vs オルコット枢機卿2

 少なくとも、パレイドリアの中では、邪眼は完璧な存在だった。


 その黄金の瞳には『見えない』などという限界は存在せず、森羅万象を見通せるのが当然と、完璧であると、何の疑問も持っていなかった。


 限界があるとすれば、それはその他に当たる、人間側だった。


 弱い体、鈍い頭、邪眼がもたらす情報の億分の一も理解できない。転生前とは雲泥の差、失ったものの大きささえも理解できないでいた。


 だから絶対に前世の姿へ戻る。


 決心しても、その道のりは、邪眼をもってしても見渡せない遠い道のりだった。


 ……ふらつく足取り、明らかに疲労、だというのに感覚はむしろ気持ちいいぐらいで、やはり人間の体は当てにならない。


 原因は何か、邪眼で見るまでもなく明らかだった。


「大丈夫ですかー?」


 体を傾け長い髪を流しながら下から見上げてくるオルコット、とぼけてるという声、白々しい表情、この期に及んでまだ演技を続けるようだった。


 そしてようやく思い出す。


 これは戦い殺し合い、ステンドグラスを見ながらお喋りなどしている暇などなかったのだ。


 思い出し、邪眼を見開くと同時にパレイドリアの体は吹き飛ばされた。


 凡眼には不可視の攻撃、だけれども邪眼にはくっきりと見える攻撃、それは空気、密度と重量が変わって弾けた一撃、見破れていた。


 遅かったのは判断、わかっていて、だというのにふらつくばかりで回避も防御もできず、挙句にパレイドリアは受け身も取れずに冷たい床の上に転がった。


 痛みは鈍い。だけれども疲労さえ感じない体、信用はできない。


「まぁ大変、一体全体どうしてしまったんでしょう」


 のんびりと間延びした声、自分で仕掛けたいたずらに驚いたふりしてあざ笑うあの女のと同じ表情、脳裏に浮かんだ安っぽい走馬燈、上流階級の女学生同士の、喧嘩の場面だった。


 そこは直接殴り合うわけでも、悪口を言い合うのでもない。


 ただ相手の間違いを指摘してあげるのが喧嘩だった。


 それは勉学であったり、マナーであったり、ファッションであったりした。


 そうしてより正しい方が上に立つのだ。


 ……喧嘩の場では邪眼を極力使わなかったパレイドリアであったが、その

 完璧な防御スタイルにより、無敗を誇っていた。


 すくりと立ち上がる。


 ふらつく足を踏ん張って、だるさに最小になりがちな動きをあえて鞭打ち動かして、ただ立つだけなのに全神経を振り絞り、そして優雅にスカートの埃を払って直して、そしてピンと背筋を伸ばして、パレイドリアはオルコットに向かいなおした。


 もうこれだけで倒れそうなほど、体力が削られる。


 それでも倒れるならば人目のない所でだと、それがどこでどこまでなのか考えられないほど追い詰められながら、パレドリアは優雅な笑みを浮かべていた。


 それに、やっとオルコットの表情が、ほんの少しだけ歪んだ。


「わーさっすが令嬢様、強固な意志をお持ちですね。ここまでお話して、こんなにも長い時間、私の洗脳に抗える人は珍しいんですよー」


 それでも余裕を見せて演技を続けるオルコット、しかしここで初めて、ミスを犯した。


 そしてそれを見逃さないのがパレイドリアだった。


「洗脳?」


 聞きなれてしまった単語に、脳内に電流走り、そして謎だった部分が一部、理解できた。


 ……洗脳、催眠、思考誘導、これは改革派のあの女が逆ハーレムを作る際に用いた技法だった。


 その細かな部分は疲弊した頭では思い出せないけれど、それでも対抗手段はいくつか覚えていた。


 その一つは、この上なく簡単だった。


「バスゾゾ。バギパジダギグボグゲビゼギダンベ?」


 すらりと出てきたパレイドリアの言語に、オルコットの表情がはっきりと困惑した。


「ガァジャザシ、ボヂサンゲバギンジゾグゾンジャブビボグゼロ『ボンボドダ』パジャブガセバギジョグゼグパベ」


 さらりと出てくる懐かしい母国語に、この異世界の不可思議な翻訳機能は追いついていないようだった。


「ギボグビヅバグゲンゴビジョデデ、ゴバジロンザギゼロリヂヂビザガセスボダゲグバパス、ドゾボバンバビバデガシラギダパ。バンゼロ、ボラババビュガングバゾグバパシドロボゴドンギレレジジャギャブゾグバパデデ、ゴセグボダゲビゲギキョグゾゴジョドグボザドバ。ゴゾンジゼギダ?」


