3/3(終)

 次の日、まだ太陽も出ていない時間に、僕は腕時計の小さなアラーム音で目を覚ました。

 周りの人間はほとんど起きていないが、例の情報部屋に顔を出すと、昨日ゾンビの目撃情報があったせいか、五、六人がせわしなく地図とにらめっこしていた。

 その中に、昨日案内をしてくれた彼もいて、眠そうな顔で手元の紙に線を引いている。


 しかし彼は僕に気づくと、手を止めてこちらに向かってきた。


「おお、早いね、君。何か日課でも?」


「いや、もうそろそろ出ようと思って」


 そう言うと彼は真面目な顔で首を振った。


「今はやめておいたほうがいい。ゾンビが出たのは君も知っているだろう」


「しかし、早めに出ておきたいんです」


「でも駅は昨日と違って近い。五キロもないから昼に出れば十分間に合う」


 そんなやり取りをして、結局折れたのは彼だった。

 昨日登って入ってきたバリケードに向かう。やはり高く、これならゾンビが来ても安全だろう。今日は偵察にも行かせない、と言っていた。


 彼はゾンビに出会って、身の危険を感じたらすぐに戻ってくるよう言うと、下にロープを落とした。僕はそれに手をかけようとして、止められる。


「これを持っていってくれ」


 なにかの役には立つだろう、と渡してきたのは、長めのバールだった。ありがとうございます、と受け取り、バックパックにくくりつけると、今度こそ、バリケードの崖をロープ伝いに降りていく。


 入口の方に歩きだして、ふと振り返ると、彼が上から手を振っている。

 僕はそれに頭を下げると、外に向かう。


 真夏といえどもまだ六時だ。気温は高くなく、涼しいといった感じだった。

 あまりの爽快さに深呼吸を一回してから、僕は歩き出す。進むのはもちろん駅方面。ゾンビに出会えることを心の中でそっと祈った。


 数十分すすんだ頃だった。距離にすれば二キロくらいである。向こうから歩いてくる人影が見える。よく目を凝らすと、それは一人ではなく、十数人の一団のようだった。

ゾンビかもしれない、いや、あれはゾンビに違いない、と近づくにつれて確信に変わっていく。


 とりあえず隠れよう、と近くの郵便局に身を潜めた。

 目の前を彼らが通り過ぎたのはそれからだいたい五分後のことだった。


 十数人の集団、いやゾンビの群れと言ったほうが正しいか、の中に、ひときわ僕を引きつける者がいた。

 よく目を凝らすと、どこか探していた彼女に似ている。

 一度そう思うと、それのすべてが彼女に見えてくる。結局、それが彼女の成れの果てであると結論付けるのに、一分もかからなかった。


 ようやく会えた、という喜びを噛み締めている暇はない。軍団はどんどんと道を進んでいく。さっきバックパックに差したバールを手にすると、彼女を傷つけぬよう細心の注意を払いながら、彼女以外のゾンビを処分していく。

 後ろから頭に一発、続けて胴に一発。そうして二分後には、残っているのは僕と彼女だけになった。


 目を見ても、虚ろなままで、こちらを認識している様子はない。たぶん彼女は、自我というものをとっくに捨て去ったのだろう。だからもう僕のことは覚えていないし、僕を僕と気付くこともない。

 つまり、僕がこれからやるのはただの自己満足ということになる。しかしそれでいいと思っていたし、それ以外方法はないのだ。

 最期くらい、自己満足で通させてくれ。


 僕はまずバールを横に投げると、続いてバックパックも投げ捨てる。

 もう一度彼女を見ると、相変わらず虚ろな目をしていたが、その目は確実に僕を認識していた。


 瞬間、彼女の目が大きく見開かれる。一見狂気に囚われたかのようだが、しかしそれはきっと、狂気ではなく本能であろう。

 彼女は僕の方に走り出す。僕は劇的に手を広げる。何も知らない人が見れば感動の再会だろうが、その実、これはただの捕食シーンであった。


 彼女は僕の方に手をかけると、狙いすましたかのように、右肩に歯を立てる。当然といえば当然だが、しびれるような激痛が走る。思考のほとんどをその危険信号に支配されながらも、頭の片隅には奇妙な満足感がずっとこびりついていた。これが僕の求め続けてきた痛みだ。


 僕は痛みとともに筋繊維のちぎれる音を聞いた。高揚感が体中を駆け巡る。不思議な熱さに体が火照っているのを感じた。

 ぼんやりとした視界で彼女を見れば、ちょうど僕を飲み込むところだった。まるで彼女に乗り移ったかのように、喉を鳴らす音が聞こえた。


 地面に仰向けになっているはずなのに、どこかに浮いているような感覚がした。もう視界は閉ざされている。もはや体から意識が切り離されそうなのを、一本の糸でこらえているかのようだ。この後僕はここに放置され、やがて目覚めるのだろうが、そこに僕の意識はない。


 左の太ももに痛みが走り、彼女が次はそこを食べ始めたのに気付いてから、僕は完全に意識を手放した。

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さまよう彼女に、これを捧げよう 御殿あさり @g_asari

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