リターンイーヴィルス
きばとり 紅
第1話 母(メーテル)
牛小屋で朝一番にすることは、乳を搾ることだ。そしてそれを朝食に出す。
搾りたての牛乳を飲めるのが農家になってからの役得の一つだ。けれど、そのままでは私しか飲めない。
オーブンの上で沸かした牛乳を小分けにして、私は寝床に臥せっている二人の元へ運んだ。
「おはよう。暖かいミルクを持ってきたよ」
並べられた二つの寝床から体を起こした二人の間に座った。
「ゆっくり飲んでね……」
「済まないなメーテル……俺がこんな体じゃなかったら……」
「そんな事言わないで……きっとよくなるわ。ほら、シェフォンもお飲み……」
「お母さん……」
私によく似たこげ茶の髪も、寝込んでいるせいか随分荒れていて、私は心が痛む。
この年頃なら野山を駆け巡って友達と遊んでいてもいいのに。
「お腹空いたでしょ? 朝ごはん持ってくるからね」
切なくなった私はそっと寝室から出た。くじけそうになる自分を励ましながら。
農作業を手伝って貰っている作男たちがやってくるまでに、やらなきゃいけないことは山ほどある。
私は台所に戻ろうとして、足を止めた。
誰かが台所の中に入っている。戸口が開いている。
体が固くなる。泥棒だろうか?
肌身離さず身に着けているブレスレット……あの人が初めて買ってくれた贈り物から隠し刃を出して構える。
音を立てず台所に入って見えるのは、煙突の伸びたオーブン、その上で湧いている薬缶と鍋、手作りの食器棚や机。
一脚だけ置いてある椅子に誰かが座っていた。そいつは艶のない黒いマントで体を覆っていて、つばの広い帽子を斜めに被っている。
「お邪魔してるよ、奥さん。……久しいな、メーテル」
「お前は……オクティス!」
「覚えていてくれて助かるよ」オクティスは相変わらずの伊達男ぶりを見せてにやっと笑いかけた。
「おっと、悪いがその手の物騒なものはしまって欲しいな。……別に俺はお前に危害を加えに来たわけじゃない」
「暗殺ギルドの幹部が何を言う!」
「昔の話だ。今はしがない情報屋さ……お前もそうだろう?」
薄っぺらい笑みでやつは私を舐めるように見た。足の先から頭のてっぺんまで見て、我が物顔で籠の中のパンを取ってかじる。
「ん~、焼き立てだ。今じゃすっかり農家のおかみさんだな。誰もお前が暗黒街で知られた暗殺者だなんて思うまい」
そう、私は後ろ暗い人殺しを稼業にしていた。
ずっと昔、ガキの頃。親を亡くした私は人買いに買われてギルドに入れられ、血のにじむような訓練の末に一級の暗殺者として育てられた。
ギルドには毎日のように仕事があった。狭苦しい都会じゃ、金のある連中はいつも誰かを殺したがっていた。私はギルドの上役に命じられるままに、標的のねぐらに忍び込み、この手で殺した。どんな手段も使った。剣や弓、毒、懐に入り込む為なら娼婦の真似事だって出来るようにされていたし、それが自分のナリワイなんだって思っていた。
けれどある時、ウルードに会ってから全てが変わった。あいつは売り出し中の冒険者で、しょっちゅう遺跡や廃墟に忍び込んではお宝を手に入れたり、貴族や豪商のしがない悩みの解決に当たったりして日銭を稼いでいた。
あいつはある時、私が狙っていた男の護衛に付いていて、そこで私は奴と戦って捕まったんだ。初めてだったよ。仕事が失敗したのは。
私はギルドから『仕事に失敗したら自殺しろ』と教えられていたから、奥歯に仕込んだ毒薬をかみ砕いて死のうとした。でも奴はそれに気づいて、指をかみ切られるのも構わずに私から毒を奪い取ったんだ。
「あんたみたいな綺麗な人が、こんな仕事をするもんじゃないよ」
そう言ってくれたことを今でも覚えている。
その後私は任務失敗者として命を狙われたところを、ウルードの仲介で騎士団に保護された。
暗殺ギルドの情報を話す見返りに。
それまで私は漠然と、任務で失敗して死んでもいいや、と思っていた。でもあの時、ウルードに会って声を掛けてもらった時、死にたくないなって思ったんだ。
それからウルードは騎士団と協力して、暗黒街にあった暗殺ギルドのアジトを襲って壊滅させた。お陰でたんまり報奨金をせしめたウルードは、私の手を取って言ったんだ。
「俺と一緒に遠くへ行こう。もっと広い世界で生きて生けるんだ。君は」
今振り返ったら本当にガキみたいで、ちょっと笑えてくるけど。
私はそれがギルドの道具じゃない、私そのものへの好意なんだと思ったんだ。
そうして私たちは冒険者として暮らして、その内に私が身ごもったから、今住んでる片田舎の農村で慎ましい農家として暮らすようになったんだ。
ここなら、私の後ろ暗い過去を誰も掘り返したりしない、そう思ってたのに……。
