0.3
どれだけの時間が経っただろう。空からは爽やかな青色が姿を消し、代わりに燃えるような陽の色がそのキャンバスを染め上げている。
私は民家と民家の間、室外機の裏に座り込んでいた。脚に残るじんじんとした熱は引かず、乱れた呼吸もなかなか元に戻らない。
もやし男に膝蹴りを入れた後、すぐに大通りまで出ることができれば良かったのだが、残念ながらそこまでの体力は残っていなかった。男たちの姿が見えなくなってから見つけたこの隙間に滑り込み、それからずっとここに居る。
彼らは先ほど、目の前の道を通り過ぎていった。大男は若干の早足で、もやし男はよろよろと腹を抑えながら。幸いなことに私が逃げ込んだ隙間に目をやることはなく、それからは自分自身の呼吸を除いて、ただひたすらに静寂が続いている。
そろそろ出ても大丈夫だろうか、と身じろぎする。走るのは無理でも、歩いてなら大通りまで行けそうだ。
そして、大樹を探さなくてはいけない。
彼もまた、どこかで私のことを探しているはずなのだから。
目を閉じて、周囲を感じる。家々の中から聞こえる生活の欠片と、遠い日の思い出のような喧騒が僅かばかり鼓膜を震わせるだけで、他には音、例えば人の気配のようなものはしない。その中で存在を主張しているものといえば、私くらいのものだった。
静かに立ち上がって、隙間から頭を覗かせる。左右に目をやるが、やはり人影はない。そっと抜け出すと、私は大通りを目指して歩き出した。
目線の高さまで降りてきた太陽が眩しい。視界を塗り潰す強い光に目を細めながら、今日は一日が長いな、と思った。
海に揺られて、有紗さんたちからアドバイスをもらって、それから大樹を探しに出て。自分の意思で一人になったはずだったのに、その心はいつの間にか彼と共に居ることを求めている。
結局、私はどこまでも自分勝手なのだ。一人で勘違いして、取るに足らない要因にころころと転がされては、それに彼を巻き込んで振り回している。今現在がこうならば、これからも彼に迷惑をかけ続けることになるのだろうか。
さすがの私もそれは申し訳ないし、そうあってはならないと思う。
彼に会えたら、きちんと謝ろう。そして、少しずつで良い、互いを話し合うのだ。
そう決めながらも、私は心の中で苦笑する。
それ以前の問題として、今回の一件で彼に愛想を尽かされていないと良いのだが。
そもそも、謝って話し合うにしても、肝心の本人が見つからなくては元も子もない訳だ。もはや自分の居る位置すらよく分かっていない私に、果たして彼を見つけることができるのかどうか……。軽く肩を落とすと、知らず地面に目が行く。
ふと、前方の夕焼けが何かに遮られた。顔を上げると、誰かが近付いてきている。その人が角から曲がってきたということは分かったが、逆光になっていて顔は判然としない。先ほどの男たちが戻ってきたのだろうか、と身を固くするが、見たところ体格が違う。背は高いが山のような巨躯ではなく、かと言って細すぎもしない。ポケットに手を突っ込んで歩いてくるその姿は——
「あ……」
見憶えのある、気怠げな歩き方。
以前私はその姿を、童話に出てくるブリキのきこりに重ねたことがあった。何年もの歳月を休むことなくずっと一人で歩き続けた、孤独なきこり。
その人は私の下手な例えに苦笑して、こんな風に応えていたのだった。
——おいおい、一人で歩いている訳じゃないぞ。第一、この何年かはいつもお前が居ただろうが。
思わず立ち止まる。それを気にする様子もなく、人影はゆっくりと歩いてくる。
「……大樹」
やがて、その表情が窺える距離にまで近付く。いつも通りの仏頂面。その顔は、どこか怒っているようにも見えた。
当然と言えば当然だ。勝手に一人で飛び出して、海外での貴重な一日を無駄にしてしまった訳なのだから。
無言で目の前に立ち止まる彼に対してしかし、私は何も行動を移すことができなかった。
いざその姿を前にすると、自分が何を考えていて、そしてどうしたかったのか、その形が蜃気楼のようにぼやけてしまって。
それはほんの数秒であったかもしれないし、あるいは数分にも及んでいたのかもしれない。私たちは互いに見つめ合っていて、そんな中で最初に動いたのは大樹だった。
彼は目を伏せると、ポケットから手を引き抜いて一歩踏み出した。
怒られる、と私は身を縮める。距離が近い。
思わず目を閉じた途端、何かで顔を塞がれた。瞼を透かす光が消え、息が詰まる。苦しい。
「……澪奈」
くぐもった声が私の顔に響く。
それと共に感じる、とくとくという一定のリズム。
「ごめん……、ごめん澪奈」
覚悟していたのとは違う台詞が鼓膜を震わせ、私はそこでようやく、自分が彼の腕の中にすっぽり収まって抱きしめられているということに気付いたのだった。
「お前の気持ちも何一つ考えられない、勝手な奴でごめん」
違う。そうだったけど、そうじゃない。勝手なのは大樹じゃなくて、私だ。
想いは膨らんで、それを声にしたい。だけど、できない。
それは決して感情的な問題などではなく、単純に思い切り抱きしめられ圧迫されているからだ。
「頼む。……頼むから、離れないでくれ」
感情が溢れ出している大樹には申し訳ないが、私はそれどころではない。必死に彼の背に手を回し、叩く。
「大樹……あの……息、できない……」
ようやく私の声が届いたらしく、彼は「あ、悪い!」と言いながら身体を離した。酸素が足りなくなった肺に空気を取り込み一息ついてから、私は彼の顔を見上げる。よく見ればその目元には、何か光るものが夕日の色を写して滲んでいた。
「……私こそ、ごめん。大樹は何も悪くなかったのに、勝手なことして」
彼は少し驚いたように目を見開く。瞳に滲むものが、小さく溢れる。
薄い雲が太陽の前を抜けたのか、大樹が背負った陽射しが強くなる。眩しくて目を細めるが、閉じたくはないと思った。これが幻ではないことを信じたくて、もう少し彼を視界に入れていたくて。
感情に乏しい私だから、こんな時にどんな顔をすれば良いのかよく分からない。ただ大樹を見上げていると、ふと彼は目を細めて微笑んだ、ように思えた。
——ああ、そうか。
彼に会えて嬉しいのだから、笑えば良いんだ。
そう気付くと同時に、自然と頬がほころんでいた。
静かな世界の中で、私たちは一緒になって微笑んでいる。ただそれだけの事象に、どうしてこんなにも心が温かくなるのだろう。
それは、一緒にいるのが彼だから。
他の人だったら、こんな風に素直に微笑めないのだろう。
私たちがこれからを共に生きていく意味なんて、そんな些細なものに過ぎなくて。
ただそれだけのことが、きっと大事なのだ。
——ふと。
大樹の背後で、何かが動くのが見えた。そちらに目をやると、誰かがこちらに向かってきている。
大きな影。
私は思わず息を飲む。それは、先ほど私のことを追っていたあの大男だった。
気配に気付いたのか、大樹が後ろを振り向く。彼と大男の視線が交わった一瞬の後、男はゆっくりと立ち止まる。
そして親指を立てると、ニッと笑ってみせた。
え? と思わず声を洩らす私を気にするでもなく、大樹は男に向かって軽く手を挙げてみせる。
一体これは、どういう状況だろう?
それが分かっていないのは、どうやら私だけのようだった。
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