第五話 こわくないよ
これも私の父方の実家での話だ。
祖父母の家に行くのは毎年楽しい行事だったのだが、ひとつだけ嫌なことがあった。それは夜トイレに行くことだ。祖父母の家のトイレは、当時、二人が元気だったこともあり、家の外にあった。
限界集落と呼ばれるような場所なので、家の周囲にはほとんど街灯がなく、夜になれば墨を流したように真っ暗で、遠くに黒い隆起となって見える山は、それそのものが恐ろしい化け物のように見えた。
長じた今でこそ、空気が澄んで星空が綺麗に冴えていることを楽しめるが、小学校にも上がらない年齢の私には、ただただ恐ろしい場所だった。
当時でも珍しい、汲み取り式のトイレだったことも恐怖に拍車をかけていた。
便器の中は底なしの穴のように暗く、いつも、落ちないように足元に気を付けていたことを覚えている。
だから、夜中にトイレに行くときなどは、隣で寝ている姉を起こしてついてきてもらうことも多かった。
だが、その夜は催した尿意が強烈だったため、起きてすぐトイレへと向かった。玄関の扉を開けて、灯りのない真っ暗な景色を目にした瞬間、寝ぼけていた頭に、恐怖が飛び込んできた。
夏の盛りだったが、山間という土地柄、空気は透き通るように冷たかった。家の誰かを呼んでこようかと思ったが、家の中にも灯りはなく、戻るのも怖かった。
ノロノロと戻っている間に漏らしでもしたらもっと大変なことになる。
小さな私は生理反応に突き動かされるように、トイレへと踏み出した。
パチッ。電気をつけてから、軋む扉を開けて中に入る。
裸電球の灯りに反応して、大きな蛾がバタバタと音を立ててぶつかった。
ズボンをズリ下げ、便器を跨ぐようにしゃがみ、
「こわくない。こわくない」
と自分に言い聞かせるように呟きながら、下腹部に溜まったもどかしさを解き放った。
すると。
「こわくないよ」
背後から声がした。男の声で、はっきりと、私のこわくない、に応えるように。
私は驚いて逃げ出したくなったが、今立ち上がると悲惨なことになると思って出し切るまでその場を離れられなかった。用事を済ませると、私は電気も消さずに家へかけ戻り、布団をかぶって震えていた。
翌朝、そのことを家族に話すと夢でもみたのだろうと笑われた。
ただ、祖母だけが、
「そういうこともあるかもしれんなあ」
と、私の話を信じてくれ、
これはトイレの神様で、大みそかの夜に、「カンバリニュウドウホトトギス」と唱えると、次の一年、厠で怪異に会わなくなるのだそうだ。
また、この呪文を唱えると不幸が訪れるという説もあるが、私は祖母の教えてくれた話を信じて、その年の大晦日に呪文を唱えたのを覚えている。
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