第2話 暗殺者(メーテル)



 贅沢に板ガラスを使った窓が並ぶ外壁、それを囲む青々とした柴垣。通りから離れた裏側が小奇麗な庭になっていると地図にはある。


 私は動きやすく夜闇に溶け込める特別の服を持っている。しばらく袖を通してなかったけど、問題なく着れた。登攀用の鉤縄、錠破りの針金、柱切や戸口止めの楔や蝋など、『潜り』に必要な道具一切を携え、私は出発した。


 本当なら使用人にでも化けて標的の傍に潜って、相手の不意を突きたいところだけど、そんな悠長な仕事は出来ない。さっと行って、殺して帰ってくる。それだけだ。


 門扉は固く閉ざされて、誰も入ってくることが出来ないようになっていたけど、私には関係ない。


 さっと周囲を確認して、人の目がないのが分かったら、門扉の縁に足を掛けて垣を飛び越える。


 人の背丈の二倍はある垣根でも私には無駄だ。


 着地と同時に見えた動く物に、投擲用ナイフを投げる。刃には水牛でも数秒で死に至る猛毒が塗ってある。


 刺さったのは庭に放たれていた番犬だ。猟犬との掛け合わせで出来た黒い毛並みの大型犬で、噛みつかれたら死んでも離さない。


 けど、そいつはナイフに乗った毒を受けて、血の泡を吹いて死んだ。飼い主に気付かせる一吠えも出来なかったのだ。


 前庭はこの規模の屋敷にしてはやや狭いが、一般の市民から見れば十分広い。裏庭はこれよりもっと広いのだから、どれだけ溜め込んでいるのか測れるというものだ。


 裏に毛皮を打った靴で足音を消して近づく。壁際に寄って、中の音を聞くのだ。


 時間から言って、もう食事を終えて私室に戻る頃と思う。取りついている壁からは使用人らのせわしない足音が伝わってきた。


 壁は派手な装飾がされていて、鍵縄が無くても登れそうだった。


 手足を突っ張らせて壁を昇り、雨樋から屋根の上にあがる。今日は月のない新月の夜で本当に真っ暗だ。


 この規模の屋敷には屋根に上って補修や掃除をするための、戸口が付いている。勿論ふつうは中からしか開かないが、大した鍵じゃない。


 四角い戸口の隙間に鋼でも切れる柱切を差し込み、油を垂らして鋸を引く。


 薄い掛け金は造作もなく切れた。


 中に入れば、そこは屋根裏部屋だ。季節柄使わない小間物や、嘗ての子供たちが使っていた玩具や服の詰まった行李が、傾いだ天井まで積み上げられている。オクティスも昔はこれらに触れていたのだろうか?


