第3話 娘(シェフォン)

 おじさまに初めて教えて頂いたことは三つあった。部屋の鍵の開け方 (角度の違う掛け金が三つ組み合わさっていた) 、馬の乗り方 (それまで私は牛しか見たことがなかった) 、ダーツや投げナイフの遊び方だ。 (おじさまはどんな小さな的でも当てることが出来た!)


 重病で亡くなった父の喪に臥せっていた私たち家族に、母の古くからの友人であると言って現れたおじさま……オクティス伯爵は、生活の援助を申し出て、私たち母娘を都にある伯爵のタウンハウスへと引き取って行った。


 それまで山村の片隅で、畑と牛飼いで暮らしていた私の人生は大きく変わってしまった。ここでは朝起きて牛の乳を搾ったりしないし、作男の皆に混じって干し草を担いで回ったり、腰をかがめて野菜を掘り出したりすることはなくなった。


 その代わり、おじさまは私に学問を身に着けさせるおつもりだった。簡単な計算と名前くらいしか書けなかった私に、おじさまは暇に飽かせて自ら教鞭を取っていろいろな学問を教えてくれた。


「君にいろんな知識を身に着けてもらいたいんだ。それが君のお母さんから受けた恩を返すことになる」朗らかな笑顔でおじさまはそうおっしゃっていた。


 山出しの娘だった私にとって、そんな日々は目くるめく刺激に満ち溢れていて、楽しくこそあれ、退屈ではなかった。広いお屋敷はまだ子供だった私には迷路の様で、探検するだけで楽しかったし、お屋敷の使用人たちも明るい子供の声がすると言って笑顔を見せていた。


 母はそんな光景を見て、目を細めていた。私を見ながら、でもどこか別なものを見ているような目で言うのだ。


「大人しくしていなきゃ駄目よ。私たちはここでは居候なのだから」


 そう言われるたびに、私はここが仮の居場所なのだと言われているようで、少し寂しかった。


 母の心は死んだ父に向けられていて、今の生活にわだかまりがあったのだ。それは、分かっていたつもりだったけど。


 華やかな都会での忙しい生活が、悲しみを過ぎ去らせてくれると信じていた。


 私のように……




 おじさまは週に一、二度、秘密の外出をされた。


 使用人たちの目を盗んで、地下室から続く出入り口からこっそりと出ていかれるのだ。なぜそれを知っているかというと、私にだけその出入り口を教えてくれたからだ。


「君にだけ教えてあげよう。お母さんには内緒だよ?」


 子供っぽく笑いかけながら、私の前で棚に仕掛けられた絡繰りを動かして見せて、おじさまはおっしゃった。


 一体どこにいってらっしゃるのかは、その時教えてくれなかったけれど、いつか教えて下さるものと勝手に考えていた。


 その時の私の関心は学問、特に医学に向けられていた。若い娘が都会で暮らすなら医術を身に着けた方が良い、そうおじさまが言ってくれたこともあって、私はお屋敷からさる高名な医学者様の所へ通って教えを受けていたの。


 だから、おじさまが居なくなる時、たまに一緒に母が姿を消していたことに気付いたのは、結構後になってからだった。


 もしかして、お二人は人に隠れて交際しているのかも、と思った。昔はともかく、今のおじさまは伯爵さまで、母は山から出てきた寡婦。世間体というものが都会だと大事なのだと知った私は、そう言ったお付き合いが世に憚られるものなのかもしれないと、漠然と考えていた。


 医学の勉強は楽しかった。先生は特に薬草の栽培と調合法を重要視してらっしゃって、様々な効能の薬品、その精製と栽培の手段、調合の仕方、施薬の方法を伝授してくれた。


 ある時、私は思い切っておじさまにお願いして、自分でも薬草の栽培をしてみたいと打ち明けた。


 おじさまはうんうんと頷いて、


「君の言い分はよく分かったよ。であれば、我が家の所有になっている菜園を自由に使うと良いだろう。今度案内してあげるよ」


 私は飛び上がりそうなほど驚いた。やったぁ!


 その後、私はおじさまの背に掴まって馬に乗り、出かけることになった。


 おじさまの背中は広くて暖かくて、腕を回していると胸がドキドキしたわ。


 でもおじさまからしたら、私みたいな小娘に慕われてもなんともならないわね。


 馬の背に揺られて少しして、その菜園についた。


「私の亡くなった兄が作ったものだ。相当な金を掛けていたが、私には土いじりの趣味がないので、放っておいたものさ」


 そこは小さな納屋と刈り込まれていない伸ばし放題の柴垣、珍しいガラス入りの天井が着いた温室が一体になった建物だった。


「本当にここを使ってもいいんですか?」


「ああ、いいとも。君はいい子だから、別に悪いことに使ったりもしないだろう」


 いい子、なんて言われて、私は頬が熱くなってしまったわ。子ども扱いされて、ちょっと口惜しいような、嬉しいような、不思議な気持ち。


「ありがとうございます! 私、一杯勉強して、いつかおじさまが胸を張って人に言えるような立派なお医者になりますわ」


「ふふふ、そう片意地張らなくてもいいよ。そうだな……勉強も大事だけど、息抜きも必要だ。たまには私と遊びに出かけてくれるようになってもらえると嬉しいな」


「まぁ。……ふふ、善処しますわ」




 お屋敷、先生の家、菜園を行き来しながら、私は成長しました。


 母はどうやら、おじさまのお仕事……先物投資事業の手伝いをしているようだと、その頃気付きました。


「君のお母さんはよく働いてくれているよ」


 ある時、一緒にピクニックに行き、ダーツや投げナイフで遊び、木登りを教えて下さりながら、おじさまは言いました。


「母がお役に立っているのなら、何よりです……私も、おじさまのお役に立ちたいです」


 こんなに色々な援助を戴いているのだから、私がそう思うのは自然な気持ちだったと思う。


 けれどおじさまは、そう言う私に笑いかけるだけだった。


「今はまだ、そこまで考えなくてもいいさ。今はまだ……」


 そう、私はまだ未熟な娘だった。


 私は先生の下で医術の研鑽を積んで、先生の施術を手伝う助手として列席を許された。先生が患者を診て、出された診断に即して薬を調合したり、包帯や湿布を用意するのだ。


 外科手術も、この頃から伝授されるようになった。外傷の処理や虫歯の適切な抜き方を教わるようになって、先生は感心していらした。


 何故と言うなら、外科術は性質上、血の穢れを逃れられない。鮮血を見たり触れたりするのは普通なら神経に堪えるもので、医術者はそれを克服することが成長の第一なのだそうだ。


 けれど私は、不思議とそう言った屈託がなかった。血を見るのも触れるのも、臭いをかぐのも全く気にならなかった。


 私は最初、それは私が元は田舎の山出し娘で、家でしていた農作業や牛の世話をしていたせいだと思っていたけど、だんだんとそうではないらしいと気付き始めた。


 それはある日、私が裏庭でナイフ投げの練習をしていた時のことだったわ。


 一匹の猫が私と的の間に飛び込んで、誤ってナイフの刃を受けてしまったの。柔らかな毛皮が破れ、中から血や内臓がたっぷりと飛び出てしまっていたわ。


 私は猫を拾い上げて菜園に運び、そこで傷の手当をしたわ。知ってる限りの方法を試したの。まず飛び出た内臓を切って縫合してお腹に押し込み、お腹の皮も塗って閉じたわ。血が足りなくなって心臓が弱くなっていたから、脈を強くする薬を脈に打ってみたわ。猫は三日間息が続いていたけれど、四日目の朝には息が止まっていたわ。


 私は思い切って強い薬を作って脈に打ったわ。すると猫は息を吹き返したの。元気になりすぎて、温室に飛び出してしまった位だった。


 そこで猫は見当も付かずに飛び上がって、柴垣にぶち当たったの。固い棘の一杯生えた芝に頭から突っ込んで、助け出した時には血だらけになっていたわ。


 私はまた、治療することにしたの。全身の傷を縫ってやり、今度は不用意に動き出さないように手足の腱を切ってやったわ。完全に治った時には、また繋いであげるつもりだったの。また脈が弱くなっていたから、強い薬を打ってあげたわ。


 猫は寝言を言うようなどろどろした長い鳴き声を上げながら涎を垂らしていたわ。その状態で五日生き続けたの。


 六日目の朝、私が見に行った時にはしこたま血を吐いて、死んでいたわ。


 私はこの時の経験を記録に取っていた。そのノートを先生に見せた時、こう言われたわ。


「なんてことだ! 君はいたずらに命を玩びすぎている! もっと生命に敬意を払いなさい」


 顔を真っ赤にして先生は怒ったわ。きっと先生から見たら、私は冷血な娘だということになるでしょうね。


 でも不思議なことに、おじさまはこうおっしゃったの。


「素晴らしい観察記録だ。君は冷静な科学者の目を持っているね。これからも精進すると良い」


 誰だって褒められたら嬉しいでしょ。身に着けた知識や技術について褒められたら、猶の事。


 私はおじさまに褒めてもらえて、嬉しかった。




 先生の助手を続けながら、動物実験をこっそり続けていた私は、先生が教えてくれないことを覚えていったわ。言葉の分からない動物でも、その反応を見ればどんな薬をどう組み合わせれば、自分が求めている効果が出るのか分かるもの。


 始めは猫や鼠を見つけてやっていたけれど、もっと大きな動物……犬や猿を使えば、人間に近い結果が求められるかもしれない。でも、都にそんな大きな動物はいないわ。


 だから残念だけど、私はそれ以上の動物実験より、新しい薬を作ることに熱中したの。勿論、効果は猫や鼠で試しながら。


 私は手に入る限りの資料や原薬を使って色々な薬を作っては試したわ。そんな中で、あの資料を見つけた。


 先生の資料庫でほこりを被っていたその資料は、昔、都に存在していたという暗殺ギルドの押収品について記されたものだった。どうやらそのギルドでは、世間では知られていない技法を駆使して特別な毒薬を開発していたらしい。無味無臭、身体に入ればたちどころに命を止めてしまう劇薬で、当時の医療関係者はその再現を目指したそうだけど、誰も実現できなかったみたい。


 私は、まだ誰も再現できていないという所に惹かれた。激しい知的好奇心を感じたの。


 瞬く間に菜園は毒薬の実験場に変貌したわ。如何わしい花々や鉱石、発酵する壺や瓶の匂いが温室から漂っていたし、試薬を使って実験するための動物たちを入れておく籠からは絶えず悲鳴のような鳴き声が聞こえていた。


 もしかしたら、それらは人によっては嫌悪感を抱かせるものだったのかもしれない。でも私は何とも思わなかったの。愉しくさえあったわ。


 朝、食事を終えて菜園に行き動物たちの世話をして、昼、先生の下で勉強と助手の仕事をして、夕方に菜園で実験をして帰る。そんな毎日を送っていた。


 母は忙しい仕事の合間にそれを聞いて心配していた。お屋敷に帰ってくるのは日が暮れた後で、女が一人で出歩くのは危険だって。


 でも私は大丈夫だと思っていた。おじさまと出掛けることが多かったから運動には自信があったもの。なんだったら、ナイフの一本くらい投げつけることだってできると思っていた。




 でも、そうじゃなかった。やっぱり私は未熟な子供だったのだ。




 昨日と同じように私は菜園を出てお屋敷に向かっていた。手には鞄を持っていた。


 お屋敷に向かうには一度、人気のない裏路地を通らなきゃいけなかった。そこは周りの家々から出たゴミを入れておく樽や、それを漁る猫や鼠が群れているような場所。物乞いや掏りのたまり場という人もいた。


 いつもより、ほんの少し菜園を出るのが遅れたかな、としか思っていなかったけど、実際にはもう完全に太陽は落ちていたし、その日は月もなかった。家路は足が覚えていたけれど、あたりは真っ暗だったわ。


 誰かが私を背中から抱きしめた。


「うごくんじゃねぇぞ」しわがれた声で囁く息が臭い。私は驚き、恐れていた。一体何をされているのか分からなかった。


「お前、オクティスの娘だな……ついてこい」


 娘? 私が? おじさまの?


 震えて、頭が真っ白になった。私は抱きすくめられたまま後ろへ引っ張られた。


「お前にオクティスはいくらの値段を付けてくれるだろうな」


 営利誘拐! この男 (女性とは思えない力の強さだった) はおじさまを強請るつもりなんだ。


 恐怖に身を固くしたままの私を引っ張って、誘拐犯は路地の奥へ、奥へと入っていったわ。その内どこかの戸口を通って、私は押し倒された。手探りに周りを確かめる間もなく、手を縛られ、轡を噛まされた。


「そこで大人しくしてろ」


 沈黙、周りが静かになって、私は一人になった。


 怖かった。怖かったけど、何とかしなきゃ。私のせいでおじさまにご迷惑がかかってはいけない。


 勇気を出して、縛られた手を伸ばして周囲を探った。真っ暗な部屋で、さして広いわけでもなかったけど、誘拐犯は私の鞄を置いていってくれたらしい。


 手探りで鞄を開け、ナイフを出したわ。肌を切らないように慎重に、手の縄を切った。


 轡を外した私は、壁を触って立ち上がり、戸口を探したの。戸口はすぐに見つかったわ。でも、鍵がかかっていた。


 何とか出られないかしら? そう思って、鞄の中に何か使える物がないか、一個一個思い出す。


 そこで私は、鞄の中にいくつかの試薬を入れてあったことに気付いたわ。一つ一つは、大した効能があるものじゃなかったけど、混ぜ合わせると強力な腐食効果のある薬液になる奴で、お屋敷の地下室の一角で保管していたの。