「一体何しに来たんだ。帰ってくれ!」
「帰るさ。お前が私の頼みを聞いてくれるんならな」
「私はもう足を洗ったんだ。汚い仕事は他所に持って行ってくれよ」
「そうかな? その割には、今の動きは悪くなかったぞ。音もたてず戸口に寄り、一息で心臓を刺せる構えで近づいた。腕は鈍っていないようだな」
軽口を叩いているが、オクティスの身のこなしに隙は全く無かった。こうして面と向かっていては、私に勝ち目はない。
オクティスは暗殺ギルドの幹部の一人だった。元は貴族だったらしく、その洗練された振る舞いで高貴な連中に近づいて、情報や金品、あるいは命を奪う技術に長けていた。単純な戦闘能力だって、並の騎士と互角以上に剣が使える男だ。
「さて。そんなお前にひとつ、始末して欲しい奴がいるんだ」
「聞く理由がないね」
「まぁそういきりたつなよ。家族の病を治してやりたくないのか?」
う、と私は胸を突かれる思いだった。
「大変だなぁ。この辺りじゃまともな医者や僧侶なんて居ないし、溜め込んだ金をいくら積んでも治らないんじゃ、お前もさぞかし辛いだろう」
「あ……あんたには関係ないだろう!」
「そう、関係ないね。だからこれからは取引と行こう。……お前も知ってる通り、俺たち暗殺ギルドの構成員は市場に出回らない薬や毒を扱う訓練を受けていた。今俺の所に、どんな病状にも通用する特別の薬がある」
オクティスはそう言うと椅子を立って、私の脇を通って戸口に手を掛ける。
「興味があるなら、森の中にある小屋まで来い……待ってるぞ」
「ま、待て!」
戸口を潜ったあいつを追いかけたけど、出た先にオクティスの姿は影も形もなかった。
あたりにはぐらぐらと沸く煮炊きの音だけがしていた。
森の小屋は元々樵が一人住んでいたけど、今は空き家になっている。そこから灯りが漏れていた。
「来たな」
戸口を開けた私を見てオクティスは笑う。
「来てくれると思っていたぞ、メーテル」
「どうして……どうして私なんだ? 他の奴は居なかったのか?」
「お前が騎士団に内通したせいで、構成員が随分死んでしまったからなぁ。まぁ俺はうまいこと逃げられたんだが」
奴は戸口を閉めて鍵を掛けた。もう逃げられない。
「捕まった連中は騎士団の地下で拷問を受けて死んだそうだ……だがまぁ、昔の話だ。今の話をしようじゃないか」
「誰を殺せばいいの……正直、腕が鈍ってる気がするし、ウルードとシェフォンのためにあんまり家を空けられないの。手早く済ませられる相手なの?」
「安心しろ、相手は素人だし、警戒もしていない。今のお前でも容易く殺せるさ。正直なところ、俺がやってもいいんだが、そうすると不味い事情がある」
粗末な寝床と囲炉裏しかない小屋の中、オクティスは熾火の照り返しを受けた顔で私を見る。
暗い過去から、私を捕まえに来た男が話す。
「殺して欲しいのは、俺の兄だ」
八代目オクティス伯爵のタウンハウス……位の高い貴族が都で過ごす時の邸宅は地下二階、地上三階の豪壮な屋敷で、都の高級邸宅が密集してる地域に建っている。
奴は私に家の図面を渡して話した。
「俺の兄、マニング・オクティス伯爵は俺のおかげでたんまり稼いでるのさ。俺が集めた情報を元手に先物投資をしていたからよ。いい兄だったよ。後ろ暗い稼業に手を染めていた俺を何度も助けてくれた」
「そんなお兄さんを、あんたは殺せというんだね」
「そうだ。マニング兄は十分稼げるようになったら、俺を疎ましく見るようになった。俺を仲介せず投資事業を始めるようになっちまった。こうなったらもう、共存共栄とはいかないよな」
でも、オクティス自身が手を下すと足が出る。兄弟仲がさほど良好じゃなかったことは屋敷を出入りしてる使用人や御用商人にも伝わっているからだ。
「お前を今からマニング兄と市場で競り合ってる『銀の剣商会』が雇った暗殺者に仕立てる。勿論向こうはそんなものを使ったつもりはない。だがそこから先は俺の出番さ。俺の情報網で全てを相手に擦り付けてやる。俺は晴れて兄の跡を継いで九代目オクティス伯爵、地位も金も手に入れるって寸法よ」
「約束の薬、用意出来てるんだろうね」
「安心しな、精製は順調に進んでる。早く行って来いよ、仕事が済むまで、俺はカントリーハウスにでも行ってるからよ」
私が要求した仕事道具の一切を準備したオクティスは、去り際に耳打ちしてした。
「急いだほうがいいぜ、手遅れにならないうちに」
そんなことは分かっていた。こんなことをすることを、ウルードは望まないだろう。
でも私はあの二人に生きていて欲しい。だから、もう一度だけ、闇の中へ帰っていくことにした。
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