vs ヴァイス・ヴァリエール2
ヴァイスのような豹変は、パレイドリアがこちらに来る前から見慣れたもので、だけども理解しがたいものだった。
格上の相手の靴を舐める、舐めることを許されるというのは、格下のものにとってはこの上ないご褒美であって、跪き、歓喜の涙を流しながらも恐る恐る下を這わせるものだと思っていた。
それが、まるでこの上ない侮辱を受けたかのような、烈火の怒り、豹変からいさかいになってしまうことが常だった。
これを見馴れてはいても理解しがたいパレイドリアは、あまりにも突拍子のない幸運が信じられなくて、混乱して、結果として暴れてしまったのでしょう、と何となく思っていた。
……加えて、このヴァイスの場合は、敵であることを思い出し、そしてこの幸運が罠に見えたのでしょうとも、思った。
それを訂正しようとして、だけども敵同士なのは変わらないので、だからだまってパレイドリアは腰のサーベルを引き抜いた。
飾りだらけで切れ味など考えられてない、儀礼用の刀、それを右手一本で掴んで前へと突き出し半身の構え、見よう見まね程度で下手くそなのは凡眼でもわかるレベルながら、戦う意思を示すには十分だった。
その思いを組んでか前に出るヴァイス、その瞳の黒が濃くなると、人狼化が始まった。
溢れる剛毛、指は太く、爪は鋭く、噛みしめる咢に牙が浮き出る。
その形態より、一瞬沈んだかと思えば、刹那に爆ぜた。
静止状態からのトップスピード、四つ足のような低い姿勢よりサーベルの下を潜っての襲来、見切れても反応しきれるものではない。
それでもパレイドリア、咄嗟にサーベル切り下げるも、見越してたかのような急ブレーキで回避され、できた隙に改めて攻撃を見舞ってくる。
右手、掌底、あるいは爪の引っ掻き、狙いは顔面、見切った邪眼は、ついでにその瞳も見ていた。
左目は黒、右目は黒からジワリと赤へと変色、そして灯りが灯った。
ボ。
風を揺らす程度の静かな音だけ立てて、迫る右手掌に炎が灯り、ヴァイスはまるで喜劇で良くあるパイを顔に叩きつけるやつみたいに、パレイドリアに迫った。
突如の炎に対応できたのは邪眼だけだった。
ほわり、防ぎきれなかった炎が前髪を焦がす。
「なんだその目、飾りじゃないわけか」
ぼそり呟きヴァイス、右手の一撃を弾かれ一歩引くやすぐに次なる行動、両手をだらりと下げて掌をパレイドリアに向けるや炎を噴出、両者の間に紅蓮の壁を造り上げた。
木陰を消す熱い光、その向こうで炎を出すのを左手に任せて右手を引くヴァイス、そして壁越しの貫手を放つ。
炎を目くらましにした奇襲、だけれども邪眼の前には無意味、加えて距離もあってか余裕をもって回避できた。
「オラオラオラオラオラ!」
そのままヴァイスの連撃、放った炎をかき混ぜるかのように大きく小さく円を描く軌道で連打する。
邪眼による見切りプラス
サーベルはただ持ってるだけのお荷物、
それでも攻撃は全部回避でき、相手を観察する余裕ぐらいは残っていた。
ヴァイスの方は、炎を超えてパレイドリアの姿は見えてないらしい。力の限界か人狼化も解除され、その右目は赤の左目は白に変色していた。そして、この連打の中、呼吸を止めているように見えた。
それで、前の戦いの経験が蘇る。
炎の中より振るいだされる無色透明なガス、光の屈折の違いでありありと、広がっていた。それは上に上る煙とは異なる、地に浅く広く広がるもので、加えて出している本人が呼吸を制限しているとなれば毒の類と見て取れた。
やばいですわ。
思うと足に力を籠め、全力で後方へ、跳んで逃げたのはほぼ同時だった。
それを追おうとするヴァイスへ、牽制の邪眼ビーム、ただし力のこもってない、葡萄の一粒のような一発は、移動のぶれもあって命中せず、だけれどもその首に巻いた五色の布を少し焦がした。
それに何の意味があったのかまでは、邪眼では見えなかったが、ヴァイスが驚きと恐怖でギョッとして動きを止めたのは見逃さなかった。
そして再び動き出す前に、両者の間合いは十分に離れていた。
「その目、弾まで出せるのかよ」
届かないなら無駄と言わんばかりに炎を消すヴァイス、赤だった右目を青に変える。
「えぇ、その通り、ですわ。この邪眼、は、出すのと、見るのと、見せるのと、三つの能力、ありましてよ」
訊ねられたなら応えるのが礼儀、これまでの回避運動で息が切れ切れなパレイドリアは、それでも律義に正直に返していた。
それを聞いたヴァイス、左目の白を黒に変え、同時に足腰を人狼にして後ろへと跳び引いた。
「遠距離攻撃、分が悪いか」
ぼそり呟くや、また跳んで、そして素早く木の裏へ、そして一気に逃げ出した。
木と木の間を抜ける速度はやって来た時とほぼ同じ、だけれども前の木を避けた後は必ずそれが背後に来るよう計算しての移動は、確実に邪眼ビームを避けるための動きだった。
ヴァイスは逃げ出した。ただしそれは負けを認めたのでも、勝てないと思ったからでもないと、最後に一瞬見せた小さな表情から、パレイドリアは読み取っていた。
だったら何かをされる前に追いかけるべき、とも思うが、その前に呼吸を整えないととサボってしまう。ズシリと重い足、上がらない腕、元気なのは邪眼だけだった。
……邪眼は見たいものを見せる。
そして今パレイドリアが見たいのは、逃げたヴァイスがどこへ向かうかで、そこには疲労から雑念が取り払われ、見えている映像の正誤すら考えもせず、ただ邪眼が見せるがまま、パレイドリアはその背中を追っていた。
一定の距離離れたヴァイスは方向転換、身を屈め、二足歩行から四足歩行に、速度を落とし、代わりにこちらに姿をさらさぬよう姿勢を低くしながら大回りに曲がっていく。
そうして向かったのはぐるっと反対側、位置的にはパレイドリアの風上に当たる方向だった。
ガサリ、と抜けた先、開けた空間、どうやら事前に焼き払われたらしい広場には、木と蔦とで作られた無数の檻が並んでいた。
檻の中にいるのは、熊だった。
全部同じ種類の黒毛、大人も子供もいて、中には手負いのものも見える。そのどれもが暴れるでもなく、ぐったりと檻の中で寝そべっていた。順番に意味は見いだせないものの、方向はどれも外側を向けられ、ざっくりと円形になるよう、配置されているようだった。
その数をパレイドリアが数えるより先、ヴァイスがその中心に向かいながらまたも瞳が変色する。
右目が赤で、左目が白、見覚えのある配色、そして炎が灯った。
「ぐおおおおおおおおおおおおおお!!!」
背に炎を擦り付けられた熊の咆哮は、まだ距離があるはずのパレイドリアの元まで轟いた。
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