第56話 遠すぎた空

 操縦桿をどう操作しても、殆ど舵が聞かずにゆっくりと高度を下げていく。

 となれば、操縦手が出来ることは一つしかない。


「止めろ! 撃つな、人でなし!」


 アルフレッドは背後のシュワルツに向かって、必死の命乞いをした。

 プライドなんて……そもそも、あまりの恐怖が薬の効力をうわまってしまったアルフレッドに最早、理性はない。

 しかし、願いが届いたのか、シュワルツのラファールは何も言わずに翼を傾けて、去っていった。


 この薄曇りの空の元に一人残されたアルフレッド。

 その視線の先には穏やかな湖が見えていた。

 不時着には丁度よさそうだ。


「……クハ、ハ、ハハハハハハァ! 馬鹿が、っ馬鹿め!

 だからお前は甘いんだよ、シュワルツ! ハハハハハ!」


 首の皮一枚で繋がった。去ってしまったシュワルツを欲望の限り嘲笑すると、彼は残された動力を用いて着水を試みた。

 激しい衝撃が襲ったが、なんとかなったようだ。


(勝敗なんてどうでもいい……いや、俺は奴なんかと勝負なんてしてない。

 俺は上にいく為に、認められる為に行動していただけ。負けなんて概念はない。

 そうだ、成り上がる為の賢いやり方なんて幾つもある。

 この戦争が終わったら、新聞社に情報を売ってやろう、共和国の英雄様の正体は連邦の裏切り者だってな!)


「クヒヒヒヒ、ハハハ……ん?」


 何かに囚われたように、嗤い続けていたアルフレッドだったが、脚に違和感を感じた。彼の乗機は水の中に沈み始めていたのだ。

 アルフレッドはこの機体に全くの愛着などないので、コックピットを開け、乗り捨ててしまおうとした。

 が、幾ら開放ボタンを連打しようともうんともすんとも言わない。疑問に思い、周囲を見渡してあることに気づいた。

 コックピットの風防フレームが相当歪んでいた。これでは開くはずがない。


「……あ?

 な、なんだこれ、どうすればいい? 」


 焦ったアルフレッドは護身用の拳銃の存在を思い出し、閉ざされた風防に向かって乱射する。

 だが、パイロットを20mm機関砲から護る為に造られた強化ガラスは、皮肉なことに彼が乱射した9mm弾を受け付けなかった。


 更に機体ががたんと揺れた。徐々に先程までの余裕が消え去り、焦りが蓄積されていく。

 そして、彼の言葉を思い出した。


 "……堕ちろ。そして、沈め"


「あ、ああ……奴はこうなることを全部知っていて……!

 シュワルツ、卑怯だぞ、戻って来い! 

 おい、聞こえないのか! 俺を助けろ!」


 人気のない湖の中へと、沈み続けるPAKFA。

 どうすればいい、誰が助けに来る? 頭の中は完全にパニックになり、彼はじたばたと狭いコックピットの中で暴れ回る。

 そして、薬の効力が切れた時、あることに気が付いた。

 自分の身体が悲鳴を上げていることに。


「連邦空軍のアルフレッド大尉だ! 速く救援を!

 ……がぁぁ! 痛い、痛い、痛い! 何なんだ、何なん――! 」


 着水は成功とはいえなかった。衝撃により左足がコックピットの下に挟まり、完全につぶれていたのだ。

 まるで、のように。

 絶望する暇すら与えられず、遂に湖の水が、歪んだコックピットから機内へと侵入する。


 いや、まだ希望は残されていた。

 アルフレッドの歪んでいく視界は、蜘蛛の糸を空に見つけたのだ。

 銀色の翼を持つ戦闘機。赤翼の教官であり、自身の教官である男の翼だ。


「……グランニッヒ・ハルトマン!

 アルフレッドだ! 俺を救助しろ! これは連邦防空本土からの第一順守命令であり……!

 聞こえないのか、俺は上層部の人間なんだぞ!」


<……>


 かつての教官からの返事はない。

 ただただ沈黙し、沈みゆくアルフレッドの上空を旋回している。


「お前も俺を見下す気か!?

 み、水が膝まで……おい、聞こえているんだろう!?


 ……悪かった。俺が……自分が悪かったんです!」


<……>


 だが、グランニッヒは、彼のフルクラムはゆっくりと離れていた。


「い、行くな……。いやだ、しにたくない。

 申し訳ありません! 自分が間違ってました! 

 二度としません、しないから!


 た、助けてください! 教官!

 助けて、たすけて、きょうかん!」


 青年というより幼児の悲鳴だった。強すぎた薬の副作用か、それともこれが彼の本性なのか。


 首元まで水が来た。

 機体が傾き、遂に水の中へと引き込まれた。


 アルフレッドが最期に目にした光景。


 シュワルツの周りには、彼を待っていたかのように多くの戦闘機が巣に帰る鳥たちのように、群れを成していた。

 グランニッヒも群れを成して飛び去っていた。




 羨ましい。

 自分だけが一人、自分だけが沈んでいく。






「いやだ、ひとりでしぬなんて、こんな惨めな死に方いやだ!

 せめて空で、せめて、せめて――!」




 水の中に沈んでいく彼は、今更必死に空へと腕を伸ばす。






 しかし。








 既に、もう、空はあまりにも遠すぎた。


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