「……あれ―壊れちゃった?」


 なお続けるオルコット、だけれどもその声の意味合いがパレイドリアの中で変わっていた。


 洗脳は、高度な技術が必要とされる。


 人にどう話しかければどう感じ、どう反応するか、いわゆる心理学に属する膨大な情報の元、その中から求める方向へと、言葉や声、リズムに時には仕草なども挟んで、誘導する。


 これは相手の人種や性別、元の宗教や思想などによって使い分けなければならないが、その中には当然ながら言語も含まれる。


 例えば同じ『水』という単語であっても、砂漠地方では貴重なものとの意味も含まれ、逆にスコールの振る熱帯地方ではありふれたものの意味となる。


 その差分、この異世界に来てからの不可思議な翻訳機能で統一していたが、そこから逸脱するパレイドリアの母国語と、オルコットによる洗脳話術がかみ合わなくなる。


 そう言った内容をパレイドリアは母国語で考えるようになると、するりと体が動くようになった。


 洗脳の最初で体の動きを封じ、思考を鈍らせ、無抵抗に落としてからじっくりと本番を行う、合理的でねちっこいやり方ね。


 看破したパレイドリアはようやく献花用ではない本当の笑みを浮かべることができた。


「ジャザシ、ガダブギゾダゴギダベセダ『クウガ』ゾゴヅセビバスボドベ」


 ……変わらず、パレイドリアの母国語をオルコットは理解しているようには見えない。


 けれど、言っている意味、洗脳はもう効かないとは、伝わっている様子だった。


「何よ、それ」


 よほど自信があったのか、オルコットに動揺が現れ、それが一瞬の迷いを呼び寄せ、そして次のミスを生んだ。


 それは些細な、視線の誘導、確かめるため、その手の杖の、光る宝石に目をやった、小さな動作だった。


 それで初めてその光にも意味があると、攻撃であると気が付くパレイドリア、そして改めて己の体を観察すれば、内部より、凡眼ならば顕微鏡を用いなければならないサイズの破壊を確認できた。


 光の影響、今度の反応は早かった。


 バフン!


 邪眼より作り出される、魔力を固めて固体化した黒い粉、瞬時に吹き出し瞬きに合わせて広がると、一瞬にしてパレイドリアの姿を覆い隠した。


 日よけ、光よけ、洗脳よけ、名前も付けてない即興の技ながら、今度の効果は目に見えて現れた。


「な、なんですかこれは!」


 演技とも本心ともとれるオルコットの声を耳にしながら、パレイドリアは黙って己の体の変化を感じ取っていた。


 効果はてきめんだった。


 ふらつきと不自然ないい気持が消え去り、肩の力を抜けばそれだけ安らぎを感じられる。ただしそれが完全ではない。若干引きずる影響は、邪眼だからだた。


 この煙幕を通してさえもはっきりとオルコットの姿を視認できる邪眼、その光を脳裏に写すことにより洗脳はゆっくりとだが確実に進行していた。


 残された時間は少ない。


 計算しながらもパレイドリアはその身を屈めた。


 刹那に頭上を掠める空気の塊、あの吹き飛ばした一撃を、オルコットが粉塵払いに薙ぐいだのだった。しかし今のパレイドリアであれば余裕で見切り、かわすことができた。


 その上で、オルコットは純粋な戦闘能力がさほど高くないとも見破っていた。


「ボセゼゴゴパシギドギダギラギョグ」


 薙ぎによりより広範囲に広がった粉塵の中、パレイドリアは終わらせることを宣言し、そしてその身を隠したまままっすぐオルコットを見据え、邪眼に力を貯める。


「あぁもう、これじゃあ邪眼をコレクションするのは無理ね」


 投げ槍、不機嫌、そして不穏なオルコットの声、杖を持たない右手を腰に当ててガックシと肩を落としていた。


 その身に魔力は見られない。特別な構えも、動きも、あの空気を操る術による防御さえ、見せなかった。


 完全な無防備、だけれどもその顔に諦めは見られず、ただオルコットは、約束された勝利の前の面倒ごとにうんざりしている表情を浮かべていた。


 何かある。とは見てわかった。


 だけれどもなんであるか魔では見破れなかった。


 それでも、パレイドリアは邪眼ビームをぶっ放した。


 極太、粉塵を吹き飛ばし、まっすぐオルコットへ、その威力、人に撃つにはオーバーキルな一撃、早期決着を望む心打ちと、洗脳を封じてなお危機感のないオルコットへの、パレイドリアの気持ちの表れでもあった。


 これを前にしてもまだオルコットは余裕の表情で、だけれども避けることも防ぐこともしなかった。


 ……代わりに天使がその身を盾にして、オルコットを守った。

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