第四話 ついてくるもの
私が高校に上がるまで、私の家族は夏休みと冬休みに、広島にある父の実家に長期滞在するのが習慣となっていた。
父の実家は標高の低い山に囲まれた小さな集落にある。自然豊かというか、自然しかないようなところで、家の前の急こう配を下った先にある川で泳いだり、釣りをしたり、あるいは山や田んぼで虫を捕まえて遊んだりしたことを、今でも鮮明に覚えている。
この奇妙な体験をしたのは小学校四年の夏、祖母の手伝いで畑に行った帰りだ。
辺りからはヒグラシの声がして、低い山の背に陽が隠れかけ、雲のまばらな空がオレンジと青紫の鮮やかなグラデーションを描いている――そんな情景が記憶と結びついているから時刻はおそらく六時頃なのだろう。
いわゆる、逢魔が時と呼ばれる時間帯だ。
舗装もされていない、寂しい農道を祖母と並んで歩いていた私は、ふと、自分の後ろに妙な気配を感じた。
誰かがついてきているような気がしたのである。
嫌な気配だったから盗むように後ろを窺うと、十メートルほど後ろに黒いものがいた。
動物ではない。人の形に見えるが、しかし、輪郭がはっきりしない。加えて、異様に大きかった。180センチある父よりもずっと大きいように思えたから、二メートル以上はあったのだろう。それが、砂利道を音も無く歩いて、自分たちの後ろをつけてくるのである。
私は、わっ、と小さく悲鳴を上げて祖母の方を見た。
いつもしわくちゃの笑顔の祖母が、怖い顔をして、
「あんまり見たらいけん」
と、叱るような口調で言った。
私は怖くなって祖母の手をぎゅっと握りしめた。
「ウチまで来よったらえらいけえ馬頭さんのとこ行こか」
祖母は私の手を引いて、家の門を通り過ぎた。背後の何者かは、私達の後ろを相変わらず音も無くついてきていた。
家の前の通りには古い簡素なつくりの祠があった。昔から縁あって、祖父母のうちで管理しているものらしかった。
祠にたどり着くと、祖母は両開きの木戸を開いた。中をのぞくと、馬の顔のついた冠を被った三面六臂の石仏が祀られている。
――と、祖母はだしぬけに私を祠のわきに引っ張って、頭をぐっ、と押さえつけてきた。
「黙って下見とき」
小声で私にそう言った。いつも優しい祖母の険しい態度に、私は恐ろしくなって、ただ言われた通りにしていた。
どうやら、黒いそれが私たちに追いついてきたらしい。
濃く、くっきりとした粘りつくような気配を肌で感じた。
遠くの方から、ヒグラシの鳴き声が響いてくる。
祠の前で自分の爪先を見ていた私の視界に、影のようなものがちらりと映った。
雨上がりの土のような臭いがした。
――来た。
咄嗟に私は息を止めて喉元まで出かかった悲鳴を押し殺した。
顔を上げれば黒い何かの全貌が確認できたのだろうが、その時の私は、祖母の服の裾をぎゅっと握りしめて、眼を固くつむり、ただ時間が過ぎることを願っていた。
黒い何者かは開かれた祠の中を覗き込んでいた――定かではないがそんな風に私は感じていた。
しばらくして、
「もう大丈夫や。帰ろか」
祖母がいつもの明るい調子で私に言った。いつの間にか黒い何かはどこかへ行ってしまったらしかった。
祖母に今のは何だったのか訊ねると、
「ようわからんけど、他所から時々ケッタイなんが来よる。ほじゃけえ、馬頭さんに元んとこへ帰るようゆうてもらうんや」
そんな風に答えてくれた。
長じてから知ったことだが、祠に祀られていた馬頭さん、というのは馬頭観音のことのようだ。
馬頭観音は交通安全や旅の神として、道祖神と同一視される向きもあるという。
これは私の想像だが、馬頭さんは外から迷い込んできた得体のしれないものに、帰り道を教え、あるべき場所へ導いてくれたのではないだろうか。
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