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 その時の雑誌は、今でも部屋の本棚に大事にしまってある。聞くところによると、それは「碓氷澪奈が笑っている唯一の写真」や「舞台俳優・陽岡大樹の下積み時代のレアショット」として貴重な一冊となっているらしいが、そんなことはどうでも良い。私にとって大事なのは雑誌ではなく、あの日そのものなのだから。

 あれから時は経ち、携帯のアドレス帳に入った「陽岡さん」という名前が、いつの間にか「大樹」に変わった。それでも彼は彼のまま変わることなく、いまいち何を考えているか分からないまでも、あの時の缶コーヒーのような温もりで私のことを包んでくれている。


 そう、それはきっと、今でも。


 一つ、思い出したことがあって、それは初めて彼から誘われて行ったデートのことだった。彼は私が甘いものを苦手であるということを知らなくて、予約した店の前でひたすら謝っていた。その姿が何だかやけに滑稽で、思わず笑ってしまったのを覚えている。


 あの日彼が予約した店。それから積み重ねていった記憶。

 それらを踏まえた上で、昨日のことを思い出してみる。


 ——もしかして。


 バラバラだった事象の一つ一つが繋がって、一枚の絵として私の前に現れる。

 そこに映るのは、不器用だけれども温かい、彼の心だった。


 つまり、彼は勝手なんかではない。昨日のあれは——


「……大樹」

 気が付けば、その名が口から零れていた。


 大樹、大樹。

 君は、まるで空のようだ。いつも読めなくて、焦点が合わなくて。何を考えているか、例えば今のこの状況をどう思っているのかも、結局私にはよく分からないんだ。


 でも分からなくていいし、これから目に見えて変わってもらう必要なんて、ない。

 だってそこには、いつまでも褪せない確かな色があると、ずっと前から私は知っていたんだから。


 これまで一緒に過ごしてきた意味。

 そして、これからを共に生きていく意味。

 それは探すまでもなく、記憶の中にあった。


 熱を持った想いが身体を突き動かして、私は走り出す。周りの風景が激しく揺れながら後ろに流れていく。でも、彼が近くに居るのなら、例え一瞬すれ違うだけでもすぐに分かるはず。だからこの足は止めない。


 夢中でエスカレーターを駆け下りて、入り口まで戻る。彼はこの場所に居ないという無根拠な確信が胸に閃いて、私はちょうど来たトロリーバスに飛び乗った。


 この気持ちの、答え合わせをしに行くのだ。

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