0.4

 ダイヤモンドヘッド——違う。

 カメハメハ大王像前——ここでもない。

 バスが止まる度に目を走らせ、そこに彼は居ないという何かを直感的に感じ取る。そんなことを繰り返しているうち、気付けば見覚えのある道に戻ってきていた。


 海沿いの、賑やかで煌びやかな大通り。

 ワイキキストリートだ。


 傾き始めた陽に淡く照らされた街で、ようやく私はバスを降りた。

 相変わらず人の多いエリアだ。これからホテルに向かうのだろう、キャリーバッグを転がしたり紙袋をぶらさげたりした人が流れてくるのに逆らって、私はより雑然とした方を目指す。


 昨日は気付かなかったが、メインから一本外れた道にも数えきれないほどの店が広がっている。建物としての形をもっているものから、フリーマーケットのようにシートの上にものを並べているものまで、その在り方も様々だ。そんな通りを横に見ながら、私は人混みの中に目を凝らしていく。

 旅行に来た時、私は必ず現地の土産屋を見て回る。ブランドものやファッション系の店ではなく、安いキーホルダーや地元のお菓子が売っているような小さな店を、だ。私の行動を知っている彼だからこそ、私の好きそうな場所に居ることに賭けてみたいと、そう思ったのだ。


 しかし、と辺りを見渡してみる。

 この人混み、この範囲。先ほどのショッピングセンターで一人を探すよりも難易度が高そうだ。

 それでも、直感を信じていれば間違いなく彼を見つけられる。今なら大丈夫だという、理論の欠片もない自信がどこからか湧いてきていて、それだけが私の原動力となっている。

 開けた十字路に出て、ふと立ち止まる。その先に続く道はいずれも、同じような賑わいに包まれている。


 さて、彼が居る方向はどちらだろう。完全な勘としか言いようがないが、今頼りになるのはそれしかない。むしろ、今一番頼りになるものと言っても良いかもしれない。

 私が向かうべきは——

 左。

 そう決めて、歩き出す。店の中にも目を向けつつ、適当なところで違う道に入ってみる。そこにも変わらず喧騒は広がっていて、そんな中を私は目を皿のようにしながら進んでいく。


 人、人、人。視界に入るそれらにしかし、探す姿は見当たらない。

 この道ではなさそうだ、と早々に当たりをつけて、私は脇道に入る。だがそこは、人通りのない裏路地のようなところだった。

 仕方なく戻ろうとして振り返ると、道を塞ぐような形で男が一人、立っていた。


 サングラスをかけた大柄な黒人だ。男は一つ首を傾げると、「レイナさん?」と外国人特有のイントネーションを含んだ日本語で訊いてきた。


 何で名前を……と口にしかけ、思い出す。

 バッグにぶら下がっているトロリーバスのチケット。それに、自分の名前がしっかりと書かれていることを。


 歩いている中で見られたのだろうか。自分自身に意識を向けていなかったので、いつからつけられていたのかも分からない。予想外のことに固まっていると、男はニッと笑って近づいてくる。


「レイナさん。こっち、きて」


 これは、まずい事態かもしれない。それこそナンパどころではない、非常に悪質な匂いを孕んだ何かを察知し、頭の中で警笛が鳴る。


 男が手を伸ばして私の腕を取ろうとする。咄嗟にそれを振り払い、気付けば私は路地の奥に向かって駆け出していた。

 後方で男が何かを言うのが聞こえ、それから走る足音がついてくる。重いものが地面を打ち付ける特有の音は意外と軽快であり、それに私の恐怖心は増幅される。私自身持久力がある訳ではなく、かつ今日は朝から海に出たりしたので、もはや体力は残っていない。男の足音は、少しでも気を緩めれば追い付かれてしまうだろうと理解させるのに十分だった。


 とにかく人通りの多いところへ、と思ったが、どうやら私が迷い込んだのは現地の人々が住む住宅街のようだった。道は入り組んでいて、もし袋小路にでも入ってしまえば一貫の終わりだ。


 走りながら、何で私がこんな目に、とそんなことを思う。

 夕刻時に女が一人で居たのがまずかったのだろうか。海外ではそういうこともあるとは聞いていたが、日本人観光客の多いハワイなら大丈夫だろうと完全に油断していた。それ以前に、そもそも大樹と一緒に居ればこんなことにはならなかったのでは、という今更どうしようもない結論が頭をよぎり、それが無駄に視界を滲ませる。


 近付いては遠ざかる足音に恐怖しながら地面を蹴り続け、時折聞こえる「まって!」という日本語に聞こえないふりをして。

 走って走って走って、息が上がっていく中で、あることに気付いた。

 嫌な、あるいは最悪の展開に。

 ——足音が増えている。


 どすどすと地に響くような音と、もう少し軽い跳ねるような音。それが私の背後から聞こえている。

 角を曲がる時にちらと後ろを振り返ると、迫ってきていたのは先ほどの大柄な男ではなく、もやしのようにひょろりとした金髪の白人だった。その男も「レイナさん、ストップ!」などと叫んでいる。


 冗談じゃない、と心の中で悲鳴を上げながら顔を前に戻し、スピードを上げる。

 こんなところで複数人に追われることをした覚えは全くない。唐突に放り出された訳の分からない現実に目眩がしてくる。


 両の脚がじんじんと熱を持ち始め、やがてその感覚が少しずつなくなっていく。どうやって自分の脚を動かしているのか、もはやよく分からない。

 そんな状況の下でもしかし、私の頭の一部分は妙に冷静だった。


 足を進めながらふと、一つの疑問と仮説が思考に注意を呼びかける。


 先ほど振り返った時、後ろに居たのはもやし男一人だった。

 ……ならば、最初に追いかけてきた大男はどこへ行ったのだろうか。

 考えられることは一つあって、それはつまり——


 一瞬だけ、聴覚に全神経を集中させる。後方から聞こえる軽い足音が一つと、あとは遠く右手から聞こえる足音。

 それだけ分かれば十分だった。


 やはり、彼らはどこかで挟み撃ちを考えているつもりらしい。次の曲がり角か、或いはその次か。土地勘がない故、あの大男がどこから現れるか分からないが、このままではそう遠くないところで捕まってしまう。


 やがて前方に、二股に分かれている道が見えてきた。

 おそらく、あの大男が合流してくるのはそこなのだろう。その手前までに、人が通れそうな脇道はない。


 向かう先は大男が来るので、アウト。

 横に突破口はない。

 そして後ろからは、もやし男が一人。


 どの選択肢にも確実性は皆無だが、今は与えられた手札の中で可能性を考えることしかできない。

 そして、私が進むことのできる道は恐らく一つしかないだろうと、既に心は決まっていた。


 一つ息を吸うと、私はわざと走るスピードを緩める。

 途端に息が切れ、脚が重くなる。後方から迫る足音が近くなる。

 だがまだだ。もう少し。

 男の息が大きく聞こえる。その手が私に向かって伸びる気配を感じる。

 ——今だ。


 片脚が地に着くと共に身体を反転させ、もやし男と正面で向き合う。男の小さな瞳が驚きで開かれるのを見据えながら、私は最後の力を振り絞って地面を蹴り上げた。


 自然と、右膝を突き出した格好になる。

 それは勢いを落とすことなく、一瞬後には男の鳩尾に突き刺さる一撃となった。


 男は後ろに吹き飛び、そのまま地面に倒れ込む。私も巻き添えになりかけるが、ぎりぎりで体勢を立て直し、何とかその横に着地した。目を向けると、もやし男は呻き声を漏らしながら腹を抑え、顔を歪めていた。

 しばらくは動けなそうだ。

 それを僅かばかり見届けてから、私は元来た道を駆け戻る。遥か後方から大男の声が聞こえたが、もう振り返ることはしない。


 その声も足音も、走り続ける度にどんどん小さくなっていく。

 やがて、それらは完全に聞こえなくなった。

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