 手探りで下に降りる梯子を探した。あった。床板にネジ締めで固定され折り畳まれている。


 これも下の階から引っ張り出すのが本来の仕様だが、重たいから無理に動かすと、下の階の者に動きが伝わってしまう。


 だからこれは動かさない。私は別の方法を使う。


 埃っぽい床を這いまわり、私は目当ての物を見つける。私室に使われている吊り燭台を吊っている滑車だ。


 滑車の先の一方は吊り燭台に繋がっている。もう一方は滑車を介して別の部屋に消えていた。


 私は滑車から下へ伸びる縄が通っている穴の隙間から下を覗く。下はどうやら物置のようだ。


 柱切を出して、私は床板を切り始めた。今度は一寸した掛け金を切るよりも時間がかかるから、より慎重に、音を出さないようにしなきゃいけない。


 焦る気持ちの中、一枚一枚床板を切り出して、体一つが入り込める隙間を作る。


 そこからやっと、私は標的と同じ階に立った。物置の鍵なんて物の数に入らない。


 廊下はひと気がなく、最低限の灯りだけがともされていて薄暗い。足元の絨毯は毛が長くて音を吸ってくれるだろう。


 立派な扉の前に立ち、鍵を検める。これも大した鍵じゃない。ほんの少しの手間で破ることが出来た。


 その時、誰かが近寄ってくる気配がした。私はあわてて角を曲がり、柱時計の角に身を潜める。


 足音の重さで誰が近づいてくるのか分かった。使用人の一人が灯りに油を足しに来たのだ。


 足音が隠れている時計まで近づいてくる。緊張を感じた。手が自然と毒塗りのナイフに伸びる。無駄な殺しはしたくない。


 幸いなことに、使用人は時計のある角とは逆方向に進んでいった。私は使用人の立ち去る背中をすり抜けて、標的の眠る部屋の前に戻った。


 蝶番にたっぷり油を吸わせたおかげで、扉は音もなく開いた。


 枕元に置かれた燭台だけに火が灯っている、カーテンの引かれた寝台に膨らみが見えた。


 毒塗りナイフを構え、私は寝台に忍び寄る。緊張で心臓が脈打って、こめかみに痙攣が走る。


 カーテンを捲って標的をしっかり見た。オクティスによく似た壮年の男の顔が静かに寝息を立てている。


 狙うのは心臓。一息に刺し込めば深い傷に毒が回って死ぬ。


 逆手に持ったナイフを振り上げる。全体重を掛けて、振り下ろした。


 柔らかで豪奢な刺繍の入った布団を貫いて刃が徹った。


 一瞬、標的の身体が跳ねあがり、目がカッと見開く。揺らめく視線が私を捉えた。が、その眼差しはやがて曇り、動かなくなった。


 私は標的の目を瞑らせて離れた。他愛ないことだ。昔は何の感情も抱かずに済ませられることだったのに、たったこれだけの作業で息が上がってしまっているのに気づいた。


 すぐにこの場を離れなきゃいけない、脱出しなきゃいけないのに、足が震えて仕方がなかった。


 私は死体の眠るベッドの脇に腰を下ろした。暗い室内に私の荒い息遣いだけが聞こえる。


 気を振り絞って立ち、ガラス窓に寄って外を見た。この部屋が裏庭に面しているのは図面で把握している。


 私は敢えてガラス切りを使って窓を破った。ここから侵入したのだと思わせられるようにしたかったからだ。


 開けた窓は外気を運び頬を撫でた。裏庭にも番犬が放ってあるが、此処からでは見えない。


 鍵縄を窓枠に掛けて、私は外に出た。他の窓の前を通らないようにしなければならない。


 登攀は上るより降りる方が大変だ。特に静かに素早くしなければいけない時は。


 背中に視線を感じる。微かに唸り声も聞こえる。番犬が鼻を利かせ始めているのだ。


 最後の毒ナイフを探りながら砂利敷きの地面に折り、番犬が見えたと同時に投擲した。


 番犬は一鳴きして大人しくなった。誰かの注意を引かなかったか不安になり、私は腹ばいになって息をひそめる。


 暫くそうして、何の動きもなかったから、腹ばいのまま裏庭に入った。刈り込まれた草木の影を渡り、裏通りに面する柴垣の前までくる。後はこれを越えればいい。


 だというのに、裏通りを行き交う人の気配がした。ゴミを漁る浮浪者や野犬の類だろう。早く出ていきたい。この位置は家側から丸見えだ。


 私は意を決して垣根を飛び越えた。とんだ先は石畳、着地の音が僅かにした。見えたのはふらふらと歩く浮浪者の薄汚い背中だった。


 振り返るな、振り返らないでくれ。


 今見たら殺してしまわなければならない。


 浮浪者は酒瓶を呷り……振り返った。


 私は反射的に飛び掛かった。柱切の鋸刃を取り出し、有無を言わさず喉笛を掻き切った。


 倒れ込んで悶え苦しむ浮浪者を捨て置いて私は走った。注目はあいつが引いてくれるだろう。




 全ては終わった。私はオクティスに指定された隠れ家に戻り、身に着けていたすべてを脱ぎ捨てた。


 体が冷たくなっていた。震えが止まらない。きっと私はもう二度と、人を殺すことが出来なくなったのだろう。


 それでいいはずなのだ。もう私は、暗殺者なんかじゃないのだから。


 翌日になって、オクティス伯爵の死が知られると市中で騒ぎになった。


 押っ取り刀で都に戻って来たオクティス……伯爵の弟が事態を受け取ると、奴は事前の打ち合わせ通り、これらが全て銀の剣商会の差し向けた刺客によるものだと周囲に漏らした。奴の取り巻きはその発言を、さも事実であるかのように吹聴するだろう。当然、銀の剣商会は身に覚えのない殺人容疑を受けて騎士団の捜査を受けていた。


