五日目の朝にごめんなさい
存外、あんな気分でも眠れるものなのだなと思った。
起きて、歩いて、座る。いつもの場所に座って、今日はペンを握らない。ただ、代わりに彼女の方を見つめる。
ガラスケースの中で、彼女は静かに眠っている……ように見えた。ただ、おそらく起きてる、そんな予感がする。
「……昨日のことだけど」
だから、こうして話しかけてみた。反応はない、けれど言葉はそのまま続ける。
「俺は、俺のために誰かにこの話をするつもりは無いよ」
前に言われたように、もうすぐ死ぬから絶対に秘密は守る、なんて状態でも、絶対に。
そこまでを言って、でも、と一つ区切りをつける。
「このまま君が死ぬ時に、モヤモヤしたり後悔したりするのなら……それは、嫌だ」
本当に、自分は弱いと思う。弱いから勝手に悩むし、弱いから善意に勝てない。誰かの差し出した手を跳ね除けるほどの強さがない。
「……ごめんなさい」
起き上がると同時にでた彼女の謝罪は、寝ている振りをしていたことに対してだろうか。
こちらを向いて、じっと見つめる。話をしてということだろう。
「……絵が、上手い方だったんだ。風景とか果物とか。だから、たまに似顔絵を頼まれることがあって」
話を続ける。
「描いて、見せるんだ。そしたら、みんな決まってこう言う。絵が自分よりかっこいい、可愛いって」
話を続ける。
「変な話じゃないか? 俺は相手を描いてるのに、相手から見たその絵は自分とは少し違うものだと認識するんだ。誰も、俺の見る世界を認めない」
話を続ける。
分かってる、それがただの謙遜であることを、今はもうわかってる。
分かってない、ただの謙遜がどれだけの否定に繋がったのかを、あいつらは今もわかっていない。
「昨日、テレビに出てたやつはさ……凄い絵が上手くて。絵風の違いとか、そういうのを一つ飛び越えた先の存在に思えたんだ」
思い出す。
凄いと思った、だからそれを伝えた。帰ってきた言葉は、僕なんてまだまだだというものだった。
それは、否定だ。
その絵をすごいと思った、俺の価値観への否定だ。
「誰かの絵を描くと、その誰かに否定される。それが謙遜なのはわかってても、俺がそう感じてしまう」
だから、俺は誰かの絵を描くことが出来ないんだ。
そこまでを告げて話を終える。納得はしてくれただろうかと、彼女の方を見る。
悩んでいた、考えていた。一体何を? その疑問を回す前に、彼女が静かに口を開く。
「……ご主人様の、その辛さを取り除くことは私には出来ないわ」
ああ、なるほど。約束を守って役に立とうと、そのために考えを回してたわけだ。
「でも……ご主人様が、そういう絵をかけないこと自体にも苦しんでるのなら、そっちはなんとかできるかも」
と、次に出たのは予想もしていなかった言葉。
なんとかする、どうやって? 記憶を飛ばしでも出来なきゃ、そんなこと――、
「私を描けばいいわ」
「……はい?」
「感情論は聞きたくないでしょう? だから、事実だけ伝えるわ――私、自分の姿を知らないの。だから、あなたが描いた私が私の見る私になるのよ。それなら、いいんじゃないかしら」
言葉が出なかった。代わりに、少し笑いそうになった。
彼女は俺をじっと見つめている。俺は堪えきれなくなって、小さく声を出して笑ってしまった。
笑って、笑って……そして、椅子を動かした。
スケッチブックを一枚挟んで、椅子に座った俺とガラスケースの中の彼女は、今日初めて向かい合った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます