形を取ろうとしているのを感じた。ダンジョンを掘ったり、改装したりするときと同じ感覚だ。
そこで思い出す。擬似ダンジョンコアには、生命力の理を操って、自らの肉体を形成する能力があるという事を。元々、グラの為の依代だったのだから、当然の機能といえる。
「ショーン!! ダメです! その依代は試作品ゆえに、それ程DPを注いでいません! 生命力の理で肉体を形成などすれば、地上生命の生存限界値を割り込みます!!」
そんな事を言われたって、別にやりたくてやっているわけじゃない。肉体の方が、勝手にやっているのだ。
疑似ダンジョンコアの生命力の生存限界値が、人間仕様であれば、五割を割り込めばほぼ即死するだろう。もし、ダンジョン仕様であれば、ほんの少しでも残っているだけで生き残れる。後者である事を祈って欲しい。
この肉体で死んだ場合、どうなるのかはわから――……ああ、もしもそうなら、グラを巻き込まずに死ねるのか。
そこに気付いた瞬間、僕を苛んでいるこの嫌悪感の正体にも気付いた。これは自己嫌悪だ。それも、自らを嫌悪するあまり、ショック死しかねない程の自殺願望。
死ねばいい。
死ねばいい。
僕なんて、死んでしまえばいい。
人を殺し、人を食らい、なにをのうのうと生きている? ホラ、もう言い訳の、グラを道連れにする心配もなくなった。本当に人殺しに罪悪感を抱いていたというのなら、もう死ねるだろう?
これから何人殺すつもりだ? お前一人が生きる為に、何人の人間を殺す? 男を殺す? 女を殺す? 老人を殺す? 子供を殺す? 父を殺す? 母を殺す? 妹を殺す? 祖父を祖母を友人を親友を恋人を夫婦を他人を——姉を、殺す?
お前の大事な人を大切に思いながら、他人の大切な人らを、どうして食らえる? そんな姿を、お前の家族にどう顔向けする?
できるわけがない。僕は既に、数百人を殺して食らっているのだ。そしてその行為にもう、罪悪感すら覚えなくなっている。
罪悪感を覚えない自分を、嫌悪する。人を殺し、食らい、それでも生きたい自分が、どうしようもなく嫌いだ。そのくせ、父が、母が、姉が、妹が、祖父母が、友人が、親友が、あちらの世界に残してきた彼らの事が、好きだという思いも残っている自分に、どうしようもなく虫唾が走る。気持ちが悪い。気色が悪い。
依代に移ってから、強烈な郷愁が胸をつくようになった。その度に、どのツラ下げてそんな事を思うのかと、いっそう嫌悪感が募る。もはや、善良な人間である彼らに、合わせる顔など微塵もないというのに。
それでも、父にぶん殴って欲しいし、母の胸で泣きたい。そう思う自分が、どこまでも自分勝手に思えて、心底悍ましい。
僕という存在が、この世のなによりも穢らわしい。
否。この感情は既に、嫌悪ではない。憎悪だ。僕は、人類の敵たる僕を、憎悪している。この人食いの化け物め。死ね。死ね。死ね。死んでしまえ!
消え失せろ、この化け物!!
「ショーン……っ!」
さらりと、頭を撫でる柔らかく冷たい手。
冷たくも優しい、ガラスを打ち鳴らすような声音。
さっきまで自分のものだったとは思えない、柔らかく、いい匂いのする体に抱き締められる。
ああ……。くそ……。
この世界に生まれ落ちてから、二人で生きてきた大切な家族。そして、人食いの化け物である姉の事が、他の家族と同じくらい、大切になっていた。
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