 オクティス家のタウンハウスも同じように捜査を受けたみたいだが、まさか十数年前に壊滅したはずの暗殺ギルドの手口だとは、どうやら気付いていないらしい。


 まぁいい。私は待った。奴は約束通りの期日の後、隠れ家にやってきた。


「いやぁ、待たせたな。色々と公の立場というものが出来ると身動きが取れなくなるものだな、えぇ?」


「そう……」こいつの立場なんかに興味はない。


「そう冷たくするなよ」


「いいから早く、薬を渡して。その為に、私は……!」


「分かった分かった。ほらよ、これが薬だ」


 奴は陶器の小瓶に入った薬を渡してくれた。


「こいつを飲ませてやれ。たちどころに楽になるはずさ……」


「……」


「おいおい。礼の一つくらい言ってくれてもいいだろう?」


「……恩に着る」


 何にしても、物は手に入った。取る物も取り敢えず、家へ向かう。




 家の世話を頼んだ作男たちの手で家族は看護されていたけれど、病態は悪化してた。ウルードに至っては顔色が青黒くなり、確実に死に近づいているのが見えた。


「貴方……」私が傍に寄ると、辛うじて反応があった。


「その声は、メーテル、だな……」目があらぬ方向を見て濁っている。見えていないんだ。


「遅れてごめん。薬を持ってきたよ」


「そうか……シェフォンは、どうしてる?」


 夫は同じく病床に伏せている娘の心配をしていた。


 並べて眠っているシェフォンは、まだ体力があるのだろう。顔色は悪く血の気を失っているが、今は静かな寝息を立てていた。


「大丈夫だよ。今は寝てる」


「そうか……ぐふっ」激しく咳き込むウルードに、私は背中を擦ってやったり、水を飲ませてやったりした。


 ようやく落ち着いたウルードに、私は薬を出す。飲みやすい様に、水に溶かした。


「さ、薬だよ。飲んでおくれ」


「メーテル……」夫の目は揺らいでいた。


「どうしたのさ、そんな顔をして」


「こいつを、見ろ。見えなくなった俺の目でも、こいつが何なのかは、分かる……」


 ウルードは自分の被っている布団を捲って見せた。


 私は息が止まった。敷き布団の脇にべっとりと赤黒い血の跡が残っていた。


「俺はもうだめだ……手足の感覚も無くなっちまってる。体中が駄目になってるんだ」


「そんな……そんなこと言わないでおくれよ」


「いいか、その薬はシェフォンに飲ませるんだ。俺は……いい」


「いいって! あんた!」


「いいんだ! それっぽっちしかない薬を二人に分けて、シェフォンが治らなかったらどうするんだ。俺はもう、治りそうにないからよ……」


「そんな……そんなぁ……」


 私は腰が抜けそうなくらい、落胆した。だってそうだろう? 昔の、思い出したくもない過去をほじくり出して、ようやく見つけた希望の芽が、敢え無く摘み取られていくんだ。こんな悲しいことはない。


 目に熱いものがこみ上げてくる。夫の温もりの移った布団に俯いて、私は泣いた。ウルードは私の頭を撫でてくれた。けれど分かる。彼の手は氷のように冷たい。本当に、身体が死にかけているのだ。


 暗い気分で頭がいっぱいになっていた私の背中で、シェフォンが動いているのが分かった。


「うぅん……あぁ、お母さん?」


「ん……そうだよ、お母さんだよ」


「帰ってきてたんだね。嬉しいな……」


「そうかい。お前さんのために、薬を貰って来たんだよ。飲んでおくれ」


 シェフォンは身を起こすと、私から水薬を受け取って、ゆっくり飲んだ。


「ううん、にがぁい……ああ、でも、なんだか胸がすうっとするね」


「それを飲んで、ゆっくりお休み……」


「うん。病気が治ったら、皆で外でお昼を食べたいな。お父さんと、お母さんと、作男のみなさんと……お母さんの焼き立てのパンを……」


「ふふ、そうかい? そうだね……だから、今は休んでなさい」


「うん……」


 娘は薬を飲み終え、また横になって眠った。


 私は夫へ振り返る。ウルードは乾いた顔に一筋の涙を流して、笑っていた。


「お前と一緒になれたのは俺の幸運だったよ」




 それから半月後、ウルードは死んだ。


 朝一番に様子を見に来た私が見つけたのだ。前日もしこたま血を吐いていたが、始終笑みを浮かべていた夫は、死に顔も安らかだった。冒険者時代のたくましい身体が嘘みたいにやせ細って、まるで老人の様だった。