 思い切って、それを全部開けて戸口の掛け金に振りかけたわ。木と薄い鉄で出来ていた戸口の掛け金部分は異臭を漂わせていた。しばらくして、私が思いっきりナイフの柄で掛け金を叩いたら、まるでよく焼いたパイ生地みたいにバラバラに砕けてしまった。


 外はやはり、真っ暗だった。両端がくっつきそうなほどせり出た屋根で頭の上が覆われていて、星さえ見えない。


 私はナイフを構えて、おっかなびっくり歩いた。誘拐犯を傷つけるつもりはなかった。脅かして、家に逃げ帰るだけのつもりだったの。


 私のいた路地は一本道で、歩いていけば遠くに街の灯りが見えるようになった。同時に、路地の入口に陣取って何かを待っているらしき人の影も、見えた。


 どうしよう。このままナイフの先を突きつけて、大人しく通してくれるだろうか? その瞬間に、うっかり相手を刺したりしたらどうしよう。


 いろんな気持ちがないまぜになったまま、私は足音を殺して人影に近づいた。


 声が届く距離まで近づいてしまった私は、意を決して声を上げる。


「貴方、大人しく私を家に返しなさい。これが見える?」


 男が振り返ったわ。その目は確かに私のナイフを見たの。


 男は何か言おうとしたわ。でも、言えなかったの。


 次の瞬間に男の胸から、きらっと光る金属の輝きが飛び出して、息を塞いでしまったから。


 暗がりでも分かった。男は肺の中に血が溜まり、咳き込むようにそれを吐き出すけど、後から後から血が出るから息が出来ない。


 震える男の背後から別の人の姿が見えた。


「ああ、シェフォン……そこにいたのだね」


 いつもの、耳慣れた、穏やかなおじさまの声だった。


 背後からおじさまに剣で刺されていた男は驚き、目を見開く。何か言おうとしていたけど、結局言えずじまい。


 動かなくなった男から剣を引き抜き、倒れた男を踏み越えて、おじさまは腰が抜けてへたり込んでいた私に手を差し伸べる。


「帰りが遅いから探しに来たんだ。ここは良くない……行こう」


 行こう? どこへ? 人が死んでるのに?


 手を引かれて、私はおじさまの胸の中に抱き寄せられた。


 初めて間近に感じる、大人の男性の肌の温もり。場所は暗くじめっとしているし、何より傍らには死体が転がり、彼は血の滴る剣を握っている。


 私は、名状しがたい興奮を感じた。


「大層驚いただろう。おいで」


「はい……」


「私には敵は多い。これからも君には迷惑をかけるかもしれない……安全のために、君を都から離れた場所に逃がしたほうがいいかもな」


「そんな! そんなの……」


「そんなの?」


「そんなの……嫌です。私は、おじさまと一緒がいい……です」


 陽の光の下ではあり得ないほど、私は大胆な言葉を口走ってしまった。顔が赤らめているに違いないけど、夜闇の中では分からないだろう。


 おじさまは私を腕の中に入れたまま、片腕で器用に剣を鞘に納めた。握られた手はそのまま下されて、剣を手放して空いた手が私の額を撫でた。


 背筋が震えた。心地よいものを覚えた。


「それなら君には、特別な技術が必要になるな」


「特別な、技術……?」


「一人で危機を脱出し……そして障害を乗り越えるための技術だ。君はそこの男が背中を向けている時、声を掛けたね? 君は此処を一人で脱出するつもりだったなら、声を掛けずに背中から刺し貫くべきだった……私のように」


「おじさまのように?」


「私は私が欲する物のためには手段は選ばない。その為には……人も殺すさ。こうして君の身を守るためにはね」


 冷たくも力強いおじさまの手を感じる。


 私もおじさまのために、力が欲しい。おじさまの手を煩わせないように。助けになれるように。


 昔から私の中にあったその思いは、今を置いてなお一層強くなって、私の口を飛び出した。


「私も……」


「ん?」


「私も、おじさまのためなら、人を殺してみせますわ……」


 おじさまが、息を飲んでいるのが感じられた。やがて彼は私の手を引き、歩き出した。


「君の心意気を、私は大事にしたい。行こう。君のお母さんが家で待っているよ」


「はい……」


 私はおじさまとお屋敷に帰った。お屋敷の門を通るまで、私の手はおじさまの手の中にあった。

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