 作男たちに励まされながら、私は葬式をした。既に大分回復していたシェフォンは気の抜けたような顔をして、私の隣に立っていた。


「お父さん……どうして死んじゃったの? 私は元気になったのに……どうして……」


「お父さんはあんたのために、薬を取っておいてくれたんだよ」そう言おうとしたが、やめた。


 娘にまで私のこの、暗く辛い気持ちを与える必要はない。シェフォンはまだ若い。この悲しみを乗り越えて、明るく楽しい未来が待っているのだ。


 私はそのために、死んだウルードの分までこの子を見守らなきゃいけない。




 ウルードの葬儀が終わり、何もかもがそれまでのように元通りになりかけていた、ある時。


 またあいつがやってきた。伯爵を継いだオクティスは、今度は白昼堂々、正面から我が家を訪れた。


「やぁお嬢さん。お母さんはいらっしゃるかい?」


「貴族さま……? う、うちに何かご用でしょうか?」


「あはは、そう畏まらなくていい。私と君のお母さんは古くからの知り合いでね。今日はちょっと、お話に来たんだ」


 物腰の柔らかい振る舞いと端麗な顔立ちで話す姿は、山出しの田舎娘のシェフォンには眩しすぎたのだろう。


 私に来客を伝えにきた時は、頬を赤らめていた。


「娘に何を言ったんだ! あんたは……」


「何も言っちゃいないさ。何もな……しかし、残念だったな。手遅れだったとは。冥福を祈らせてもらうよ」


 庭先に作られたウルードの墓に首を垂れるオクティスだったけど、その目は冷たく鋭かった。


「今日は何しに来たんだ。こっちはもうあんたと話す事なんて何もない。さっさと帰ってくれ」


「そう邪険にするこたぁないじゃないか。お前たち母娘も、父親を亡くして色々と難儀しているだろうと思ってな」


 確かに、それはその通りだった。お役人は土地の権利がどうのこうのと煩いし、家長が居なくなった家の畑は作男たちの手で管理されていたけど、行き届いているとは言い難い。これらを女手で全て管理するのは大変だった。


「俺はね、お前に凄く感謝しているんだよ。今じゃ俺は九代目伯爵。裏の情報網もあって、幾らでも金は作れる身分さ……だから今なら、お前たち母娘の世話くらい、簡単にできる」


「あんたの世話になる気はない」


「そう言うなよ……お前に拒否権はないんだぜ」


 オクティスは懐からナイフを出した。血のべっとりと付いた暗殺用ナイフ……私が奴の兄を殺した時の物。


「こんな田舎に住んでりゃ知らないかもしれないがな……今はナイフ一本からでも使った奴を割り出すことが出来るんだ。お前さんの手の跡が、ばっちり付いてるこのナイフを、俺が騎士団に届けたら、どうなるかね?」


 爽やかな口で、この男はとんでもないことを言いやがった!


「お前の娘も残念がるだろうな。薬欲しさに人殺しまでするような母親じゃあよぉ」


「き、貴様……!」


 形見になった隠し刃に手が伸びそうになる。


 けれどそんなもの、今この場じゃ何の役にも立ちそうになかった。今のオクティスは貴族だ。下手に傷つけることさえ出来ない地位にいる。


「黙って母娘ともども、付いてきな。安心しろ。お前を取って食ったりはしねぇよ」


 にやにやと笑いかけるオクティスを、八つ裂きにしてやりたかった。


 けれど私にはシェフォンを守ってやらなきゃならない使命がある。あいつの、ウルードの分まで。


 そのためなら私は、私は……。

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